2022年1月28日金曜日

【西国街道】神戸~明石

(舞子公園から見た明石大橋)

オミクロン株が爆発的に感染拡大している新年1月末ですが、西国街道歩きの続きをやります。

今回は兵庫宿(神戸)から大蔵谷宿(明石)までです。京都から通算4日目の旅です。歴史探訪満載の旅でした。


これが今回のルートの詳細になります。神戸から長田神社までは歴史探訪が面白いです。
その後は、一ノ谷からの須磨の眺めや、舞子公園からの明石大橋が大きな見どころです。
それ以外は、国道2号線の上を歩くので街道歩きの面白さもなく、やや単調です。

全体で約25㎞、3.5万歩、6時間強の行程でした。

訪れた場所はルート上にプロットして、ジャンプのリンクを付けました。


京都から新快速で神戸駅に到着。朝9時半。


西国街道の石碑があります。


湊川八幡神社。ここに湊川惣門があり、兵庫津(ひょうごのつ)の入り口となっていました。


兵庫津は、それ以前は大輪田泊(おおわだとまり)と呼ばれており、平安時代に平清盛が宋と貿易できるように大規模な港湾工事を行いました。今の大阪港である浪速津(なみはやのつ)が堆積した土砂のせいで水深が浅すぎて宋(中国)との大型の貿易船が入れないので、大輪田泊が京都から最も近い貿易港であったわけです。



七宮神社。生田神社を囲んで八つの神社があり、その七番目。三宮駅の名前の由来は三宮神社のそばにあるからです。

この七宮神社は大輪田泊の要衝に位置したようです(後述)。


昭和初期に兵庫津の要人たちが集った岡方倶楽部の建物。それ以前は、兵庫津の貿易を司る要所であった。


札場の辻。西国街道はここで直角に曲がり、北西方向へ進みます。


北風正造(きたかぜしょうぞう)の碑がある能福寺に立ち寄ります。

北風は、まさに江戸時代の兵庫津が舞台である司馬遼太郎の「菜の花の沖」で登場した豪商です。

この小説は大変おもしろく、主人公の高田屋嘉兵衛は裸一貫から努力し、北前船を北海道や国後島まで行路を広げ、ロシアと交渉して幕府との戦争を未然に防いだ現場一徹の人です。

加えて印象的だった登場人物に工楽松右衛門(くらくまつえもん)という発明家がいて、それまで藁で編んだ「むしろ」の帆だったところに、木綿製の丈夫な帆を発明し、一気に北前船🚤の性能があがったそうです。しかも、彼は自分の発明を無償で他人に教えたという、まさにイノベーターでした。



時代は前後しますが、平安時代の平清盛の墓所(平相国廟)も能福寺にあります。清盛は、当時世界最大の都であった宋との貿易で日本の国力を高めようと、神戸の福原に遷都を企てます。


ソープランド💗が立ち並ぶ福原に遷都する計画があったというは良く知られていない事実ですが、調べてみると、会下山、大倉山と大輪田泊で囲ったあたりが福原京の予定地であったようです。

また清盛は港湾の発展のために、人工島である経ヶ島をその生涯をかけて建築しようとしましたが、吉川英治「平家物語」にもありましたが、相当な苦難の連続であったそうです。

会下山,大倉山ともに100m足らずの丘陵地ですが、愛宕山と比叡山の姿を見た❔のかも知れません。南端の七宮神社が羅城門の位置にあります。

清盛の国家戦略は、京都大好きな公家たちには全く理解されず、公家の中には京の月見が恋しくてわざわざ京に帰って名月を楽しんだという逸話が平家物語にありました。

結局、遷都は立ち消えになり、再び京を都にすることになりましたが、3年後に京都は木曽義仲(源義仲)に蹂躙されてしまいます。


能福寺境内にある兵庫大仏。太平洋戦争の金属回収令で解体されるも平成に再建された。


能福寺から少し行った兵庫駅手前にある福海寺(ふくかいじ)。


福海寺の前にあった浮世絵の看板。

後醍醐天皇と新田義貞の軍と足利尊氏の軍は、丹波から瀬川(箕面)、西宮、兵庫(神戸)の地域で闘い、足利尊氏軍が破れて九州に退却したが、その際にこの福海寺に避難したと書かれています。

