2017年4月29日土曜日

蹴上から大文字山

京阪電車のウォーキングマップを見て、大文字山を歩いてみたくなりました。

地下鉄東西線の蹴上駅下車、「ねじりまんぽ」と呼ばれるレンガ造りのトンネルをくぐってインクライン沿いに上がります。ちなみに「ねじりまんぽ」と呼ばれるのは強度を増すためにレンガをねじって積み上げているからです。

船を運び上げた跡がありました。


日向大神宮(ひむかいだいじんぐう)です。「ひゅうが」ではなく「ひむかい」なんですね。


白く咲き乱れるのはシャガ。


こないだ橋本でシャガを発見したときはめったに見れない花か?と思いましたが、この辺りは惜しみなく咲いております。


日向大神宮の創設は、「第23代顕宗天皇(けんぞうてんのう)の御代に筑紫日向の高千穂の峯の神蹟を移して創建された」と書かれています。第23代ということはそんなに古いくない?と思いきやとんでもなく、平安京を興した桓武天皇で既に第50代なんですね。天皇の歴史おそるべし。

その他、後醍醐天皇が隠岐の島から戻って建武の新政を行った際、新田義貞が武運を祈願して馬を寄進したと書いてありました。これは足利尊氏との戦いの際なのでしょうか。義貞は尊氏を打ち破って九州まで追っ払ったのでとりあえず神様の御加護はあったのでしょう。その後、九州から勢力を巻き返した尊氏にやられてしまうのですが、そこまでは神様も面倒みきれなかったのでしょうか。

筑紫日向とは日本国の発祥の場所で神話と現実がミックスされてミステリーになっているのですが、一応北九州の福岡のあたりと言われています。


元気よく咲くオレンジ色がうつくしい八重山吹。


大文字山頂上までにスポットで景色のよい場所があったので一枚。御池通りと御苑が見えます。


とても気持ちの良い山道です。心が癒されます。


ふと気がついたのですが、地面は岩が多く、このような層になっている。調べてみると太古の昔は深海の底で生物の死骸などが堆積したものが陸地となり、その後下からマグマが隆起して陸を二分し、マグマは冷えて花崗岩となり、マグマに熱せられた陸地はホルンフェルスという変成岩となった。

この写真の岩は恐らく変成岩で堅いのでそのまま残り大文字山と比叡山となり、一方花崗岩はやわらかいので浸食されて京都から山科へ抜ける谷になったということのようです。


木の根が地面に入り込めずに岩をつかむようになっている。土砂崩れとかで剥されそうです。


大文字山に到着。大きく広がる素晴らしい景色です。 パノラマモードで撮影しています。
一番手前に見える緑が金戒光明寺、手前真ん中が吉田神社、吉田神社の奥に御苑が見えます。右上に走る緑が鴨川で、下賀茂神社、植物園、上賀茂神社と見えます。


大文字山が少し下ると大文字焼きの場所に出ます。トンビが気持ちよさそうに滑空しています。


送り火の火床はこのようになっています。去年は大雨だったけど送り火はやっていたのですが、いったいどうやって火をともしたのでしょうか?


これはGoogle Earthの写真。「大」の字の上から降りてきて、左側を通って降りていきます。


まっすぐ降りると銀閣寺の裏手に出てきます。


これが京阪のパンフレットの地図です。今回緑のルートに従って歩きました。
山登り気分も味わえ、景色も最高のルートでした。京都一周トレイルコースなのでやたらと走っている人を多く見かけました。なかには自転車の人も。



角屋と島原

島原は京都の花街として栄えた場所で、角屋は島原で営業していた揚屋さんのこと。揚屋とは遊女を呼んで遊ぶところを言うのだけれど、角屋に関しては娼館としての機能はなく、宴会のみだったそうです。一階が台所だったので客は二階に上がるところから揚屋と呼ばれるようになったという。

角屋は見学ができるようになっているが二階の見学は予約が必要です。

約30分くらいですが二階のお部屋を丁寧に説明してもらいました。残念ながら二階は写真撮影禁止だったのですが、部屋ごとに違う、細部までこだわった装飾が角屋の風格を感じさせました。座敷の部屋がいくつかあり、小部屋は無かったので確かに娼館という感じはしませんでした。

