2021年7月22日木曜日

【西国街道】京都~高槻(それとオリンピック組織委員会について)

 緊急事態宣言下の東京でオリンピックが開会されました。

街道とは全然違いますが、今回の開会式までのゴタゴタについて、一言...

人を食ったような態度の森、開会式担当リーダー達の不祥事に続く辞任、特に小山田圭吾の過去の「いじめ」は拷問であり、いったい誰がこんなヤツに国の一大イベントの重要ポストを任せたのかという疑問が沸き上がり、組織委員会について調べてみると、顧問が169名、副会長7名、副事務総長7名、理事35名という異常な数の「上役」に対して、問題のプランニングチームは任命後はお任せで、誰が何をやっているのか上役達は何も関わっていないだろうということがわかりました。また、オリンピック運営の多くを専任された電通が政界、財界の上役達とつながっているので、橋本聖子やスポーツ界、芸能界の人々は忖度して実際何も影響力を発揮できないようにも思えます。

重要ポストに名前が入っていることがメンツのために必要だけれど、直接責任を取らされるのは避けたい(「顧問」「副xx」職が異常に多い)、細かい仕事は下の人間にやらせたらよいという考えが蔓延しており、結果的に最終成果物は現場や業者まかせの「他人事」になってしまったというわけです。

権力者への忖度、コネと保身の日本の悪い組織文化が表面化してしまったように見えますし、高齢化がますます進むと上役の椅子にしがみつく老人達が増えて、問題がより広がる傾向にあるようにも思えます。


さて、閑話休題で街道の話ですが...

中山道歩きがまだ完遂していないのですが、次の長期チャレンジとして西国街道歩きを始めます。

西国街道は、京都~西宮間を言う場合もありますが、京都から下関までを言うときもあります。

京都と下関間の距離は650km、宿場の数は50か所です。ちなみに中山道は540kmに宿場は69か所あります。

やはり中山道は西国街道と比べて山道が多いので多めに休息が必要だったのでしょう。

京都と西宮間を山崎道神戸と下関間は山陽道とも言われます。ちなみに淀川の南側を大阪と結ぶ京街道は以前歩きました


今日は地元の京都から高槻駅まで歩きました。本来の開始は東寺口からですが、中山道と繋がるので、三条大橋からスタートします。

その後、久世橋で桂川を渡り、大山崎を経て高槻駅に向かうルートです。

西国街道と言えば、国道171号線の車の往来の横をトボトボ歩くものだと思っていましたが、実際は171号線そばの住宅街や商店街の静かな道がほとんどで、実に楽しい道程でした。

合計距離が約30キロ、時間は休憩込みで7時間30分でした


今日はオリンピック4連休の初日です。山鉾巡行なしの祇園祭は、神事のみの宵々山です。

先週、2か月続いた梅雨がようやく明けたと思ったら猛暑が続く毎日なので、朝8時に近所の自宅を出発しスタート地点の三条大橋に来ました。今日も暑くなりそう。


今回は暑さ対策で最新型のネックファンを装着。ファンも少し感じる程度ですが涼しく、首の後ろのベルチェ素子がひんやりしてよいのですが、2時間ほどで電池切れ。充電池から給電しながら使いました。