足利尊氏は天皇に反旗を翻したので明治時代以降は人気がなく、この案内板にも後醍醐天皇については書いていません。

いったん九州に戻った足利尊氏はその3か月後に湊川の戦いでリベンジを果たし、楠木正成は死んでしまいます。最期まで天皇に仕えた楠木正成は今でもヒーローであり続けます。



いくらでも歴史の見どころがある神戸から西に進み、西国街道からすこし北にそれますが、商店街を通って、長田神社に立ち寄ります。

胴回り6メートル強のクスノキ。さすが神戸を代表する神社の風格です。


長田神社は神功皇后(じんぐうこうごう)が、朝鮮の新羅と戦争した帰りに神のお告げを受けて建てられた神社です。三韓征伐と言われ、新羅のついてでに百済、高句麗までやっつけたという伝説になっていますが、本当のところは誰もわかりません。

神功皇后の夫は第14代の仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)でヤマトタケルノミコトの子供❗ですので、ものすごい昔の話です。



元宮長田神社。須磨の名家が、長田神社にお参りするのが遠くて面倒なので、長田神社を分社させて屋敷内にミニ長田神社を作ったそうです。財力にものを言わせてます。



山陽電車の須磨駅そばの村上帝社。第62代村上天皇を祀った神社です。

看板の説明によれば、この神社は能の一つ「玄象(げんじょう)」に由来があるそうで、調べてみるとこんな話でした。


平清盛の時代、公卿であり平安時代きっての音楽家として名の知れた藤原師長(ふじわらのもろなが)が、唐に行ってさらなる名声をあげようとして、この地に来たところ、老人に出会った。

その老人は、藤原師長が驚くほどの琵琶の名手で、名を訪ねると、二百年前に崩御した村上天皇の幽霊で、師長が弾いていた琵琶の名器「玄象」の元の持ち主だったのです。

村上天皇の幽霊は、「玄象」に並ぶ名器「獅子丸」を龍神に命じて取り寄せると、師長と琵琶の競演をして楽しんだ、という話です。


日本版ストレディバリウスの幻の琵琶は、「玄象」「獅子丸」「青山」の3面は唐から贈呈され、日本に持ち帰る際「獅子丸」は海に落っことしてしまったそうです。



山陽電車の須磨駅の駅舎は昭和のワクワク感👦👧が感じられる懐かしい建物です。
ここから西に進むと一気にローカル色が濃くなります。



須磨浦公園駅手前が一ノ谷町で、須磨浦公園の海沿いの緑地帯から山陽電車の小さなトンネルをくぐったところにつづら折りの階段があります。

このあたりが一ノ谷合戦のハイライト、源義経の逆さ落としの場所です。


一ノ谷の合戦の義経のルートを地形図にプロットしてみました。源平合戦の骨格は、源範頼(のりより)率いる6万5千の軍と福原に強固な陣を敷いて待ち構える平家の軍のぶつかり合いです。

この平家の脇を突くのが義経の1万騎ですが丹波から下ってくる義経の軍は平家にはバレています。

しかしここで義経は精鋭70騎を率いて自ら鵯越(ひよどりごえ)を馬で突っ切り、一ノ谷の背面から馬で駆け下りるという無謀にも見える戦術を取ります。これが「逆さ落とし」と言われる名場面です。

さすがに平家もこれは予想できず、驚いて混乱し、それがきっかけで平家が敗走することになるというわけです。


これは以前、高松の平家物語記念館で撮った写真。逆さ落としの場面です。武蔵坊弁慶もいます。


馬で駆け下りる様子を頭に浮かべながら階段を登ると、西の方角に須磨海水浴場がよく見えます。


背の高いのが須磨コーストタワーという36階建てのタワーマンション。10年くらい前に建ったようです。さぞかし良い景色でしょう。


坂を登り切ったところは展望台かと思いきや、ちょっとした住宅街になっていました。この階段を昇り降りして毎日、須磨浦公園駅から通勤されているお父さんたちは大変だろうなぁ。

