2022年11月30日水曜日

【西国街道】明石~姫路

 (京都から歩いて姫路城を見れるとは)



登山のオフシーズンに街道歩きをしているので、今回は西国街道の続きです。前回は今年の1月に明石駅(大蔵谷宿)まで歩きました。通算で5日かかっています。

今回は明石駅から加古川で一泊して姫路を過ぎたあたり(姫新線の播磨高岡駅)まで歩きました。

  • 1日目 明石駅~加古川駅 23km 5時間40分 3万歩
  • 2日目 加古川駅~播磨高岡駅 21km 6時間 3万歩
明石から加古川までは国道2号線横の道も多くほとんど街道の面影もないフツーの道でしたが、加古川から姫路まではお寺や神社も多く街道らしさを少し感じさせる道でした。やはり西へいくほど味が出てくるようです。



これが加古川までの一日目のマップです。ブログで記載した場所を示しています。マップでみるとため池の多さが目立ちます。


今回も iPhone 14 Pro で撮影です。全て調整なしでイケるのがすごい。全般的に曇りの天気のほうが自然な写真のように見えます。iPhone Xの時もそうでしたが、晴れの日は空がちょっと青すぎるように感じました。

朝9時半に明石駅に到着して2号線ぞいの街道歩きを始めました。明石のタコの漁獲量は北海道に次ぐ日本2位ですが、最近は漁獲量はめっきり減って最盛期の一割程度だそうです。



明石港。知りませんでしたが今でも淡路島との船便があるようです。1時間に1,2本で運行時間13分。タコの漁港はここではなくもうちょっと大きい林崎漁港。



明石川。



西明石駅。立派な新幹線の駅が背中側にありますが、こちらはローカル駅らしい。



大久保町。神輿倉らしき建物。2号線の北には神戸刑務所があります。最大収容2000名。



大久保は昔からある集落なので風格があります。江戸時代から酒造が盛んであったそうです。昭和の初めで大久保の海岸で人骨の化石が見つかり明石原人と騒がれたけれども、学者による鑑定はされず、東京に移された骨は東京大空襲で焼けてしまったそうです。



「明治天皇御小休止所」の石碑が立っている場所にある洋館。屋根が陥没していて倒壊しそう。調べてみると大正8年に建てられた安藤家洋館と言われるもので、明石市としては文化財として保護したいと考えている一方で、現在の所有者は文化財にされるとお金がかかって大変なので拒否しているそうです。

この洋館、屋根に3つの丸窓がある変わったデザイン。遠くに山を見ながら紅茶でも飲むつもりだったのでしょうか。発注者の安藤新太郎は残念ながら完成間近にして亡くなってしまったそうです。



金ケ崎集落を過ぎて旧魚住村にきましたが、このあたり非常に多くのため池があるのに気付きます。兵庫県は全国で一番ため池の数が多いそうで、なんと4万7千個のため池があるようです。

地図を見ると加古川より西には目立った川がない割には、農業に適した広大な平地が広がっているから農業用水の確保は非常に重要であったのでしょう。



魚住村の清水郷にある立派な碑。説明版を読んでみると、江戸時代、ここ清水郷から離れた場所で新たに土地を開拓した者が水利を横取りしたせいで、水利が足りなくなり農業に大打撃を受けたので、勇士5人が身の危険を顧みず上訴したことで水利を勝ち取ったことを記念した石碑だそうです。

ため池が非常に多いことから水の確保がどれだけ大変だったかを物語る石碑ですが、身の危険があるほどリスクが高かったというのが印象的です。普通に考えれば後から来た人が横取りしたのだから勝訴して当然のようにも思えますが、江戸時代の農民の地位はよっぽど低かったのでしょう。



清水郷の清水神社。説明版に「清水のオクワハン」というのが無形文化財に登録されていると書いてある。田植え後の日曜日に木製の鍬を掲げて歩きまわる御祭りだそうです。最近読んだ宮本常一さんの「山に生きる人々」に、当時は鉄が高価で一般の農民は入手できず、山に住む木地屋と言われる人々が木製の鍬を作って平地の農民に売ったそうです。



