2024年1月22日月曜日

【滋賀】宇佐山(大津京跡、近江神宮、宇佐八幡宮)

滋賀県大津市にある宇佐山に登ります。ここは戦国時代に森蘭丸の父であった森可成(よしなり)の城(宇佐山城)があったところです。



これがルート記録です。JR湖西線大津京から歩き始めて、道沿いにある大津京跡、近江神宮にも立ち寄ってから宇佐山(335m)に登ります。宇佐山頂上では森可成の宇佐山城址をみて、宇佐山テラスから素晴らしい眺望を楽しみます。

下山は宇佐八幡宮をお参りしてから同じルートで戻ります。帰りは京阪近江神宮駅から電車に乗りました。




JR湖西線大津京から北へ歩き、京阪近江神宮駅のそばに大津京錦織(にしこり)遺跡があります。

この頃の話は黒岩重吾の「天の川の太陽」が面白かったので覚えていますが、大化の改新の中大兄皇子である天智天皇と、その弟である大海人皇子(おおあまのおうじ)の話です。

中大兄皇子は唐と新羅の連合軍から百済を救うために朝鮮に水軍を送るも大敗(白村江の戦い)してしまいます。

強国の唐から弱体化した日本へ軍隊が攻め入られることを恐れた中大兄皇子は、667年、それまでの飛鳥京からより内陸へ引っ込んだ大津京へ遷都します。中大兄皇子は大津京で天智天皇として即位します。



住宅が既に建ってしまっているので大津京の調査はなかなか進まないように見えますが、大津京は平安京と比べても随分と小さかったようです。その理由の一つは大津京はたったの5年の命だったので都として成長過程の初めに芽が摘み取られた形だったのでしょう。

「天の川の太陽」は大海人皇子の復讐物語なのですが、東国の豪族を味方につけた大海人皇子により壬申の乱で大海人皇子が天武天皇になると再び飛鳥を都としてしまいました。



次に近江神宮に来ました。



パッと見て平安神宮に似ているなと感じましたが、共通点は両方とも新しい神社であることです。平安神宮は明治28年、近江神宮は昭和15年の建立です。

祭神は大津京の天智天皇です。



天智天皇は日本で初めて水時計をもたらしたと言われています。これが水時計のはずなのですが、動いていなさそうです。

一定の容器の下に空いた穴から流れ落ちる水流は一定しているという原理を使ったのが水時計で、日時計と違って曇りでも夜でも使えるのが利点だったそうです。



水時計の地ということで時計博物館が境内にあり、博物館の外にもいろいろ古代の時計が陳列されています。

これは火時計で、龍の胴体に胴球が糸で吊るされていますが、この胴球の下を線香が燃えながら糸を切って、落下した胴球が銅鑼を鳴らして時を告げるという仕組みだそうです。

線香は蚊取り線香のように平型の円形だったのでしょうか。

主に夜に使われたそうですが、毎日準備するのが大変そうです。

下にはROLEXと書いてありロレックスがスポンサーになっています。



百人一首も展示されていますが、理由は百人一首の第一首が天智天皇作だからです。

秋の田の かりほの庵(いお)の 苫(とま)をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ

農民の歌なので天智天皇作ではないと言われています。民衆思いの天皇のイメージを作りたかったのでしょうか。

それにちなんで毎年1月に全日本のかるた競技大会が近江神宮で行われています



近江神宮を出て宇佐八幡宮の参道を登ります。この参道は標高差100mほどあって意外にしんどいです。

この坂道の真下に湖西道路(161号線)の宇佐山トンネルがあります。筆者は頻繁に利用しています。

使わせてもらっていて言うのもなんですが、神様として崇拝している山のどてっ腹に穴を開けていいのかといつも思います。伏見稲荷の稲荷山なんてひどいものです。

日本の法律では土地の所有権は地下無制限まで及ぶそうなので、ここは私有地ではないということでしょうか?それとも神様が宿るのに合意したのでしょうか?