少し奥には壇ノ浦の合戦で亡くなった安徳天皇の神社があります。平清盛と後白河天皇を祖父とする天皇です。明治の地図を見ると「内裏跡」と書いてあります。もし平家が一時的にここを内裏にしていたのであれば、義経の奇襲作戦は違った形になっていたでしょう。


引き返して坂を下ると海岸を走る山陽電車。


駅を越えたあたりにある敦盛塚。海岸での激しい戦いの中で、源氏側の43歳の老兵、熊谷直実(くまがえなおざね)は、平清盛の甥っ子、16歳の平敦盛を見つけ首を取るも、その非業さに悔悟し、出家を決意します。


敦盛は横笛の名器「青葉」を愛用しており、熊谷直実は、敦盛を討った後、笛を見つけ、その朝に聞いた美しい音色を奏でていたのが、この敦盛だと知って嘆き悲しみます。

平家物語のもう一つのハイライトです。


一ノ谷を後にして、2号線の横をひたすら歩きます。そうすると明石大橋の主塔が見えてきました❗❗


神戸市下水処理場の埋め立て地の陸地側が緑道になっているので歩きます。


垂水駅そばにある海神社。「わたつみじんじゃ」と読みます。兵庫駅手前にあった福海寺とどうように、神功皇后が三韓征伐の帰りに嵐に遭い、ワタツミの神に祈りを捧げて助かったことから、この神社を建立したそうです。

ちなみに海神社のサイトには、「三韓の帰りに...」と「征伐」の単語を消しています。いろいろ気を遣っていますね。


海神社。西宮の戎神社と同様、漁業を生業としていた人々の守護神だったのでしょう。


古事記は何度調べても忘れてしまうので整理してみました。ワタツミは、トヨタマヒメの父であり、神武天皇の祖父であります。

須磨駅そばの村上帝社では、村上天皇の幽霊が龍神に命じて海に落とした琵琶の名器「獅子丸」を取り戻す話がありましたが、ワタツミと龍神は同じような存在だったのではないでしょうか?

JR垂水駅。


舞子公園に入ると松林の後ろに明石大橋と淡路島が出てきました。

京都から歩いてきて明石大橋を見るとは感無量。


明石大橋は支間長1991mで現在でも世界一の長さを誇っています。支間長とは主塔と主塔の間隔を言います。建築中に阪神淡路大震災が発生し、主塔の位置がずれましたが無事、1998年に完成しました。完成までに10年かかっています。

イタリア半島とシチリア島をつなぐメッシーナ海峡大橋が明石大橋を1000m以上抜く予定で、日本のIHIが受注していましたが、予算がなくなった等の理由で中止になってしまいました。

ちなみに瀬戸大橋は全長12kmで明石大橋の4kmの3倍ありますが、最大支間長は最南端の1100mです。


巨大なコンクリートブロックはアンカレイジと呼ばれるもので、明石大橋を吊っているケーブルを繋ぎとめている重しです。なんと、地中には霞が関ビルほどのコンクリートが埋まっているようです。


橋の下を通り抜けて先へ進みます。


大蔵八幡神社。初の女性天皇である第33代推古天皇の時代、朝鮮から8千の軍が押し寄せてきました。撃退の命を受けた伊予(愛媛)の小千益躬(おちのますみ)でしたが、敵の大将が「鉄人」と呼ばれる猛者で刀も矢も歯が立たず、もうダメかと思っていたところ、三島明神からのお告げで、鉄人の弱点が足の裏だと知り、攻撃、8千の軍を撃退したそうです。