写真は角屋の入口。



角屋敷地内の井戸と立派な木。



自分の写真ではないですが、一番驚嘆したのがこの障子のデザインで、このように右からみると二本線が浮き上がって見えるのに、左から見ると一本線が浮き上がって見える。実際は平坦で、この波状の桟(さん)は木を熱で曲げたりしたものではなく、波状に彫刻したそうです。ものすごい手間のかけ方です。



一階の襖絵。見事な孔雀です。


中庭。


これはお庭ですが、奥に見える黒くなってしまったのは枯れた初代の松だそうです。


一階にあった刀箪笥。ここで刀を預かり、二階の座敷ではリスクフリーで楽しんで頂くという趣旨。でも二階には刀で柱を斬りつけたあとがありました。新選組のしわざと説明されていました。ちなみに新選組の服の色は、浅葱色(あさぎいろ)という薄い藍色で、二階のお座敷の土壁の一部にも使われていました。ただし大部分の壁は蝋燭の煙のせいで真っ黒に煤けてオリジナルの色がわかるのはほんの一部分。


これは外の柱。まったく酔っ払いに刀を持たせるのは恐ろしい。これも新選組だそう。


角屋をでたすぐのところに、置屋の輪違屋(わちがいや)。いまでも細々と営業を続けているらしい。置屋は芸者や遊女を派遣することを生業としているのだが、輪違屋に関しては、お茶屋の機能も兼ねていた。お茶屋は小料理を出すレベルといったところ。

もともと京都の花街は柳馬場二条にあったのを、六条三筋といって東本願寺の北に移動し、そこからまた島原に移したらしい。移動の際のてんやわんやの騒ぎが当時の島原の乱を彷彿させるところから島原と名付けられたといいます。


これは島原の門。普通にタクシーが出入りしていた。


近くにおしゃれなカフェHygge(ヒュッゲ)を見つけたので自家製カレーを食べた。


ちょうとKYOTOGRAPHIEのイベントで、虎屋ギャラリーでフランス国立ギメ東洋美術館の古写真コレクションをやっており芸者さんの写真があった。

丈夫は「じょうぶ」と呼ばれたり「たゆう」と呼ばれたりするが、最高級の位なのだそう。京の島原、江戸の吉原、大坂の新町、長崎の丸山におられたということ。


吉原では丈夫は廃止され、かわりに花魁(おいらん)が誕生した。子供の手を引く花魁の後ろ姿。髪飾りと着物の装飾が豪華だ。


これは鴨川かな?お客一人に4人の芸者さんがついている。キリンビールのビンがあるからそんなに昔ではないのだろう。


2017年4月22日土曜日

京街道 橋本~淀

2/25から早や二カ月、京街道の続きは橋本駅からスタート。

駅前の洋食屋さん「やおりき」。この辺りは昔は大いに栄えた遊郭だったというのは前回の発見だったが、今はお年寄りが多く住む中に建売住宅がポツポツと建っていて、生活感を感じる。


こちらは駅のそばの建物の二階だが、昔は外からこの楼閣の中が見えて、妖しげな美人が流し目を使っていたのではと想像してしまう。


立派な鯉の彫り物。


こちらも二階から三味線の音が聞こえてきそうだ。


淀川の堤防に上がって遊郭跡を裏から見てみた。石造りの土台が立派。昔は一戦交えたあとは煙草を加えてここから淀川の流れを見ていたのかな。


人家の間の細い路で見つけた綺麗な花。調べてみると著莪(シャガ)というアヤメの種類の花らしい。遊郭の時代に植えられたものが未だに育っているのかな。


同じく淀川堤防から。なかなか風情がありますね。


橋本を後にして進んでいく。新しい建売住宅があるかと思えば廃墟もある。大井川を渡ったところにかなり大規模なホテル「リベロ」が廃墟になっていた。白亜の宮殿のようなイメージ。言っちゃ悪いがこんな場所で隆盛を誇った時があったのだろうか。


廃墟の中には車が何台かカバーを掛けた状態で置いてあった。一台はカバーが溶けたように車体が露出しているが、アンティーク車のようだ。このホテルは廃墟とは言え、そんなに古そうには見えない。


調べてみるとコレでした。光岡自動車のビュート。アンティークっぽいデザインで、なんと今でも売っている。このホテル、当然経営破たんしているだろうになんでこれらの車を売らないのだろうか。それとも持ち主が失踪しちゃったとか?


