2020年12月23日水曜日

葛城古道

 コロナの変異種が登場するなど、おさまりのつかない2020年の師走です。河原町でもXmasソングも流れず、正月明けのような寂しい空気。KFCだけがアットホームでローストチキンを楽しみたい人たちが列を成していました。

さて、そんなXmasの前の12/23に、葛城山(959m)、金剛山(1125m)の東側のふもとを南北につながる葛城古道を歩きました。

金剛山も含めてこのあたり山麓一帯が古代は葛城氏の領域で、神武天皇の大和朝廷よりもさらに古いという奥深すぎる古道です。

下がヤマレコの歩いた跡ですが、今回は奈良交通バスの風の森バス停をスタート地点とし、ゴールを近鉄御所(ごせ)駅とした、13キロ、5時間弱(お昼ご飯と休憩込み)のウォーキングです。古道の中の古道だけあり、いにしえのかほり漂う厳かでかつ柔和な空気を感じるコースでした。


ルートは近鉄のハイキングのホームページに掲載されているPDFマップの通りです。


葛城の道の背景となる葛城氏の歴史は、司馬遼太郎さんの「街道をゆく(1)」の「葛城みち」編を読むとよくわかるのですが、簡潔に言うと、

神武天皇が大和に遠征する前から土着の人たちが葛城氏で、到来した大和朝廷に押されていくうち、大和国家の一部となり、最期は、仁徳天皇の孫の21代天皇である雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)により、葛城円(かつらぎのつぶら)が殺されたことにより滅亡します。


さてルートを辿りましょう。近鉄大和八木駅から近鉄バスの八木新宮線に乗車し、風の森バス停で下車します。この八木新宮線は、高速道路を使わないバスとしては日本一の運行距離のバスで、そのまま乗れば、新宮まで連れて行ってくれます。

風の森バス停からすぐに坂道を登って行きます。下は振り返って撮影。


少し曇っていますが金剛山が見えます。左は中葛城山です。以前登ったダイトレのコース


すぐに現れるのが高嶋神社です。室町時代の建築。


溜め池のように見える大きな池に張り出した舞台。能を舞っている姿が目に浮かびそうな、侘び寂びかつ、華麗な雰囲気。


この神社の祭神は、阿遅鉏高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)。大国主命の子供で、古事記で初めから大御神と呼ばれている2柱(一つは天照大御神)の内の一つなので非常に格の高い神様です。

大和朝廷の時代、葛城山麓一帯の人々を「」と呼んでいました。この土地に古くから住む鴨さん達は、古来からの神道を奉じ巫人(シャーマン)として畏敬されていたそうです。

鴨(カモ)は神(カミ)の語源とも考えられており、気が「カモしだす」の語源ともいわれます。

鴨族はその後、山城国(京都)にもやってきて、鴨川とか上賀茂神社の地名の元となりましたが、この高嶋神社は、古代鴨族の根拠地です。


檜皮ぶきの屋根。重要文化財。


このブログで度々登場する修験者の大元締めの役行者(役小角、えんのおづぬ)も鴨族の人です。ちょうど仏教が伝来し法隆寺が建立された頃で、道教から学んだ孔雀明王の法力をふりかざし、古来から葛城に伝わる神々を時代遅れとしてドレイのようにこきつかったと「街道をゆく」には書かれています。


昔ヤンジャンで孔雀王という漫画がありましたが、孔雀は毒草でも毒虫でもなんでも食べるそうで、人間精神を浄化する存在として考えられたそうです。

マンガの孔雀王は、やたらとドロドロになる闘いが印象に残っています。ちょっとエッチなところも読みたい気分にさせてくれたなぁ。



高嶋神社のすぐ横に蕎麦屋があるので、ちょっと早いですがお昼にします。


この蕎麦屋さんは奥に葛城地区を説明する展示館があります。床が巨大なマップになっていてわかりやすいです。

鴨のつけそばをいただきました。鴨氏にちなんだわけではなく、単に食べたかったから。


高天原を登る途中で地元のおばあちゃんとすれ違いました。昔はひっそりとしていたけれど、最近は大阪や京都から人が来るようになったと言いながら、我々と会話できて寂しさがまぎれてうれしそう。

