2023年12月28日木曜日

【滋賀】佐和山(石田三成の城址)

 2023年の最後の登山は滋賀県彦根にある佐和山(233m)です。

佐和山にはかつて佐和山城があり石田三成の城として知られていますが、豊臣秀吉以前からもずっと東国勢と戦うための要衝として使われてきました。

北にある小谷山は浅井長政の城として有名ですが、浅井家の時代は小谷山の支城としての位置づけでした。

関ヶ原の戦いの際には西軍を裏切った小早川秀秋の軍に攻められ、城主石田三成不在のまま落城してしまいます。

家康の時代となり井伊直政が近江東部の藩主となったのですが、佐和山城に入城するといかにも石田三成の城を乗っ取ったかのように思われ周りの恨みを買うのがいやなのですぐそばに彦根城を造りました

佐和山城が山の上に築城されたのに対して、井伊直政は自分たちが東国勢なので東の心配は無用で、むしろ西がよく見渡せる湖畔に彦根城を建てたというわけです。


これが登山ルートです。標高たった233mなので登山と言えないくらいですが、道は普通の登山道で虎ロープの場所もあります。

頂上からの景色は北には雄大な伊吹山を眺め、西には竹生島から比良山系、南は彦根の町並みが一望できます。簡単に登れて景色が大変すばらしいのでコスパ最強の山ではないでしょうか?古くから砦や城として選ばれてきただけのことはあります。

ちなみに佐和山に続く尾根のすぐ東側には中山道が通っており鳥居本宿があります。醒ヶ井宿、鳥居本宿はとても風情の残る街道地区でした



佐和山ふもとに城の模型のある駐車場があります。五層構造の立派な城は後で訪ねる龍潭寺の屏風絵が元になっているそうですが本当のところはわかりません。

三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近に佐和山の城」という言葉が知られており、佐和山城は三成にはもったいないほどの城だったわけですから、立派な城であったことに間違いないのでしょう。

ちなみに島の左近とは軍師の島清興(しまきよおき)です。

後ろに見えるのが佐和山城のあった佐和山です。



登山口のある龍潭寺の横には井伊家の菩提寺である清凉寺があります。菩提寺とは先祖代々の墓が祀られているお寺。桜田門外の変で暗殺された井伊直弼は直政から数えて13代目。



龍潭寺の入り口にある石田三成の像。

三成は豊臣秀吉の忠実な家臣として常に秀吉と行動を共にしていたが、朝鮮出兵の際に現地で奮戦していた加藤清正、福島正則たち武将の勝手な行為を秀吉に逐次報告したことが反感を生み、その亀裂を策略家の徳川家康が利用して関ヶ原の合戦という結果となった。

なので、三成には豪快な武将のイメージではなく人望に欠ける事務官といったイメージがつきまといます。



龍潭寺の山門をくぐります。清凉寺と同様ここも井伊家の菩提寺になっているようです。下山後にお寺の中を拝観します。



龍潭寺本堂の横を抜けていきます。



傾斜地に無造作に置かれたかのような墓石の数々。



佐和山城跡への登山路が出てきました。



普通の登山道です。もうちょっと整備されているかと思ったのですが。



「塩硝櫓」とは鉄砲に使われる硝石を保管していた建物のことです。天守の外に設置したのは万一のことを考えてのことでしょうか。地面に穴があいていますが用途は不明だそう。ちなみに遺跡で用途不明の穴のことを土坑(どこう)というらしい。



登り始めて30分ほどで頂上につきました。ここに天守があったそうですが、五層の立派な城が建っていたわりには広くはない。浅井長政の小谷城跡のほうがはるかに規模が大きかった。



喚声をあげてしまうのが北側の伊吹山地の眺め。右が伊吹山(1377m)、真ん中が金糞岳(1317m)、左が横山岳(1132m)。白いエンピツみたいな建物はエレベータ会社のフジテック。



伊吹山を望遠で。夏景色だとえぐれた左の部分が痛々しいけれど、雪化粧に覆われて全体が美しい。伊吹山は2022年10月に登りましたが今年2023年7月の大雨で土砂崩れが発生して登山ができない状態になっています。いつ復旧できるのか不明のよう。



