2017年6月25日日曜日

妙心寺の沙羅双樹と双ケ山

妙心寺に行きました。6月後半の半月だけ限定で、妙心寺にある多くの塔頭(たっちゅう)の一つ、東林院(とうりんいん)が公開されているのです。

東林院は、その庭にある数十本の沙羅双樹が有名で、ちょうど今の時季、沙羅の花が咲く時季なのでそれにあわせて公開しているのです。

正確には東林院にあるのは沙羅の木であり、沙羅双樹ではないのですが、それは後で説明します。

美しいものを皆で鑑賞しようというのはよい心がけですね。ただ入場料が、抹茶とお菓子が付いているとはいえ、1500円と、かなりの破格値でしたが。

これは院の入口の手前に咲いていた銀盃草(ギンパイソウ)です。アルゼンチン原産だそうです。初夏の花なので、ちょうど沙羅双樹の時期に合わせて植えられたのでしょう。



中に入るとすぐに名前を呼ばれ、抹茶とお茶菓子がでてきました。沙羅の花をイメージしたお菓子だそうです。



お庭には何本かの沙羅の木々がありました。沙羅双樹ですが、仏陀が入滅した際に周りの沙羅双樹に一斉に花を咲かせ、そしてすぐに落ちたというお話です。

ちょうどその場面を長谷川等伯が描いた作品、大涅槃図を見た本法寺の記事をご覧ください。インドの沙羅双樹とは種類が違うということですが、絵に描かれている沙羅双樹はもっと大木のようです。




朝に開花し、夕方には落ちてしまうので、一日花というようです。アサガオなんかもそうですね。



花が大きいので、一日だけで落ちるのがもったいないです。この沙羅という木、ナツツバキとも言われ、椿の種類です。椿は花が落ちると斬られた武士の首のように見えるので武士からは嫌われたといいいます。



これらはまだ落ちていない花です。


確かに椿っぽい。



さて、仏陀入滅の際に咲き誇って一気に落ちたという沙羅双樹という木は、このナツツバキと言われる沙羅という木とは異なる種類なのです。

長谷川等伯の絵は正しくて、沙羅双樹の木は30mにもなる大木なのです。


沙羅双樹は耐寒性が弱いので、日本では普通に育たない、だから沙羅双樹の花ににているナツツバキを沙羅と呼んだのでしょう。

ちなみにこれが沙羅双樹の花。さすが亜熱帯の北インドだけありますね。日本人がイメージする仏陀の入滅シーンとはずいぶん違いますが、これが仏教の本場の姿なんですね。



沙羅の木を後にすると蓮の花がきれいに咲いていました。



最近は週に一度はどこかの山に登らないと気がすまないので、山とは言えないのだけれど、雙ヶ岡(ならびがおか)にのぼりました。



嵐電の御室仁和寺駅の南すぐ、住宅が立ち並ぶところに路があり、登るとそれなりに登山道のように見える。ちなみに一の丘、二の丘、三の丘とあり、登ったのは一の丘。二と三は、頂上から何も見えないらしい。一の丘が一番標高が高くて、それでも116mです。



すぐに頂上に着いてしまいますが、登ってみると仁和寺が一望できます。頂上の盛り土が古墳ということですが、どこからか古墳なのかわかりませんでした。秦氏の首長のものだと言われているようです。



こちらは南側の景気。



一の丘を降りて住宅沿いの道にあった小さな祠。ここに咲く紫陽花の紫が深くて素晴らしいので撮りました。





ここ御室は、オムロン発祥の地ということです。



帰りに下立売通(しもたちうりどおり)を走っていると古くから営業を続けておられる山中油店があった。そこの石標を見ると「左 妙心寺」とある。ずいぶん距離があるのだけれど、それだけ妙心寺は有名だったのですね。



山中油店にもきれいな蓮の花が。


2017年6月24日土曜日

神戸にて楠木正成を訪ねる+高取山

今日は本当は金剛山に登って楠木正成ゆかりの千早城などを訪れるはずだったのですが、あいにく雨ということで、楠木正成が最後に戦った神戸に向かった。

JR神戸で下車して山側に向かって進む。いつもは海側にしか行かないから今回が初めてだ。風俗街で有名な福原を通り、出勤する嬢やフラフラと薄暗い店に吸い込まれていく男たちを見ながら小雨降る中を商店街に入る。

この商店街(ハートフル湊川)は左に折れる坂道を登ってまた商店街が続くという変わったつくり。神戸という街は坂道が普通なんですね。京都にいると真っ平なので見慣れない風景。



さて第一の目的地は、楠木正成が最初に陣を張った会下山(えげやま)。健康坂という名前がついています。登ります。



会下山には、大楠公(だいなんこう)湊川の陣があった碑がありました。確かにここからなら、近づいてくる水軍や上陸してくる敵が一望に見渡せ、しかもすぐに攻撃を仕掛けることができます。



会下山に陣を張った楠木軍はまず、弟の足利直義(ただよし)と高師直(こうのもろなお)の軍と対峙します。楠木軍の攻撃で危うく直義は討ち取られるところだったそうですが、数万の主力の尊氏軍が上陸すると圧倒的な兵力に楠木の700騎の兵力は徐々に削られ、東へ押されていきます。