大谷川を越えたところにあった常晶院。男山を背景にしているのでよく目立つお寺だ。


ちょうど石清水八幡宮に向かう京阪のケーブルカーが出発するところだったので慌てて乗り込んだ。ICカードは使えない。5分から10分で到着。


到着駅のすぐそばに階段があり、「100万弗の景色」と書いてあったので登ってみる。男山から京都を見下ろす方向で、右手に比叡山、左手に愛宕山が見える。京都タワーも見えます。

南北朝時代から明治維新の戊辰戦争でも男山が舞台となった戦いは多かったですが、こうしてみると京都を一望にできるこの立地は戦略上非常に有利だなと実感しました。
そもそも男山って平地にボコっと隆起してあるのがどうも妙なのですが、調べてみると男山と天王山はつながっているらしく、一つの山が淀川で分けられたようです。


さて、石清水八幡宮です。宇佐神宮、鶴岡八幡宮とともに日本三大「八幡宮」の一社、と聞くとものすごいようですが、そもそも「八幡宮」って何か知らなかったので調べてみると八幡宮は八幡神(やはたのかみ)を祀る神社で、八幡神とは応神天皇(おうじんてんのう)の神霊のことだそう。応神天皇は誉田別尊(ほむたわけのみこと)以外にいろいろな別名を持っている第15代の天皇で、この天皇の何がすごいのか、なぜ15代だけ特別なのかについてはよくわかりませんでした。応神天皇の前の天皇は実在したかどうかわからないけれど、応神天皇は確実に存在したということくらいかな。でも実際、八幡神は応神天皇だけではなく、いろいろな神様を祀っているようなので、もはや八幡神というブランドが一人歩きしているような状態ではなかろうかと思う。これらは武運の神だったというから、やはり戦略的要地である男山に八幡宮が存在するのはつながっています。


平成28年の2月に国宝に指定され、きれいに塗り直されています。


下りのロープウェイを降りて男山をバックに京阪電車。


淀川の堤防を上がったところでもう一枚。パノラマモードで。


木津川にかかる大きな橋。御幸橋の名の立派な親柱(おやばしら)がある。


木津川を渡ったところに、「さくらであい館」があり展望タワーが無料だったので登ってみました。左が木津川で右が宇治川。

自分は元々大阪に馴染みが深いので、淀川が三つに分かれるように錯覚してしまうんだけど、木津川は三重の伊賀から、宇治川は琵琶湖から、そして桂川は京都市から真北に約25キロ上った佐々里峠という場所が源流。それぞれ違ったところから集まった水が淀川という大河になっている。


宇治川の橋の上を歩きながら西の方角をみるとこの付近の宇治川がいかに自然のまま美しく残されているかがわかる。のんびりカヌーで川下りしてキャンプでもしたいような気分になる。


さて宇治川の橋を越えたら北東方面に向かってあるく。これはラベンダー?たぶん違うような気がするが自然なままの姿のようです。


実はこのラベンダーらしき?花畑はこの道沿い。この道がまさか京街道だったなど街道好きでなければ誰も想像もつくまい。


伊勢向神社。町の通りの引っ込んだところにポツンと小さな屋根が。元々は宇治川の中島で橋が流されないよう祈って建てた神社だったのがこちらに移転された。だからこんなに小さいのですね。


いよいよ終着点の淀城に到着。淀城と言えばまっさきに思いつくのが淀君(茶々)なんだけど、実は淀君の懐妊とともに秀吉が与えた淀城は別の場所にあったということがわかった。次回訪ねることにします。

で、この淀城はと言えば、徳川秀忠(二代目将軍)が松平定綱(さだつな)に築城させたもの。もともとは船上輸送の荷物の集積地だったということ。

江戸時代は川や運河で構成されたような場所だったのですね。伏見城や鳥羽離宮もそうけど昔は水とともに暮らすといった生活だったのでしょう。


現存するのは城壁のみです。


若干堀の跡が小さな川のようになっており、堀の周りを歩けるようになっている。


堀の下から城壁跡を眺めてみました。今年最後の桜の見納めです。