宇佐山への道はすっかり山道へと変わります。志賀小学校の案内版がほほえましい。

ちなみに、途中で「家族のなかで山の頂に立つのは誰?」というクイズがありました。筆者の答えは「三女(山上)」でしたが、答えは「長女(頂上)」でした。



濡れた枯れ葉が滑りやすいので注意深く歩く奥さん。



宇佐山城の石垣跡です。山城らしい野面積み(のづらづみ)です。




参道から登り始めて30分ほどで宇佐山頂上(335m)まできました。



宇佐山の頂上は城址どころか頂上の平地を目一杯に放送局のアンテナ設備が占拠してしまっています。如意ケ嶽の航空保安施設と同じくもうちょっと山頂をリスペクトしてほしい気がします。

下はフェンスに貼ってあった宇佐山城の見取り図です。三の丸が頂上が素晴らしい宇佐山テラスになっているところです。



宇佐山城を作ったのは森蘭丸の父、森可成(よしなり)で親の代から織田家に仕えていました。信長よりは10歳上で桶狭間、姉川の戦いにも参加、信長の重要な家臣の一人です。

ところが1570年、信長が今の大阪へ出陣していたとき、その隙を狙った浅井・朝倉の連合軍に攻め込まれ、可成は10倍の敵を相手に奮戦するも討ち死にしてしまいます。

下の絵は幾本もの矢が刺さった織田信治(のぶはる)を背負う可成の壮絶な最期を描いています。織田信治は信長の弟です。

(森可成 Wikipediaより)


本丸のある山頂から少し下の二の丸跡あたりは何もないのにもかかわらず有刺鉄線で囲まれています。理由はわかりませんが、筆者の想像では、ここに何かモノを置かれると著しく電波が妨害されるのではないでしょうか?



三の丸のあった宇佐山テラスに行くとびわ湖と大津市が素晴らしく眼前に広がります



北方向の景色です。冬は空気が澄んでいるのもありびわ湖大橋や沖島がよく見えます。町並みがジオラマのようにはっきり見えるので標高300メートルくらいの景色も独特の良さがありますね。



湖南方面を望んで。



大津京からにおの浜方面。湖西線の電車が鉄道模型のように見えて面白い。



宇佐山山頂を下りて、宇佐八幡宮にお参りします。「宇佐」とは大分県宇佐のことで、全国4万以上ある八幡宮の総本山があるところです。八幡さまとは第15代応神天皇のことだとされていますが、さきほどの天智天皇が38代なのでそれよりずっと古いです。

この宇佐八幡宮は源頼義が総本山から勧請して創建されました。源頼義(よりよし)は頼朝のひいお爺ちゃんです。



神社の横には頭の赤いハトが並んでいます。以前に京都左京区にある三宅八幡宮にもこれと同じハトが並んでいました。

調べてみると、宇佐八幡宮から京都の男山にある石清水八幡宮に勧請する際に、ハトが道案内をしたという伝説が由来のようです。

ハトは虫をついばむので、子供のかんの虫もなくなる。だから子供の守り神になったというわけです。





2024年1月17日水曜日

【西国街道】今津宿(松永駅)、尾道宿、三原宿

 西国街道の旅(荏原駅(矢掛宿)~三原宿)の三日目です。

二日目の記事はコチラ。

三日目のルートマップを下に掲載します。


二泊した福山のホテルを後にして昨日の終着点であった山陽線の松永に向かいます。

写真は福山駅前の天満屋(てんまや)百貨店。岡山が本店だそうですが地方の百貨店にしては(失礼)そこそこ垢抜けた印象でした。


松永駅から歩き始めて本郷川を渡ると古めかしい町家風の家屋が出てきました。松永専門店会の宮沢呉服店と書いてあります。



ここが今津宿の本陣跡です。豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際に京都や大坂から名護屋城へ向かう大勢の大名率いる軍勢のために1602年に今津宿が設けられました。