本殿脇の神社を覗いてみるとお不動さんと役行者が。近くに山もない農村で山岳仏教とは何故でしょう?何処から移されたのかな。



土山集落に入ってきました。趣のある街道です。明石市から加古川市に入ってきました。



長松寺境内にある銅像。右が曹洞宗開祖の道元。20代の道元が中国(宋)で修行をしていたときの話。寺の炊事係(典座てんぞ)の高齢の老人が暑い日に干し物(シイタケ?)をしている。道元「若いもんにさせればいいのに」老人「自分ですることが大事なのじゃ



これは長松寺開祖を祀ったお墓ですが、石龕と書いて「せきがん」と読むのですね。この「龕」という字、「龍」の上に「合」が乗っている難しい字ですが、仏を納める構造物の意味があるようです。



この一休さんみたいな像も長松寺の境内にある像で、心の塵(煩悩)も落ち葉と同じように掃いても掃いても積もってくるものよ、という意味のことばが書かれています。

心の清浄を毎日努めて保つことが大事なのですねぇ。



新在家に入って野口神社。そばには野口城があった。



すぐそばの教信寺。平安時代の教信上人の庵跡に建てられたお寺。教信上人は念仏を唱えながら街道歩きの旅人の荷物運びを手伝ったそうです。後の念仏踊りの一遍上人も庶民派仏教の先輩としてこの地で念仏踊りを披露し、それが播州音頭になったと書いてあります。

一般的には念仏踊りが能になったとも言われています。能には先祖の霊がよく出てくるのも念仏踊りの名残りだそう。



加古川駅に近づいてきました。西国街道は今のところ中山道と違って街道沿いの仏像類がほとんどありません。これはお不動さん。



胴切れ地蔵。ここに住む農民が間違って大名行列の前を横切ったせいで、胴体を真っ二つに斬られた。斬られた農民がハタと気が付くと胴がつながっており、横に胴体が切られたお地蔵さんが転がっていたそうです。



加古川から水路を引いたのでしょう。ため池と違って川沿いは水の心配も少なく農村が発展しやすい。



西国街道は中山道と違って宿場町の片鱗もないのでどこが本陣だったかも全くわかりません。面影を感じさせる建物ですが、これは新しいので違うような気がする。



本日の宿は加古川駅近くのスーパーホテル。文明の進歩を感じさせる今風の安眠にフォーカスした高機能ホテル。

大浴場付きで、源泉は大阪阿波座で掘削したお湯と書いてあるので、大阪からタンカートラック等で運んでくるのか?お湯はとろみのある弱アルカリで確かに良いお湯です。

朝食バイキングつきで7100円でした。満足度高し。



2日目。12月1日。気温がぐっと冷えて冬到来です。2日目のマップをまとめてみました。



加古川駅前にあるデパート「ヤマトヤシキ」。明治創業の歴史あるデパートですが姫路本店は閉業。現在加古川店のみでラオックスグループ傘下のようです。



加古川を渡ります。丹波の山を源流にする兵庫県で最長の川だそうです。



加古川を越えて米田地区に入ると、民家の間に鳥居が。こういう風景も珍しい。加古川市から高砂市に変わります。



鳥居をくぐると民家の奥に社があります。妙見宮と書いてあります。今年、大阪能勢の妙見山に登りましたが、妙見とは中国で生まれた北極星(北辰)信仰で、これが仏教と習合して妙見菩薩になりました。街道沿いのお寺で見かけるのは初めてかも。

