まずは淀殿が住んでいた城をめざして淀駅を出発。ちなみに淀駅の前に遺跡として残っている淀城は淀殿とは関係ないことは前のブログで説明しています。
淀駅の北側は昔は太い桂川の支流で、旧京阪国道(昔の伏見街道)沿いに流れていたようです。京都競馬場は複数に分かれる支流をすべて埋め立てた後に建てられたのですね。
京街道から京阪国道へは、いったん石垣の段差を降り、それからまた石垣を上るようになります。この石垣は伏見街道の桂川に対する堤防だったのでしょうか?
少し行くと小さな橋が(五番橋)。明治45年と彫ってあります。この川は埋められずにすんだようです。
妙教寺。ここが昔、淀殿の城があったところ。
石碑があります。調べてみると、ここにあったお城は秀吉が淀殿のために建てたものではなく、建ったのはもっと昔の室町時代の応仁の乱の前だったそうです。だから淀駅の前の淀城と区別して「淀古城」と言っているようですね。
そうやって以前から戦いの場になってきた城を秀吉が改修し、鶴丸を身ごもった淀殿の産所として使わせたということです。淀殿とよばれるようになったのはこの淀城に居をかまえてからで、それまでは茶々だったわけです。あいにく鶴丸は産まれてすぐに亡くなってしまい、もうあきらめたか秀吉は甥の秀次を養子にするのですが、再度身ごもった淀殿が秀頼(拾い)が生まれると、いいがかりをつけて秀次を切腹させてしまいます。秀頼が生まれた時は秀吉は56歳、うれしかっだでしょうね。でもその五年後に亡くなってしまいます。秀頼は秀吉と比べて図体が大きく、秀吉の年齢を考えると父は秀吉ではなかったのでは?といううわさもあります。
こちらのお寺、妙教寺ではお花をきれいに育てておられています。見事に咲いた牡丹。5月で初めて見ました。
これはアヤメだと思います。花びらに模様があるので。
第二次大戦の際に学徒兵として徴兵された木村久夫さんについての石碑です。「きけわだつみのこえ」では痛烈な軍人批判をしています。B級戦犯として現地で絞首刑にさせられたそうです。
ここから淀川沿いにどんどん歩いていると、こんどは戊辰戦争の戦死者の墓がありました。いまだに御参りをされる人々がいるのですね。
道沿いに咲いていた花。5枚の花弁のうち、上の2枚に紫の模様がつき、下の3枚はついていない。自然ってすごいなと思います。調べるのに時間がかかったけど、これはローズゼラニウムという名前です。海外では「貧乏人のバラ」と呼ばれているそうです。
ひたすら淀川沿いを歩いていきます。京街道は淀川沿いを歩くのが多いので単調でもあります。
川沿いにキャベツ畑があります。この辺の畑って私有地なのかな?水量が増えて畑が流れたらどうするのだろうか。
誰かの家の庭に咲いていた非常に大きなブルーの花。大きすぎて少し気持ち悪い。名前はクレマチス。
街道沿いにあったお寺、浄貞院。
非常に立派な樹。これは楠でしょうか。
京都外環状線をくぐったところにある田中神社御旅所。御旅所(おたびしょ)とは神輿の巡幸の休憩に使われる場所。昔はお祭りが頻繁にあったし、土地も一杯余ってたでしょうが、今は駐車場になっています。
ここで桂川が桂川本流と鴨川に分かれます。
大阪ガスの巨大なガスボンベ。
伏見で最も古い歴史をもつ酒造、月の桂。にごり酒や古酒なので実は聞いたことがありませんでした。このあたり伏見は酒屋さんが多いです。キンシ正宗、月桂冠など。
遠くに伏見城が見えますが、この伏見城は本物の伏見城とは似ても似つかぬもの。場所も違うし。なぜこんなものを作ったのでしょう。どうせ作るならちゃんとしたものを作って欲しかった。
久しぶりに見た由美かおるのアース製薬のブリキの広告。最近は昭和をテーマにしたお店にレトロな雰囲気を出すためにわざと飾ったりしていますが、普通の民家に普通に貼ってあるのは今はめったに見られません。
いよいよ鳥羽に近づいてきました。京セラビルが目立ちます。鳥羽については城南宮のブログを参照してください。
次はいよいよ京街道ファイナルです。
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