こちらは南側の彦根の町並み。後ろに見えるのが繖山(きぬがさやま)。



西側のびわ湖の景色です。もやで写真では分かりませんが、左に武奈ヶ岳、正面には赤坂山などの高島トレイルの山々が見えます。

たった30分登るだけで三方良しのこの景色、コスパよすぎではないでしょうか



山頂プレートを見つけました。



山頂から少し東側に下ると石垣跡がありました。関ヶ原合戦の西側の首謀者であった三成の城に入ることを拒んだ井伊直政は、佐和山城の使える資材を全て彦根城に持っていき、残りは徹底的に破壊してしまいました。

なので、ここに五層の天守があったなど全くわかりません。この石垣跡も言われなければよくある自然の花崗岩石に見えるでしょう。



伊吹山を眺めながらコーヒー休憩をしたあとは下山路につきましたが、猿の群れに驚きます。どうやらドングリを食べているようです。



墓場を徘徊するサルたち。彦根の冬は厳しいので十分栄養をつけなければならないのはわかりますが、これでは墓参りにお供えもできませんね。



井伊家の菩提寺だった龍潭寺を拝観することにします。



七福神の石像が並んでいますが、いつも忘れるのがこの二人の老神。ハゲ頭が長いのが福禄寿で帽子をかぶっているのが寿老人。二人とも道教の長寿の神様で元々は同一人物(神)だったという説もあるそうです。



龍潭寺のみどころの一つは森川許六の襖絵です。先日、芭蕉の幻住庵を訪ねて芭蕉に思いを馳せましたが、許六と芭蕉は許六が絵画、芭蕉が俳句でお互いが弟子であり師匠であったという非常に面白い関係でした。



龍潭寺のもう一つの見どころの枯山水の庭は真ん中に背の高い石を配置することで統一感と広がりを感じさせる。「ふだらくの庭」という名前が付いています。

ここ龍潭寺では造園のための教育をしていたそうなので、このような素晴らしい庭ができるのも納得です。



ふだらく(補陀落)とは観音菩薩が降臨した伝説上の山で、背の高い石は観音様を表しているそうです。



石田三成愛蔵の名刀の写真。このような重要な遺物が個人蔵になっているとは。博物館に寄贈してほしいものです。



驚いたのが石田三成の頭蓋骨写真!右は父親の正継。正継は三成が関ヶ原にいる間、小早川秀秋の佐和山城攻めに対して奮戦しました。

三成は関ヶ原敗戦後に捕縛され処刑された首は三条河原にさらされたあと京都大徳寺に引き渡されたそうです。写真の説明によるとこの頭蓋骨は大徳寺で明治に発掘されたそうです。



許六の襖絵の仙人たち。芭蕉は荘子を好んでいました。荘子は道教と似ていますが、もっと哲学的で端的に言えば宇宙の雄大さを感じ取れという思想です。つまり人間社会の細事に気をとられるなということで、芭蕉の句に通じるものがあります。



この襖絵、よく見ると仙人が持つ瓢箪から馬が飛び出しています。調べてみると張果老という中国八大仙人の一人で方術使いで有名だそうです。

特にこれは「瓢箪から駒」という諺になっていて、冗談で言ったことが本当になったという意味らしい。聞いたことはないけど「棚からボタモチ」に近いのかも。



この掛け軸の「禅」の字が豪快かつ尋常ならぬ意志の強さを感じさせます。龍潭寺は臨済宗の禅寺で禅宗、荘子、道教、七福神とそれぞれつながりがあって面白い。

でも考えてみると豊臣秀吉にコバンザメのようにくっついて武将たちから嫌われた石田三成のイメージとは全く違いますねぇ。




龍潭寺を出ると山門の上を子ザルたちが今はやりのパルクールのようにアクロバットをして遊んでいました。



帰りに寄った彦根城そばの「つる亀庵」。先月木曽路で本場のそばを食べてきましたが、ここの蕎麦はかなりいい線いってます。昔は伊吹山でとれた蕎麦粉を使っていたので伊吹蕎麦と言うそうですが、ここはもう一度来てみたい。



帰りに佐和山の東にある鳥居本宿を少し見学してから帰路につきました。





2023年12月19日火曜日

【滋賀】幻住庵~国分山(芭蕉の足跡を訪ねて)