休日の朝の鴨川はジョギングするひとがまばらにいる程度。


九条まで鴨川沿いを南に降りて、写真に映っている東山大橋を右(西方向)へ進みます。


京都九条を歩きます。朝から光線が強い。


京都のシンボルである東寺。西国街道起点の東寺口は、このそばの羅城門跡にあります。


171号線の車道脇を歩くのだろうと思っていましたが、西国街道は国道と並行した静かな道でした。これは嬉しい驚きです。


西国街道歩きで初めてのお地蔵さんです。


久世橋(くぜばし)を通って桂川を渡ります。


遠くに見えるのが愛宕山です。比叡山にポカンと殴られたコブが目印。


このあたりは、昭和34年まで京都市の外の乙訓(おとくに)郡だったので街並みがずいぶん変わります。

以前は一面田畑だったのでしょう。地元の人々は、人々が多く住む場所に肥を求めて桂川を渡ったようです。

豊臣秀次が朝鮮出兵に際してここからの西国街道の道幅を拡張工事したため、このあたりの人々は、西国街道のことを「唐海道」と呼んだそうです。


JR京都線の向日町駅を地下道でくぐります。


向日町の激辛ストリート。去年まで通っていたオフィスが桂川だったので、何度かみんなで来ましたが、特にこの店はホンマに辛かった。


西羽束師川(にしはずかしがわ)に架かる深田橋。田畑の用水路だったようです。


阪急東向日駅を越えて左の道に入ります。角にあるのが、築榊講(つきさかこう)常夜燈。「講」というのは仏教を研究、学ぶグループみたいなものと理解していますが、築榊講とはその一派です。

ここからしばらくゆるい上り坂が続き、一休みできる茶屋が何軒かあったそうです。


いまでもきれいに祀られているお地蔵さん。


地元の商店や家屋が並ぶゆるやかな上り坂。歩いていて楽しい道です。


向日神社。


長岡京市は以前散策しましたが、平安京の前の都であった長岡京の内裏(天皇が住む御殿)のあったあたりが向日神社です。長岡京は10年しか存在しなかったのですが、桓武天皇が島流しにして餓死した弟の早良親王の怨霊を恐れたせい、と言われています。


このあたりの道は歩行者部分が石畳になっていてとても雰囲気が良いです。お寺の名前は石塔寺。


道路標識が(愛称)西国街道と書かれています。道路標識に書かれない正式の道路名称は何なのでしょうか?


令和になっても乙訓の歴史的景観を守ろうとする活動が盛んなようで素晴らしいことです。



小畑川を越えます。写真に撮るのを忘れましたが、通った橋は「一文橋」という名前で、頻繁に氾濫する小畑川にちゃんとした橋を架けようと、通行人から一文銭を徴収して建設費用としたことが由来です。


まだきれいに石畳で整備された街道が続きます。ホント、こんなに良い道だと知っていたらもっと早く歩いたのに...


長岡京市に入ったところにある神足(こうたり)商店街。神足は長岡京市に統合される前のこのあたりの地区の名称です。


こちらは中野家の住宅で国の有形文化財に登録されています。今は、お酒とおばんざいがいただけるお店になっています。涼しい夕暮れ時に行きたい。


鄙びた道を楽しんでいると突如巨大な高速道路が出現します。時々使っているので文句は言えませんが、京滋バイパスの終点の久御山(くみやま)ICから沓掛ICに接続する京都縦貫道路の延長である京都第二外環状道路で、平成25年に開通。

大津、山科方面から丹波篠山へこの高速道路を使って走ると京都の南半分をぐる~っと迂回するので、ものすごい距離を走った気分になりますが、昔も、この地点のことを、調子八角と言って西国街道と丹波街道の分岐点にあたり、ここから丹波国に向けて歩きだしたのです。

