レンタカーで境港から橋を渡りほぼ東の端に小さな湾があり、そこに美保神社があります。
社殿の中はとても風通しの良い空間でよい神様が入ってこられるような気がします。
飾ってあった絵の一枚。風をはらんだ帆に押されて船が湾に入っていく様子がわかります。左手には美保神社が。この地域は美保関(みほのせき)と言われ、古くから朝鮮との交易の拠点だったそうです。
意外なことに鉄の輸出港として繁栄したそうで、山陰地方は砂鉄が豊富だったので鉄の生産が盛んだったということなのでしょう。
近くの安来市(やすぎし)では、どじょうすくいで有名な安来節がありますが、この踊りは実は安来の砂鉄をとる所作をまねたものという説があるそうです。
こちら青石畳通り。雨に濡れると青く見えるそうです。江戸時代後期に敷設されたということ。
彼方に見えるのが大山です。残雪がわかります。
さて美保神社を後にして向かうは足立美術館。こちらは館内の美術品は撮影NGで、お庭だけが撮影できます。
庭園は外に出て歩くことはままならず、館内の窓から見るだけ。これが不満な人もいるようですが、主旨は館内の窓を額縁と考えて、四季折々に変化する自然の美を美術品として鑑賞しましょうということ。
そうすると芸術としての美しさが引き立ちますね。京都でも見るだけのお庭は多いのですが、近代的建築物の中から偏光ガラス越しに鑑賞するというのは新鮮な体験です。
茶室 寿楽庵にて。掛け軸のようになっています。
庭園の設計は足立美術館のサイトには載っていないのですが「昭和の小堀遠州」とよばれた中根金作という人。一方全面にプッシュしているのが創立者の足立全康(ぜんこう)。この方は商売で財をなした人物で新幹線の駅になった新大阪の土地投資で大儲けをしたようです。いつか横山大観の絵を集めることを目標にされていたそうです。見事に目標達成されたのは立派ですが、満足そうな表情を浮かべる全身の銅像はなくてもいいかも。
これがメインの枯山水。借景の緑豊かな山からそのままつながっているように見えます。ディーテールは決して凝っているわけではないのですが全体の調和がすばらしいです。
こちらは池庭。光線がとてもきれいなので錦鯉もすっきりと見えています。
絵画ですが、「HUMAN」と題して人物画の収集展をしていました。美人画が多く、なにげない一瞬の所作をとらえた日本画のよさを改めて実感しました。
これは寺島紫明(てらしましめい)の「舞妓」。
北野恒富(きたのつねとみ)の「鷺娘」。説明に「美人画というのはおしろいが匂い立つようでなければならない」と北野が言ったと書いてありました。確かにこの絵はおしろいとともに女の情念のようなものが伝わってきます。
足立美術館を後にしてその日は玉造温泉の白石家に泊まりました。じゃらんや楽天で評価が高い旅館は各地で何度か泊まりましたが、この白石家は仲居さんに若い人が多く、しかも接客の教育が良くできているのかサービスがすばらしかったです。
翌朝は松江城に行きました。城内にも説明がありましたが、日本の城のなかでも「現存天守」と呼ばれる、江戸時代以前の天守が保存されている城は全国にも12しかなく、有名どころで言えば、姫路城や松本城、彦根城などがあります。こないだ震災の際にわかったのですが、熊本城は西南戦争で焼失したものを1960年に再建したために現存天守ではないのです。
松江城は関ヶ原の戦いのあと江戸時代の初めに立てられた城です。熊本城と同様に黒いのは何故かと調べてみると、黒いのは漆を使っていて防腐効果をねらっていて、白いのは石灰を使っていて耐火対策をねらっているからだそうです。黒から白へ移ったのがちょうど徳川幕府が誕生したときなので、城が黒いか白いかで城の時代がわかるというわけです。
松江城は徳川時代なんだけど非常に初期だったので黒いというわけですね。
下から中に入れます。地階は井戸と塩などの貯蔵庫になっており籠城にも耐えられるようになっています。当然ですが木造の階段で上に登っていきます。
中は鎧などの展示室になっています。水牛か象の牙のような角がついた兜。これでせまられたらコワそうです。でも鎧のサイズを見ると昔の日本人は小さかったことがわかります。江戸時代の男性の平均身長は155cmだったといいますから、今の小学六年生くらいですか。でもものすごい力持ちだったのでしょう。
松江城とその付近のジオラマが年代別にありました。大橋川から北を望んだ風景。
こちらは松平直正が14歳にして大坂冬の陣で真田幸村と闘い、その勇敢さを称えられ敵の幸村から軍扇を与えられたそうです。
直正は37歳のときに松江城の主となりました。直正の父、結城秀康は徳川家康の次男。結城秀康が何故徳川を名乗らないかというと、そのころはまだ秀吉の天下で、秀吉の命令で結城家に養子にいかされてしまったからです。
ちなみに徳川家康の長男の信康は、織田信長に内通の疑いで切腹させられてしまっています。自分の子供なのに名前に上司の名前をいれさせられたあげく、切腹させられたり養子に行かされたり戦国時代ってたまったもんじゃないですね。
こちら天守閣から大橋川を見ています。
この天守は望楼式(ぼうろうしき)といって、360度見渡しがきくようになっています。調べてみると天守には大きく分けてこの松江城のような望楼型と層塔型があり、望楼型は大きな屋根に塔がのっかったような形で、それに対して層塔型は五重塔のように均一に上層部にむかって床が小さくなっていくような様式だそうです。
層塔型のほうが後期のデザインということです。さきほどの黒壁から白壁になったように徳川時代が変わり目だったそうです。やはり関ヶ原の戦いでいろいろな学びがあったんでしょうね。
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