それに感謝して三島明神と小千益躬が祀られています。

神功皇后の時は朝鮮へ戦いを仕掛け、その後の推古天皇になると仕掛けられ、昔からお隣の国とは仲がよろしくないようで...😓


明石城に向けて海岸沿いのルートから離れます。今回初めての街道らしい道。


「右:ひょうご、大阪/左:加古川、ひめじ」と書かれた石碑。大阪が、「大坂」でないので、古い石碑ではない。


明石市の中に入ってきました。夜の街の匂いがプンプンする場所ですが、全く窓がないビルというのも初めて見た👀


周りから飛びぬけてるタワーマンション。2017年に出来たようです。


商店街に、恐ろしげな大ダコが。


最後に西国街道上の要衝としての明石城を見ました。二代目将軍、徳川秀忠の命で築城された城なので、すでに本格的な戦争用ではないので、中央の大きな天守閣はありませんが、その代わりに、角に三重櫓(やぐら)が造られています。

その後、明石駅から新快速で京都まで帰りました。西国街道の旅、まだ新幹線に頼らなくてもよさそうです。



2022年1月16日日曜日

【西国街道】西宮~神戸

 例年より寒さが厳しいです今年の冬ですが西国街道の続きです。

西国街道は京都から下関までの650kmの旧街道で宿場は50カ所あります。西宮から下関までは「山陽道」とも言われます。今回は西宮から神戸までを歩きます。


以下がJR西宮駅からJR神戸駅までのおおよその西国街道ルートですが、距離は約20km、28,000歩で、休憩入れて約5時間でした。

主に国道2号線沿いの道路沿いや脇道の住宅街を歩きます。このルートは本街道と呼ばれ大名行列などに使われたものです。別ルートとして海よりに浜街道と呼ばれる庶民用の街道があります。

このあたりの歴史的経緯を調べてみました。

まずは伊能忠敬による日本で最初の実測地図、江戸時代の1805年頃、伊能忠敬が60歳の頃に作った地図です。村々をつなぐ街道と瀬戸内海の間は無数の池や沼になっている様子がうかがえます。

この頃は、街道を歩きながら、塩や酒を積んで瀬戸内海を進む藩船や北前船が見えたのではないでしょうか。

(国土地理院より)


次に、下図は明治の終わり頃(1892~1910年)の地図を現在の地図に重ねたものですが、神戸市がすでに15万人程度の都市になっています(現在150万人)。

対して、西宮町と御影町が少し開発されている程度で、ほとんどが草むらや田んぼです。現在の高級住宅街である芦屋も川沿いに遊園がある以外は田んぼです。

西国街道沿いに阪神電鉄【1905年(明治38年)開業】が走っていて、集落は駅の南側にあります。おそらく漁師が多かったのでしょう。

旧国鉄の東海道本線は西宮駅と三宮駅の間には住吉駅があるだけで西側に住吉村の小さな集落が見えます。小林一三さんの阪急電鉄の神戸線はまだありません。【開業1920年(大正9年)】

(「今昔マップ on the web」より作成)

下図は住吉駅、御影町あたりの拡大図ですが、浜街道のほうに「西国街道」と表記がされていて、本街道には何の表記もなく、どこが街道だったのかすでにこの時点ではっきりとは分かりません。

これは、おそらく明治維新後は幕府の権威を嫌い本街道はどうでもいい扱いになり、浜街道を正式な西国街道として扱ったのではないかと思います(筆者想像)。

今回のルート(本街道)を歩いて、立派な西宮神社を除き、街道沿いの神社仏閣が少なく、常夜燈やお地蔵さん、また道祖神をほとんど見かけなかったのは、こういう理由があったというわけです。

浜街道の方を歩くべきだったのかもしれません(また今度😀)

(「今昔マップ on the web」より作成)



街道沿いの写真ですが、今回はRX1Rを忘れたのでiPhone Xでの撮影です。

既に述べた理由から、今回の街道歩きは旧街道の歴史を匂わせるものはほとんどなく、あまり面白くはありません😅でした。

私は西宮出身で、西宮神社は地元では「えべっさん」と言われていますが、全国3500社ある戎神社の総本社という偉大な神社です。

釣り竿を鯛を抱えた姿の七福神の一人である、えびす神は漁業の神様で、広く商売繁盛の神様でもあります。港のあった西宮や海沿いの村々で漁業が行われていたことがわかります。


