2023年2月27日月曜日

【滋賀】日吉大社~三石山~横川

 今回の冬は本当によく雪が降りました。1月24日が最も酷く、JRが山科駅で立ち往生で乗客が8時間閉じ込められる事態が発生しました。2月になっても幾日か降雪があり、冷えたせいか少なくとも5年振りに風邪を引いてしまいました。

 本日、ようやく風邪も治り、久方ぶりのよい天気に恵まれたので、これまた久方ぶりの登山です。

 今回はJR湖西線の叡山坂本駅で下車、日吉大社東宮をお参りしてから山上にある金大巌(こがねのおおいわ)をお参りし、そこから山道に入って三石山(676m)の頂上を踏んでから横川を経由して、びわ湖展望台から仰木に降りていくルートです。

 奥さん連れで、合計時間5時間40分、距離12km、累積標高760mでしたが、日吉大社や横川でお参りしていたので登山していた時間は4~5時間といったところでしょう。

山と高原地図上でのルートですが、今回のコースは奥比叡ドライブウェイ沿いのコースに南北に並行に走るようなルートです。横川から仰木へ下山する部分は元三大師道ルートに重なります。


また、今回のルートと奥比叡ドライブウェイ沿いのルートは、比叡山の千日回峰道の東西の道にもなっています。一周まわって30キロの距離です。


千日回峰道で歩く距離をまとめると、こんな風になります。

  • 1年目~3年目    30キロ/日 x 100日 x 3年 =9000キロ
  • 4年目~5年目    30キロ/日 x 200日 x 2年 =12000キロ
  • <堂入り行>
  • 6年目                60キロ/日 x 100日 x 1年 =6000キロ
  • 7年目(前半)        84キロ/日 x 100日 x 1年 =8400キロ
  • 7年目(後半)        30キロ/日 x 100日 x 1年 =3000キロ

総合計は38400キロですが、一周が30キロ強なので合計距離が約4万キロ、これは地球一周に相当する距離です。

しかも、もし途中でリタイアせざるを得なくなった場合は、持参の刀で切腹しなければならない


千日回峰道のたった一日のそのまた半分だけですが、今回の主なスポットをまとめた詳細マップを下に載せておきます。


朝8時半ごろに叡山坂本駅を下車して日吉大社に向けて歩きます。1週間ほど寒い日が続いたので今日は本当に気持ちよい。



二ノ鳥居あたりから始まる石垣は穴太衆(あのうしゅう)が積んだと言われる石積みです。s自然石を使い、それぞれの石の特性を読み取って積んでいくため非常に丈夫だと言われています。



今から登りに行く、金大巌(こがねのおおいわ)の前の2つの社がはっきり見えます。出雲の三徳山(みとくさん)の投入堂を彷彿させますが、投入堂よりははるかに安全です。



白梅が咲いています。



日吉大社の東本宮。この本殿は国宝です。祭神は大山咋神(オオヤマクイノカミ)で比叡山に降り立ったと言われる山の神です。

比叡山と言えば延暦寺が最も有名ですが、延暦寺は最澄、桓武天皇(第50代)の時代。一方、東本宮は仏教の存在など誰も知らなかった崇神天皇(第10代)の時代なので、日吉大社のほうが延暦寺よりもはるかに先輩です。



この比叡山の山の神である大山咋神(オオヤマクイノカミ)について私の座右の銘「まんが古事記」で調べましたが、大山咋神の父親である大年神(オオトシノカミ)がお正月の神として載っているだけでした。ホンマ、どんだけ神さんおるねん!

ちなみに日吉大社には今回お参りした東本宮とは別に、西本宮がありそこの祭神は大国主命(オオクニヌシノカミ)で、大年神と同じくスサノオの子孫として同じページに載っていました。