高諸神社(たかもろじんじゃ)。地元の神社でちょっと寄ってみます。


ここにも注連柱(しめばしら)が。こういう文言ってナゾのメッセージがありそうで気になります。

筆者の勝手な訳ですが右は「輝き霊を放つ宝剣を大切にするぞ」、左は「高くそびえる社殿はめでたい気を帯びているぞ」といった意味。神社の宣伝みたいなものですか。



神社の拝殿にある絵も気になりますが、大きな漬物問屋のある商店街と思われる町を必死で消火しているように見えます。

消防員の服装を見るとこれは戦前の警防団だと思われるので、岡山、福山の大空襲の際の火災ではないかと思われます。永井荷風の断腸的日乗の下巻で東京からわざわざ岡山に疎開してきた永井が死にかけたと書いています。昭和20年(1945)6月28日、140機のB29が襲来、空襲警報が鳴らなかったせいもあり1700人が死にました。その日の朝は旅館のおかみさんが「雀の子が飛んで行ったのに帰ってこない。何か変だ」と言ったらしい。



も一つ、これは天洋丸と書いた船の絵。調べてみると明治41年(1908)に長崎造船所で竣工された国産初の1万トン越えの客船でした。アジア、アメリカに渡って活躍した世界的にも先端を行く豪華客船でしたが、なぜここ福山に奉納されているのかはどうしてもわかりません。


高須村手前の小さな社のよこの石碑に「恋の水」と書いてあります。この歌詞は恋をしてしまうくらい美しい水だなぁという地元の歌を伊勢音頭に合わせて歌ったもので、多分このあたりの祝いの場などで歌われたのでしょう。坊地というのはおそらく今の西瀬戸尾道ICな南西の防士峠だと思いますが、そこから「くだって鶴亀山」というのがどこかわかりません。ぜひ解説版を設置してもらいたいものです。


道路右の小さい石碑に「右ちかみち」と書いてあります。今でこそ道が張り巡らされていますが明治時代の地図を見るとこの道を通らなければ南の尾道水道を周って行くしかないことがわかります。

この道は今の西瀬戸尾道ICのある峠道です。といってもせいぜい高度100m程度です。


IC手前の屋根付きの小さな祠。街道歩きをしているとICに出くわすことがありますが、あまりいい予感はしません。


ICそばのコンビにで小休止しましたがICの周りは基本的に歩く人は想定外なのでどこを歩いていいのか迷うことがあります。しかもちょっと間違えるとビュンビュン走る車道に出くわすので危ない。


ICの周りにいくつか池があり、池のそばにあった石碑と石仏。調べてみると六字名号(ろくじみょうごう)石碑というらしい。つまり南無阿弥陀仏の6文字のことですが、左右に流れるような字体で書かれたこれは徳本上人(とくほんしょうにん)の書体で和歌山出身の上人は念仏を唱えて全国を行脚したという。

念仏と言えば筆者の地元(堅田)の蓮如上人を思い浮かべますが、蓮如は室町時代で徳本上人は江戸時代の人です。でも浄土宗の徳本上人にとっては念仏が最重要、なのでこんな独特の書体になっているのでしょう。



防士峠、今の坊地トンネルの上に「これより西 芸州領」と書いてある。つまり安芸国です。安芸国と備後国の境がちょうどこの防士峠になっているということ。尾道からが安芸国です。

備後の方は整理するとから岡山県倉敷までが備前、広島県福山からが備後、間が備中ということになります。


眼下に尾道の町並みが見えてきました。


尾道バイパス下のトンネル手前の石碑は再び徳本上人かと思いきや、こちらは南無妙法蓮華経と書いてあるので日蓮宗です。妙実(みょうじつ)上人が尾道にやってきたので日蓮宗のお寺が多いそうです。妙実上人は大覚という名で知られています。


尾道市街に向けて坂を下っていくと、バキュームカーが何台が止まっていた。子供時代に見て以来久しく見たことがなかった。尾道市ホームページによると2020年の段階で下水道普及率が12%と書いてある。

家々を見ると全然古めかしくうらぶれた感はなく、むしろ新しくてきれいに見えるのですが、理由は上下に入り組んだ地形のせいでコストがかかりすぎるようです。尾道は「坂の町」とも言われているぐらいですから。