こちらが本殿。まだ1月半ばなので、お賽銭待ちの列が出来ています。


芦屋川から六甲山方面をARヤマナビで確認しました。

ゴロゴロ岳(565m)と林山(745m)の間は、芦屋と有馬をつなぐ芦有ドライブウェイが通っています。以前、コルベットでドライブを楽しみました。


JR甲南山手駅そばの森稲荷神社の赤鳥居。


JR摂津本山駅そばの山王神社。


住吉川手前の国道2号線に合流するところで見つけたお地蔵さん。今回のルートで出会った唯一のお地蔵さんです。頭部だけで、「花松くび地蔵」という名前で、大正時代の建立と書いてあります。


頭部だけのお地蔵さんは今まで街道歩きで見たことがないのですが、大正時代というのは、明るくて呑気な空気があったようなので、こんなのを作ったのでしょうかね。


住吉川から六甲山方面をARヤマナビでチェック。油コブシ(626m)は神戸大学の北東にあります。


JR住吉駅そばで、今回唯一見つけた常夜燈。なんと個人宅が壁で囲んでしまっています。本街道を保存しようとせず、やみくもに土地を売りさばいたのでしょう。


阪神御影駅と石屋川駅の間にある天神川にかかる小さな橋。ここに以前は一里塚があったそうです。

通常は土がこんもりと盛り上がっていたりするのですが、跡形もありません。よくここが本街道跡だとわかったものです。


阪神石屋川駅そばの石屋川と理性院。


阪神石屋川駅と新在家駅の間、国道43号線そばに乙女塚古墳があります。

ここから北に行ったところにある「おとめ塚温泉」は、源泉かけ流しで酸化していない緑色のフレッシュな泉質が実に素晴らしい。ただ、ときどきモンモンの組の方がいらっしゃいます。

でも、こんな古墳があったとは知りませんでした。

「おとめ塚」というのは、このあたりの村で昔、美しい娘が、二人の男から求婚されて困って死んでしまったという伝説が由来だそうです。


古墳の上に登ることができます。3世紀後半のものだそうで日本書紀の時代です。前回の西国街道歩きで高槻そばにあった古墳が、第26代継体天皇(507年?~531年?)のものでしたが、継体天皇より前の天皇は実在したのかどうかを含めて歴史がよくわからないようです。


明治終わりの地図に戻ると、「乙女塚」としっかり書いてあります。しかしながら、大正11年に国の史跡指定を受けた時にはすでに一部が道路で削られてしまっていたそうです。


特に撮影するようなものもなくずっと歩いて阪神春日野道駅そばの商店街。ここで初めて「旧西国街道」の石碑が。まだ新しい。


このあたりは明治時代に「大安亭」という名の浪花節で有名な寄席小屋があったそうです。


だんだんと三宮らしい雰囲気になってきました。


以前六甲アイランドにあったP&Gに通勤していた頃はよく飲みに出かけた三宮駅に到着。


三宮神社。調べてみると、生田神社の周りには8つの神社が囲んでおり、その中の三番目の神社だから三宮神社になったそうです。勿論これが三ノ宮の由来なのでしょうが、学生時代から何度も遊びに来た三宮の由来が今はじめてわかりました。恥ずかしい💦


久しぶりに見た神戸大丸。なかなか立派な建物です。百貨店業界は大変そうですが。


オミクロン株による第6波が到来しようとしていますが、元町商店街は結構な人だかりです。

学生時代に古着を買いに出かけた高架下商店街はかなり寂れていましたが。


元町中華街への道。


思わず誘われてしまいそうになる脇道。


「はた珈琲」という名のお店で美味しい一杯をいただき、JR神戸駅から新快速で京都へ帰りました。西国街道は中山道と違って基本、鉄道沿いなので家との往復は楽です。