大国主命は知名度バツグンの神なので、天智天皇(第38代)が勧請して建立したのが西本宮です。



日吉大社の面白いところは狛犬が本殿の上にいることです。本当は、本殿前で番犬の仕事をしなければいけないのに、これでは室内犬です。

表情も寄り目気味でユーモラス。



東本宮をいったん出てから金大巌のある奥宮への約1kmの道を進みます。



標高差200mほどあるのでそれなりにキツい道をしばらく歩くとびわ湖の景色が広がります。



奥宮が見えてきました。



左が三宮宮(さんのみやぐう)、右が牛尾宮です。最初にお参りした東本宮は牛尾宮の里宮(さとみや)で、村の人々がお参りしやすいように建てられたものです。

ですので、あくまでコチラが本体ということになります。

左の三宮宮の里宮は、東本宮のすぐそばにある樹下宮(じゅげぐう)です。

清水寺のように舞台を柱で支えたような懸け造りの手法で、桃山時代に建てられました。文禄、慶長のころなので、秀吉が朝鮮出兵をしていた頃の建物です。



三宮宮と牛尾宮の背後に鎮座するのが金大巌(こがねのおおいわ)です。大山咋神(オオヤマクイノカミ)の化身といったところでしょうか。



陽の光に輝くびわ湖と大津の街並みが美しい。



奥宮をお参りした後、引き返す途中に山道が出てきます。前を進む奥さん。



右上には八王子山(381m)がありますが神域ですので頂上は踏まず巻いて行きます。八王子山は大山咋神(オオヤマクイノカミ)が初めて降り立った山です。



神宮寺址とあります。案内板によれば、この場所は最澄が比叡山に入って延暦寺を開く前に、ここで仏舎利を得たと書いてあります。つまり仏の精神を受け取った。

最澄の父が云々という話も書いてあるので、延暦寺が生まれる前段階といったところでしょうか。奈良の南都六宗が嫌いだった桓武天皇に見いだされていなければ、最澄もこの小さな寺で一生を終えていたのかも知れません。



案内板にあった日吉大社に代々伝わる「秘密山王曼荼羅」の地図。左上の丸の部分が織田信長に焼き討ちにあって焼失する前の神宮寺だと書いてありますが、どうしてわかるのだろう?



北方向へ転じて進んでいくと、左の比叡山ドライブウェイが見えます。銀色に平べったいのはドライブウェイ沿いにある比叡山峰道レストラン。

最初の方にも書きましたが、今回のルートとドライブウェイ沿いのルートは南北に並行に走る尾根沿いルートになっているのですが、尾根の間の沢沿いルートとして大宮渓道ルートもあるようです。林道のようですが今度歩いてみよう。



途中で通行止めになっています。「山岳遭難防止」と書いてあるので登山者向けのようです。ここまで来ておいそれと引き返したくないので行けるところまで行ってみよう。



少し行くと右の立て看板に通り抜け禁止とあるが、奥さんが歩いている三石山に向かうルートはどうやら大丈夫の様子。

ここから、西教寺方面の林道が途中で通れなくなっているようです。分岐に案内板がないので最初は林道方面を突き進んで行ってしまいました。



標高400mほどになると残雪が現れました。



ここもわかりにくい。左に分岐すると三石山に頂上に向かいます。なにせ千日回峰道を駆け抜ける行者さんの道なので案内板がない、などと文句を言ってはいけません。



拡大図がコチラ。ここから三石山(地図では三石岳)頂上への道がちょっとした難所となります。



頂上への道は整備されていないので、踏み跡を目印に登って行きます。短い距離ですが直登ルートで残雪もあるのですべらないように歩きますが、こういう道に慣れていない奥さんがメゲそうになっています。



ようやく頂上に到着しましたが、残念ながら景色はほぼゼロ



三石岳。読みは「さんごくだけ」と書いてありますが、「みついしやま」と言ってる人もいます。



三石山頂上から横川へ降りる道は、等高線沿いの巻き道なので楽ちんです。残雪をよく見ると色々な動物の足跡が発見できて面白い。これはタヌキかな?



滋賀医科大学の献体協力者への慰霊塔。



日本生命慰霊宝塔。亡くなった社員などをまとめて霊を祀る場所のようです。日本生命のような大会社だと累計で行くと数百万人くらいになるんじゃないかな。終身雇用の金字塔といったところです。

若干、申し訳ないのですが、この塔の後方の陽当たりの良い場所でランチにしました。



横川鐘楼。雪化粧が写真を引き立てています。



元三大師堂。コロナ禍の中、京都では疫病退散の元三大師の札が多く見られましたが、いよいよ3月13日からマスク着用義務化が廃止されます。

ここで仏教好きの奥さんが、道元禅師得度の地へ降りていってしばらく帰ってこないので、ここで待機。



横川中堂へは寄らずに元三大師道を進みます。途中に横川定光院(よかわじょうこういん)に立ち寄ります。比叡山は天台宗ですが、ここは日蓮宗。日蓮も最初は比叡山で勉強したので宗派の違いは問題なし。

比叡山は各種仏教の総合ユニバーシティでした。



びわ湖展望台に出てきました。今日は素晴らしい天気です。



比良山系。



びわ湖の向こうには三上山。



びわ湖大橋と近江八幡。



びわ湖展望台の横の山道を下っていくとやがて仰木に出てきます。棚田の背後には比良山が。非常に美しい景色です。



元三大師道の石碑。



途中、キマッシというカフェに立ち寄ってお茶をしました。平日の月曜日ですが営業されていたので良かったです。アクセサリーや食器を色々売っていて、ゆっくりとくつろげる場所でした。