調子八角」とは、「調子のいい八角さんという人がいた」わけではなく、この付近に住む調子一族に関係した八角堂があった場所が由来のようです。


秀吉vs光秀の山崎の古戦場を越えたあたりにある石敢當(いしがんとう)は集落や境内の境目で邪気を寄せ付けないために置かれた石で、大山崎の集落を守っていました。

山崎宿は京都からの最初の宿場町で、そのなかでも「高槻屋」は大名も泊まれる立派な宿であったそうです。


JR山崎駅そばの離宮八幡宮。この辺りから強烈な日差しがつらくなってきます。


いい感じの料理屋さん「三笑亭」。離宮八幡宮は、えごま油の発祥地と言われており、油の神様と言われています。

そのそばにある三笑亭は神の油を使った天ぷら屋さんなので、さぞかし美味しいのでしょう。

この角を曲がると京都と大阪の府境です


大阪府の入り口にある関大明(せきだいみょう)神社山城国(京都)と摂津国(大阪と兵庫の一部)の間の関所があったところです。

こちらの住所は大阪府三島郡島本町ですが、天王山を背後に、桂川、宇治川、木津川の三本の川がすぐそばを流れていて、昔は中州で分かれていたことを思わせる地名です。


サントリー山崎蒸留所。5年以上前から値上がりが続いています。


ここから天王山方向へ行くと柳谷観音 楊谷寺、少し南には水無瀬神宮があります。


西山から桂川に注ぐ水無瀬川を渡ります。


再び歴史を感じさせるいい感じの道になります。


JR島本駅そばにある桜井駅跡。西国街道での旅人や物資の運搬に人馬を提供した交通の要所。


ポンポン山の南のふもとにある若山(315m)。こちらを左に迂回して高槻駅方向へ向かいます。若山は太閤道という登山道があるようで歩いてみたい。


3時頃の強烈な暑さの中、太陽光線に逆流して南西に歩くのは非常につらく、畑山神社(はたけやまじんじゃ)で休憩です。

ここから高槻駅までは特に写真に残すような場所はなく、途中で地元の喫茶店「ピーチク」で涼んだあと、JR新快速で京都へ戻りました。

新快速に乗って高槻から京都へ向かっていると、「よく歩いたなぁ」と思います。






2021年7月14日水曜日

【紫陽花】京都大原 三千院

 今年は近畿地方は異常に早い梅雨入りで5月半ばからでしたが、梅雨明けは決して早まらず平年並みだと来週あたりかと言われています。

今日も曇りがちでしたが、気分を変えて久しぶりに三千院にお参りに行きます。

きょうと おおはら さんぜんいん 恋につかれた おんながひとり~」のメロディーは、「女ひとり」がタイトルでデュークエイセスの歌です。

自宅の京都市内から車で40分くらいで京都郊外の緑の濃さに癒されます。

少し遠目の駐車場に停めて落ち着いた歩道を歩きます。


まだアジサイの見ごろ時期です。高野川に注ぐ上流の呂川沿いの道を歩きます。

呂川の北に並行して流れるのが津川で、呂と津は、声明(しょうみょう)の5音階の2つです。「呂律が回らない」というのは、これら音階が正しく歌えていないことが語源です。


入り口である御殿門(ごてんもん)です。三千院は元々は比叡山にあり、皇室関係者が住職を務める門跡(もんぜき)寺院でしたが、明治維新後に大原の地に移転します。

三千院の名前の由来は天台宗の哲学「一念三千」から来ていて、その意味を私なりに理解すれば、「今の一瞬にあらゆる繋がりを感じる」ということです。


建物内は撮影禁止。こちらは、聚碧園(しゅうへきえん)という名のついたお庭。
白く群生しているのは、一年の真ん中である今頃が開花時期の半夏生(はんげしょう)です。



このあと、往生極楽院をお参りしました。撮影ができなかったのですが、こちらには国宝の阿弥陀三尊坐像があります(三千院ホームページより)。

両側に座る菩薩は、若干前かがみになっていて、これは地上で往生した人々を天界からお迎えに下るために腰を浮かした瞬間のお姿だそうです。

また中央の阿弥陀如来の光背の高さに合わせて、屋根が船底のように盛り上がっているのも特徴です。

ちなみに、この極楽院のしきいを跨ぐと下界ですが、しきいの内か外か、はっきりさせない人のことを、「往生際が悪い」と言われるようになったそうです(豆知識)。



三千院の庭は手入れがゆきとどいた庭園と言うよりは、自然が持つわびさびを感じさせる癒しの場所といったところ。

やはり、恋に疲れた女がひとりで来るのによき場所のようです。


上の写真だとよくわかりませんが、石には顔がついています(拡大写真)。


こちらがアジサイ園です。ちょうど雨上がりだったので、美しさが際立ちます。




しだれ桜の後ろにあるのが観音堂。




雨上がりに水蒸気が萌え立つ鞍馬山がきれいです。
帰りに黒檀のお箸を買いました。