本殿の横にパジャマみたいなもんが干してあるけどいいのかな。



?右宝殿」と書いてある。ここを南西に進むと宝殿山があり中腹にある生石(おうしこ)神社には巨大な石を神体として祀っているようです。立ち寄ればよかった。



GoogleEarthで見る生石神社。露呈した山肌が生々しい。こんな場所が兵庫県にあったとは知らなかった。

地形を見ると瀬戸内海を挟んだ讃岐地方に似ているように見える。讃岐も宗教センターでこちらも宗教センターになっている。



阿弥陀村に入ってきます。農村でこんな高尚な名前がついている場所は珍しい。街道の先に見えるのが高御位山(たかみくらやま)。300メートルほどの低山ですが切り立った山容から播磨アルプスと言われているらしい。六甲山と同じ時代の堆積岩のようですが、いままで平坦な地形であったのに対して突然現れる急峻な地形に面食らう。



阿弥陀村の神爪にある神爪五輪塔。白く輝く石は竜山石。



高御位山(たかみくらやま)の南側を通り抜けていきます。さきほどの五輪塔のようにここで採石される竜山石は日本各地で使われたそうです。山が切り立っているのは採石の影響もかなり大きいと思われます。



阿弥陀村魚橋にある安楽寺。



すぐ隣には正蓮寺。比叡山最澄の後を継いだ円仁慈覚大師が、奇岩の山容を見て建立した書いてある。



奇岩に沿って寺院が続きます。日本人にとって山は神と同一なのでしょう。地蔵院の道石。



再び五輪塔。阿弥陀如来像。



今回の街道歩きで良く見かけたのが皇帝ダリア。11月下旬に開花する種でかなり背丈が高い。



別所にある六騎塚。足利尊氏が九州から神戸へ向かうのを阻止しようと奮闘し最後に残った六騎がここで自害したそうです。



枯れちゃってますがハスが一面に繁茂しているため池。



明治時代に日吉神社で雨乞祈願が行われた際に建立された常夜燈。JR姫路別所駅そばです。



街道沿いにある祠。このサイズで石積みの神社は見たことがなく珍しい。おそらく竜山石で山の神を祀っているのでしょう。生き生きとした榊をお供えされています。



弁慶地蔵と呼ばれる地蔵堂。弁慶がこの村の庄屋の娘とこの地蔵堂で一夜を過ごしたと書いてある。弁慶の母もこの村の出身だそう。



御着(ごちゃく)地区の福乗寺。紅葉も終わりかけ。



御着城跡。建物は姫路市役所出張所。元服前後の若い黒田官兵衛がここの城主小寺氏に仕えていた。16歳!にして初陣を飾り、21歳で姫路城代(副城主)になったとされています。

その後、播磨国は丹波国と共に織田信長軍と何度も戦い、最後は小寺氏も滅亡して官兵衛は34歳で秀吉に仕えることになりました。



黒田官兵衛顕彰碑。



日蓮大菩薩名号碑。



西国街道を少し北に外れて堀の南東角から姫路城を展望。5年ぶりですが今回は街道歩きがテーマなので遠くから眺めるだけで過ぎ去る。



本徳寺。姫路船場別院と書いてありますが東本願寺のお寺です。同じ姫路市でも亀山にも本徳寺があり、こちらは西本願寺。姫路城のそばなのでこちらの本徳寺は徳川の息がかかっている東なのですかね。



丘の上にお寺の屋根のようなものが見える。調べてみると須弥山(しゅみせん)というお寺というか霊園。インドとの交流から昭和になって須弥山という名前になったようです。金輪際というのは須弥山のある大地の底のことを言うそうです。



高岡村に入ります。高岳神社の名号碑があります。以前は高岡神社という名前だったようで、高岳と書いて「たかおか」と読むようです。磐座を祀っているので「岳」という字に変えたのでしょう。

名号碑の手前には小さな神社が。



特に名前が見当たりませんが、双体地蔵尊です。西国街道で見かけたのは初めて。



西国街道はJR山陽本線沿いなのですが、相生までは北のルートをたどります。筆者は関西人ですが姫路より西になると鉄道網はもう分かりません。歩きながら姫路と新見間をつなぐ姫新線という路線があることを知り、ちょうどよかったので播磨高岡駅から帰ることにします。



今回の西国街道の旅はここまで。次回はいよいよ岡山県まで行けるかなぁ。