 角川ビギナーズクラシック「おくのほそ道」と加賀乙彦さんの「わたしの芭蕉」を読んだので芭蕉の足跡に触れようと思い、滋賀県大津市にある幻住庵(げんじゅうあん)を訪ねます。

(大津市のパンフレット)


松尾芭蕉のおくのほそ道の俳諧旅行は1689年に伊勢に向かうところで終わっていますが、その後、膳所の義仲寺の草庵で新年を迎えます。

その膳所で友人の曲水に勧められ、この幻住庵で4月から7月の終わりごろまで滞在しました。芭蕉が46歳のときです。

「幻住庵記」には、過去10年の長旅で50に近い老体にもガタが来たので「今歳湖水の波にただよふ」と、しばらく琵琶湖のそばに住んでみようと言っています。

筆者はびわ湖を詠んだ句でこれが一番好きです。

四方より 花吹入れて にほの波

昔は今よりも琵琶湖の周囲には桜があったらしく桜の花がびわ湖に舞い入る様子がたいへん美しい。ちなみに「にほの海」とはびわ湖の別名です。鳰(にお)とはカイツブリのことで、カモをちっちゃくしたような水鳥ですが、くちばしが平べったくないのでカモと区別ができます。

同じく幻住庵記には「石山の奥、岩間のうしろに山あり、国分山といふ」と書いてあるので、幻住庵を訪れるついでに国分山にも登ってみようと思いつきました。

ヤマレコ地図には国分山は記載されていないのですが、調べてみると、京阪石山駅から音羽山へ向かう登山コース(4年前に登った)の北側に並行して国分山を通る踏み跡があることがわかったので、そのコースを行くことにします。

こういうコースは間違いなく整備されていない登山道なので歩きにくいこと必定ですが、低山のショートコースなので大丈夫かと。



これが歩いた結果のルートになります。京阪石山駅から南へ歩いて幻住庵を訪ね、幻住庵の裏手から山中に入って国分山とその尾根道を進みます。尾根道は音羽山まで続くのですが、途中で北に折れて変な沼地の横を脱出して帝産バスの焼野バス停でバスに乗車しました。

合計時間2時間40分、6kmの距離で累積標高260mでした。

幻住庵は芭蕉好きなら是非行くべきかと思いますが、国分山の尾根道は予想通り、かろうじて道があるかないかの状況で倒木だらけ、景色もありません。元々が里山なので自然の美しさを感じることもないので、筆者のようなモノズキの方以外には全くおススメしません



京阪石山駅を降りると、芭蕉の像がありました。膳所で芭蕉と言えば幻住庵よりも義仲寺が有名です。芭蕉は木曽義仲をとても好んでいたので自分の墓は義仲寺にしてくれと生前から頼んでいたそうです。

ちょうど今月、中山道歩きで木曽路を歩いてきましたが、木曽路では木曽義仲や巴御前にまつわる史跡が数多くあり義仲人気をうかがわせます。平家物語ではどちらかと言えば義経の方が人気がありますが、何故に芭蕉は義仲のことが好きだったのでしょうか?

筆者は義経のように源氏の家系を意識せず、山野を駆け回って自由奔放に生きた義仲のほうが芭蕉にとって魅力に映ったんじゃないかなと思います。



京阪石山駅から幻住庵までは敢えて幹線道路を通らず、細い道を歩きます。長らく街道歩きをしていると地図を見れば大体古い道筋かどうかわかるものです。

このあたりには昔、国分寺がありました。国分寺とは奈良時代に仏教を広めるために全国に建てられたお寺です。ここの国分寺は火事で焼失したあと、平安時代に国昌寺となりましたが、国昌寺も今は存在しません。



水路の横の道の右手に見えるのが国分山の麓です。幻住庵記には「ふもとに細き流れを渡りて翠微に登る(中腹)こと三曲二百歩~」と書いてあるのでこのあたりを言っているのかもしれません。