一方、同じく後醍醐天皇側の新田義貞は東に向かう細川水軍を敵の主力だと誤認して東へ進み、楠木と新田の間に上陸した敵の主力に分断され、結局敗走してしまいます。

新田義貞は鎌倉幕府を鎌倉の地で打ち破った功労者なのに、自分だけ出世すればいいような人間に思われてか当時から人気がなかったようです。京都の滝口寺に首塚がありますが、うらびれていました。



湊川の戦いを描いた浮世絵です。



会下山の後は、まだ歩き足りないのと雨が大して降っていなかったので、高取山に登ることにしました。

新しく買ったレインウェアを試したかったのもあります。

ノースフェイスのストライクジェケットとトレイルパンツです。



めちゃめちゃ軽くて附属の袋に入れるとこんなにちっちゃくなってしまいます。裏地が特殊素材で、全然肌にベタベタしないのがいいです。




さて高取山(たかとりさん)に向かって歩き出しますが、本当に神戸というところは坂が多いだけでなく、びっしりと家が建っているのに驚かされます。



くねくねと曲がりながら続く坂道とそれに沿ってびっしりと立ち並ぶ家々。



ようやく高取山の登山口にたどり着きました。



雨がパラパラ降る中を歩きましたが、湿度が霧状になっていてなかなか幻想的です。今回の写真のなかでの一番のお気に入りです。



この写真も我ながら、なかなかいいです。高取神社へ向かう参道の階段。この前にお茶屋さんが2,3軒ありました。雨の日で客がこないせいか、地元のおっちゃんとおばちゃん達が昼からビールを飲んで鍋を囲んでおられました。間違っても茶屋に入れそうな雰囲気ではないです。



参道への階段が途中から勾配を増しています。これは設計ミスか、それとも、わざとそうしたのか?わざとしたとすれば、神に近づくほど厳しくなることを伝えたかったのか?



高取神社です。御祭神は武甕槌尊(たけみかづちのみこと)で、この神はイザナギ命がカグツチ神の首を切り落とした時に生まれた神の一人で、雷と剣の神だそうです。そういえば、こないだ訪ねた貴船神社もカグツチ神の切り落とされた首から生まれた水の神でした。

こちらの神社、お賽銭をあげてお参りしたのですが、横で事務の人がテレビを見ていてお年寄りのせいかボリュームが大きく、お参りの気分がでません。



百合の花。



六鉱山縦走ルートだと高取神社からさらに先へ行くのですが、湊川神社に行かねばならないので折り返し、ただし、長田の方面へ下りました。

そうすると曇りではあるものの神戸の景色が広がりました。坂の上の家に住む人が多いのもこの景色があるからかも知れません。



ポートタワーまで確認できます。前は六甲アイランドにある会社に勤めていたので神戸は懐かしい。



長田に向かう途中の家の庭から外へ大きくはみ出したアサガオ。



長田ではニンニン亭というお店で肉まんを食べましたがふわふわでものすごく美味しかった。中国アクセントのあるおばちゃんはちょっとコワかったですが。

そのあとまっすぐに山手幹線沿いに歩き、湊川公園に到着。あいにく工事中で楠木正成の像も修復工事の対象となっていました。

でも、この像、なかなか良いです。



角度を変えて見ましたが、どうもご尊顔が見えない。死の世界に一歩足を踏み入れているために敢えて顔がわからないようにしたのでしょうか?



真ん中に大きな芝生のエリアがあります。



新開地という場所ももう何十年も足を踏み入れてなかったので、敢えてそのルートを辿ると、流行っているのはパチンコ屋だけという寂しい状態。その横には風俗街。未来を感じさせない場所。



一番の目的地に行くのにものすごい遠回りをしましたが、湊川神社。その奥に、楠木正成が弟の直義、そして家来達と自決した場所がひっそりとありました。

神社にお願いすると中を案内してくれるというので、伝えると、しばらくして担当の方が現れて門を開けてくれました。



その方は、私一人のために20分近くかけて、実に丁寧に自決から神社の由来までの歴史をお話ししていただきました。当然室町時代は楠木は逆賊なのでお祀りするなどもってのほかでほったらかし、秀吉の時代の太閤検地で免税にしたという逸話があるらしいですが、ちゃんとお祀りし始めたのは水戸黄門である光圀のお抱え学者がこの場所を発見し、お墓を建てたことが発端ということです。なんと300年間ほったらかしだったということなので、本当にここかどうかも疑わしいのでは?

思ったのは、この場所はあまりにも海に近すぎて、数万の水軍が大量に押し寄せてくるなか、落ち着いて自決などできないのでは?

それはさておき、天皇の権威を骨子として幕府を発展させていこうという水戸学を唱えた光圀を尊敬する幕末の尊王攘夷派は、それよりも300年前に天皇のために命をささげた楠木正成のための神社を作ったというわけです。

写真ではわかりにくいですが、奥に注連縄(しめなわ)で囲まれた、こんもりとした盛り土が楠木正成自決のその場所です。



この灯篭は銅製で、当時銅の生産を主力にしていた住友家の寄進ということです。灯りの周りの文様が住友のマークです。



楠公様をお祀りする社の中。



これが光圀公が建てた楠公のお墓。でも実際は光圀は関西には足を踏み入れたことはないので、許可を与えたくらい。



最後に光圀の像。隠居した後ですが、なかなか一筋縄ではいかなさそうな爺さんの雰囲気がでている像です。