尾道の町並みは小京都のようで風情があります。ここはちょっと先斗町を思わせます。
それにくわえて、山がせまっている港町なのでちょっと神戸っぽくもある。



ギャラリーのショーウィンドウにあった尾道の風景画。やっぱり神戸を彷彿させます。



尾道水道を見ながら歩けるちょっとおしゃれな海岸通り。カップルがいました。このあたり北が尾道宿であるはずですが、本陣跡等を探すのを忘れてしまいました。小さな金属の標識があるみたいです。

尾道水道沿岸に宿場が整備されたのは江戸時代のことで、西国街道の宿場と鳥取県の石見銀山と南北につながる石見銀山街道の終点として交易の拠点にもなっていたようです。




尾道の彫刻家の作品のようです。


お昼ご飯は是非広島のお好み焼きと思っていたところ、尾道焼というものがあることを知り、お店を見つけていただきました。「鉄板焼き まり」という名のお店です。

写真で見るとフツーのお好み焼きにしか見えませんが、砂肝が入っているのが尾道焼の特徴です。砂肝の味と歯ざわりのインパクトはお好み焼きの濃い味のなかでも十分主張しています。

焼きそばがいっぱい入っているのは広島焼きの特徴ですが、かなりカピカピになるまで焼いています。



このあたりから山がせまってくる。磨崖仏ではないけれど石窟に収められた地蔵さん。



広島県は西側に行くと大きな山が増えてきますが、このあたりから地形が変わってくるような気がします。この北西が世羅台地のようです。

次回の旅は三原宿からですが、本郷宿からの松子山峠は西国街道一の難所と呼ばれたそうなので楽しみです。


民家の間から海岸に出られる場所があったので尾道水道を眺めてみる。護岸工事でコンクリートで埋め尽くされている海岸線で今回見た唯一の砂浜。ホッとするものがある。




2号線の向こうに木原厳島神社。宮島が総本山で全国に厳島神社と名の付く神社は500社あるそうです。

で、注連柱(しめばしら)の解読。左は「朝廷の威光で皇国がやすらかになりますように」、右は「神の徳を信じて平和な海を」みたいな意味。いかにも明治時代らしいけれど、それにしては新しく見えます。

「卯海」と書いて「うみ」と読むようです。



これは舟を海におろすための斜路。



小さな突堤があったので小休止。遠くに見えるのは向島(むかいしま)と因島(いんのしま)を結ぶ因島大橋



因島大橋のアップ。昨日、大三島の大山祇神社に行くとき通りました。芸予諸島の景色は尾道市街よりもここのほうが良いように思えます。



西側を眺めると、小さな島々の稜線が重なり合って実に美しい。小柳ルミ子の「瀬戸の花嫁」の歌詞「あなたの島へ お嫁にゆくの」ってこういう風景の中、花嫁をのせた小舟が静かに進んで行くのでしょう。



2号線沿いの道を左手に海の風景を見ながら歩く。



糸崎手前のひょっこりと浮かんだ島。調べてみると宿禰島(すくねじま)という名がついています。無人島で周囲400メートルしかないそうです。



糸崎神社。ここは長井の浦と言われ、奈良と新羅を結ぶ遣新羅使が停泊したときの歌が万葉集にあります。奈良時代よりずっと以前、神功皇后自身がここに舟を停泊させたときに神社の井戸水を献上したと書いてあります。



この神社は広島でも最も古い神社とされていて、この地方で船を新造した時はここでお祓いを受ける風習があるそうです。



大山祇神社のクスノキは精霊が宿るような気に感じ入りましたが、こちらのクスノキは樹齢500年で、大山祇神社のクスノキ(2600年)に比べればまだまだ若い。特にこの異様に張り出した根元の幹は壮年さを感じさせます。



三原宿に近づいてきました。右手に見える山は沼田川の向こうにある筆影山です。



本陣跡の碑は見つからなかったけれど、多分このあたりが三原宿のはず。



三原城址が今回二泊三日の旅の終点です。この城は小早川秀秋の父、隆景(たかがげ)によって建てられたもので、海上に浮かぶような城であったようです。このあたりは陸路は細いので水軍が最も重要であったことがわかります。

三原駅は新幹線の停車駅なので帰りは快適でありました。

次回は西国街道一の難所、松子峠を通って広島を進みます。