北斗の拳が全巻置いてあったので全部読みにもう一度来てみよう(迷惑かな?)。



ちょうど仰木西公園前のバス停にバスが来るので、集落の中を歩いて行きますが、この道が風情があってとても良い。



1978年のこのあたりの田畑の整理を行った記念碑です。かなり大きな土地なので石高も上がったんじゃないかな。このあたりの集落の家々が立派なのも恵まれた土地とそれを開拓した人々の努力のたまものです。



きれいな前掛けを着せられた六地蔵を最後に見て、近くのバス停から帰りました。





2023年2月17日金曜日

【西国街道】吉備真備駅、矢掛宿、荏原駅

 西国街道の岡山の旅の3日目、最終日です。

2日目のブログはコチラです。

岡山駅近くのスーパーホテルで起床し温泉に入って朝食を食べてホテルを出たのが8時過ぎ、平日の朝なので時刻表を気にせず岡山駅に行くと、次の伯備線が1時間近く先でした。

ローカル線はちゃんと確認すべきだったと後悔。

しかたがないので8:25の山陽本線に乗って倉敷駅で下車、タクシーに乗って昨日の終着点の井原(いばら)鉄道の吉備真備(まきび)駅まで行ってもらいました。タクシー代3800円かかりましたが時間の節約にはなりました。

3日目の詳細ルートを示します。


タクシーを降りて歩きだしたのが9時です。

駅から西国街道を歩き始めたすぐのところに「まびき公園」がありますが、平成までの地図には「吉備大臣の墓」と書いてあります。なぜ今の地図には書いていないのだろうか。

吉備真備大臣については後に銅像がでてくるのでそこで紹介します。

まびき公園にあるいくつかの神社の一つが八田神社。以前の八田村の村社が合祀(ごうし)されたもので、吉備真備とは関係はないようです。



「熊埜権現宮」、埜の字は「の」と読むので熊野神社です。階段を登ると古墳が出てきました。



「黒宮大塚古墳」と書いてある中を見ると石棺があったような方形のくぼみがありました。勾玉などが出土したそうで弥生時代から古墳時代の誰かの墓のようです。



耕地整理というのはバラバラに開発された耕地を全体的に牛馬や資材が通りやすいように矩形に区切った形に整理することで、明治の終わりに法整備されたそうです。

地図を見るとこのあたり、昭和の初めまでは真っ白な田んぼだったのが、山陽道(西国街道)にそって長方形に均等に区切られているのがわかります。



備中呉妹(びっちゅうくれせ)駅から鳥ケ嶽へ登山コースがありました。

姫路あたりからずっとこのような200m弱の小山が並んだ地形なのですが、地質学的にどうやって形成されたのか知りたい。

駅名の「呉妹」はここの村名で、中国の呉の国から来た人が絹織物を伝えたことが由来だそうです。呉の国は三国志にでてくる孫権が王の国ですが、西暦200年代の話です。そう言えば、呉服というのも呉から伝わった服という意味なのですね。



鳥ケ嶽(164m)には4メートルの石造毘沙門天立像があるようです。室町時代末期の作品。

(くらしき地域資源ミュージアムより)


ふと横を流れる小田川を見ると、寒い中、3人ほどの人が川に入って何かをしています。普通に立てるほどの浅瀬で何か長い棒を使っています。

調べてみると、このあたりではシジミ採りができるそうです。シジミのオルニチンが肝臓にいいので、飲んだ翌日なんかシジミ汁がおいしく感じられますが、自分で採るのもいいですね。



歩道のガードレールの外の下ギリギリに地蔵菩薩像がありました。以前は街道沿いにあったのが邪魔なので外に出されたのでしょうか。可哀想な気がしますが、ちゃんとお供えされています。



小田川沿いの歩道が整備されていて気持ちよく歩けます。看板にある「おかやまアダプト」とは、自分が担当する地区を自分の養子(Adopted Child)のように可愛がるという活動団体とあります。とても素晴らしい地域の活動かと思います。

やはり公共は行政に任さず自分たちで作ることが大切です。自分はなかなか出来ていませんが。



このあたり三谷村で徴兵された人々の戦没者碑です。100~200人の名簿が一人一人彫られています。働き盛りの男たちが全員いなくなったわけです。どこに送られたのでしょうか。