このあたりは大津放水路といって増水の被害を抑えるために瀬田川へ流す地下トンネルがり、中へ侵入できないように厳重な柵がほどこしてあります。



幻住庵の入り口です。バス停があります。



パンフレットにあった案内図です。幻住庵は近津尾(ちかつお)神社から左上に少し登った場所にあります。

幻住庵記にも「八幡宮たたせたまふ」とありますが、近津尾神社は昔は近津尾之八幡宮と称していました。



神社にあがる階段を歩いていると、子供が詠んだ句が垂れ下がっていて微笑ましい。



近津尾神社。平安末期に建立。



屋根の上のX字(千木)があるので古い神社であることがわかる。



芭蕉はこの椎の木が気に入ったのもあり幻住庵にしばらく住んでみようと決めます。



案内版にあった幻住庵記の複製です。直筆を見ればどんな人物だったか想像できるのが面白い。几帳面だけど力強い、人から好かれそうな人物に感じます。



これが幻住庵。平成3年に復元した茅葺き屋根の建物ですが、六畳間に加えて、四畳半がふたつあります。時折、弟子などが訪ねてきたかと思いますが、想像していたより大きな家です。

幻住庵記には屋根はやぶれて壁はくずれ狐狸の寝床になっていると書いてあるので、芭蕉が来たときはよっぽどボロボロで動物臭の酷い庵だったようです。



軒先からは石山、瀬田川方面の景色が少し見えました。




庵を出てせせらぎ散策道に行ってみると、幻住庵の管理人の方が、箒で落ち葉やどんぐりの実を履いておられました。こちらに通っては庵の管理と周辺の掃除をされているそうです。

そこで筆者が一句。

「石山の どんぐり掃くは 庵の守」

一応「どんぐり掃く」を季語にしているつもりです。句を作ってみると、つくづく俳句というのは絵画に近いなあと感じます。どちらかと言えば、印象派かな。モネが日本で人気なのも俳句に近いからかもしれません。

せせらぎ散策道にあったのが、「とくとくの清水」と名のついた湧き水。「たまたま心まめなる時は、谷の清水を汲みてみづから炊ぐ」と書いています。



さて、幻住庵を後にして国分山に登ります。幻住庵の裏手から無理やり山に入りますが、道もなく強引に山中に入っていきます。



途中から三角点が出てきました。このルート、ここだけじゃなくて三角点がやたらに多いのですが、送電線の経路になっているからかもしれません。



巨石というほどでもないけれど、石山寺と地質がつながっていることを思わせる。



山に入って20分ほどで国分山(270.5m)の山頂に到着。景色なし。11時半なのでカップヌードルのミルクシーフードを食べる。

幻住庵記に国分山とは書かれていたけれど芭蕉がここまで来たのかどうかははだはだ疑問。多分、飯炊きなどのために薪を拾いに山中に入ったとは思いますが、それも弟子などがやってくれたんじゃないかなぁ。



国分山の尾根道は倒木だらけでとても歩きづらいのですが、新しめのテープがほどこされてあるので助かります。それでも道がはっきりしていないので度々間違えます。



木立の切れ間から見えた景色。本当に景色は何もありません。



音羽山に続く尾根道を行き過ぎて引き返し、北方向で折れて進みます。ヤマレコの踏み跡によると途中で244mの小ピークを越えているように見えるのですが、歩けるような道がないので、沼の方へ進みます。

幸い沼の横に歩ける道があったので歩いて行くと沼地に出てきました。ヤマレコの踏み跡を辿っても結局最後は沼地に出てくるので同じです。

この大きな沼には大掛かりなダムで水がせき止められており、その向こうが造成地になって多くの住宅ができています。



乾いているような場所を選んで沼地を横断しましたが、一箇所ズボっとやってしまい登山靴の片方が無残なことになってしまいました。

最後にこの緑のフェンスまで這い上がり、フェンスをよじ登って越えてほっと一息。立ち入り禁止の看板がかかっています。当然ですね。



ダムの先にできた若葉台住宅地。



バス停に通りかかると偶然にも石山駅行きバス到着の一分前でした。一時間に一本なのになんという幸運。たまにはこういうこともあっても良い。

帰ったら真っ先に登山靴をブラシで洗いましたが、ドロ沼の臭いがしました。

2023年師走、年の最後の登山はなんというか小冒険になってしまいましたが、芭蕉の足跡はしっかり感じることができたので良かったです。