吉備大神宮です。



吉備真備(きびまきび)の銅像。吉備津彦と同じ孝霊天皇の系列ですが、時代はずっと後の奈良時代の人です。

遣唐使で唐に18年もの間、文化や技術を学んだそうです。帰国後はその成果を評価され10階級昇進したというからすごい出世です。吉備地方の人というより吉備出身の奈良朝廷の中心人物の一人のようです。



このあたり一帯が公園になっていて、桃畑もありました。



阿弥陀如来とお地蔵さん。第7番(?)と書いてあるようですが、吉備四国八十八箇所霊場というのがあるようで、その中の一つなのかも知れません。



ここから先が、下道(しもつみち)氏の墓で、国指定重要文化財と書かれてあるので上に登って行きます。下道氏というのは吉備氏の先祖にあたる家系のようです。吉備真備も以前は下道氏を名乗っていたと書かれています。



50段ほどの石段の途中にはトイレもありました。どんな墓があるのだろうと期待して登っていった先にあったのが、簡素な石臼のようなモノ。

「何故コレが国指定重要文化財?」と思い、調べてみると江戸時代にこの場所で銅製の骨臓器(骨壺)が発見され、容器のフタに吉備真備の祖母の骨が収納されていると書かれてあったからだそうです。吉備真備は下道家出身なので下道氏の墓となっているわけです。

石碑には「右大臣真吉備公の墓」と書いてあります。吉備真備は71歳にして右大臣まで昇りつめたのですが、吉備真備自身の遺品は見つかってはいないようです。



写真は国立歴史民俗博物館に保存されている複製です。

(Wikipediaより


井原鉄道の三谷駅を過ぎます。井原鉄道は福山市の神辺(かんなべ)駅まで続いていて、西国街道沿いを走ってくれているので、街道歩きをする身には大変重宝します



井原鉄道の路線を見ていて不思議に思ったのは、何故のどかな田舎を走る電車なのに高架にしているのだろうということです。無数の橋脚が立っている割には、車両は1つか2つ。本数も1時間に1,2本です。

井原鉄道の会社設立は1986年。バブルの真っ盛りの頃です。川に鉄橋をかけ、トンネルで山をぶち抜いて、直線最短距離で岡山と福山の内陸部を接続してまえ!というノリじゃなかったのかなぁ。

でも気になったのが無数の橋脚、コンクリートの耐用年数が一般に50年と言われているので、建築が1990年とすれば、2040年には橋脚を全部大規模修繕しなければならない計算になりますが、ICカードシステムさえ導入できない状況を考えるとかなり心配にはなります。



いよいよ矢掛宿にやってきました。大変人気の宿場町なので楽しみです。旧街道でこんな看板が出ているところは、ほとんどありません。



想像以上の美しさです。道は石畳で舗装されていて、両側の家々はとてもよく宿場町の面影を残しています。



なまこ壁に虫籠窓、街道好きにはたまりません~。



矢掛ビジターセンター問屋の横の屋敷の間の小路。



ビジターセンター内部。内部の梁も再現されています。江戸時代には因幡屋という屋号で馬や物資の手配などを行っていたそうです。



12時半なのでランチにします。ご飯屋さんも色々あって迷いましたが、「満点茶屋」に入りました。ランチメニューも6種類ほどありますが、エビマヨランチに。とても美味しい。店内は80~90年代のハリウッド映画のメモラビリアとポップミュージックが。




石井家住宅。案内してもらって内部を見学できます。石井家は酒造業をやりながら大名など高位の客を泊める本陣を経営していた。

矢掛宿の家々が細かく記された地図がありました。全部で200ほどの京町屋のような長細い家々がびっしりと立ち並んでいます。



大名が宿泊、休憩した上段の間。VIPルームです。



欄干のクローズアップです。ブドウのツルと実が彫られています。




矢掛宿を過ぎて荏原駅まで歩いて行く途中には、このように集落の名前を示す案内板がところどころにありました。地域を愛する心を感じます。




一里塚跡。



井原市に入ります。岡山県の最後の市です。井原市は国指定重要無形文化財である備中神楽(びっちゅうかぐら)で知られています。元々は神職による神事だったものを江戸時代に民俗芸能として完成され今に伝わっているそうです。

ただ、ここに立っているのは備中神楽ではなくて歌舞伎の名優を題材にした井原市出身の彫刻家による作品だそうです。



井原鉄道の荏原駅です。6時間半、3.2万歩ほど歩きました。



帰りの井原鉄道の車両は2両で、うち1両はこのような新しくて落ち着いた内装になっていました。田園風景を見ながらゆっくり電車にのるだけの旅も楽しそうです。

この後、岡山駅から山陽新幹線で帰宅しました。

次回はいよいよ広島県入りです!