「ここから登ると涼しくなるよ」とおばあちゃん。今は冬なのであまりうれしくない。

高天彦神社(たかまひこ)神社の鳥居をくぐります。


ここから上り坂です。標高450メートルまで登ります。


道は歩きやすい。


高天彦神社です。


葛城氏の祖神を祀る神社。


鳥居の左手に水車がありました。シャッタースピードを変えて回転するように撮影しましたが、ものすごい早く回っているように見えます。

高天水車という名前で7秒間で一回転すると書いてあります。


葛城山に天の川の星がふりそそぐように見えると歌った高天原の石碑。この葛城山は今は金剛山と呼ばれています。


橋本院。行基が開山。


ここから獣よけフェンスを開けて、登山道のような道に入ります。


砂防ダムの上の橋を渡ります。若干古そうで少し不安になります。


景色が開けます。柿の木が立ち並びます。最初は梅の木かなと思いました。


見事に並んだ干し柿。このあたりは、葛城氏の痕跡を残す遺跡群が見つかっているそうです(南郷遺跡群)。


大きなサザンカの木。


路傍で見かけた。赤いぼんぼりの花。


最近見つけたアプリ「Picture This」を使うと、センニチコウと判定されました。このアプリ、AIを使っているらしいですが、確かにマシーン・ラーニングの得意分野ですね。是非、キノコバージョンも作ってほしい。


センニチコウのなかでも鮮やかな赤の種類をストロベリー・フィールドと言うようです。秋には枯れる種なので今がぎりぎりの時期。ビートルズの歌を思い起こさせます。


今回のコースの中間にある名柄(ながら)の江戸・明治期の街並みを残す地帯です。
立派な醤油屋さん。中山道でもそうですが、醤油屋さんは古くから経営を続けてこられているケースが多いように思えます。


大正時代の郵便局の中にはカフェがあります。嫁さんは楽しみにしていたようですが、残念ながら本日休業。テガミカフェという名前。


長柄神社が南にあるのですが、今回は立ち寄らず。


ここから北にある一言主(ひとことぬし)神社へ長い松並木を行きます。途中で国道309が東西に横切ります。

「街道をゆく」では国道工事前のようで司馬遼太郎さんがしきりに嘆いています。幸い高架型なので、景観ぶち壊しといった感じではないです。

地元では、願い事を一言だけ聞いてくれる神様と親しまれているそうです。


一言神社の前にあった、蜘蛛塚(くもづか)。大和朝廷に服従しなかった土着の人たちを蔑称として土蜘蛛と呼ばれましたが、そんな不幸な人たちを祀っているように見えます。


土蜘蛛は日本書紀をはじめ古来から妖怪として描かれていますが、狂暴で強く、穴から現れては人を襲ったように言われていますが、土蜘蛛として言われた側からすると、後からやってきた侵略者への必死のゲリラ戦だったのでしょう。



一言主神(ひとことぬしのかみ)は、葛城国の土着神であったのが、先述した21代の雄略天皇と出会い、大和朝廷にかしずくことを拒んだかどで、土佐国(とさのくに)に流されてしまう。

また、一言主神は、いにしえの神を否定した役行者からも無茶な工事を命令されて、天皇に泣きつき、さすがに「これはアカン」とした天皇が役行者を伊豆に流したそうです。役行者は伊豆から戻ると、「天皇にチクりやがって!」と激怒し、一言神を谷底にけり落して、カズラでもってスマキにしたそうです。

なんだか苦労続きの可哀そうなカミサマですねぇ。というか、そんなに弱いのに神様ですか?

でもその300年後の奈良朝時代に葛城国の子孫たちである鴨族の巫人の願いがかない、一言主神は無事にこの地に戻ってこられたそうです。


ちなみに役行者が一言主神に命じた無茶な工事とは、葛城山と金峯山を結ぶ橋を作れというものでした。葛城山も大峰山も修験道のプレイグラウンドなので役行者としてはいちいち地上に降りるのが面倒くさかったのでしょう。

どんなものか実際に調べてみると、17キロの橋となり、明石大橋の4倍の長さです。さすがの鹿島建設もたじろぐ工事です。

そんな無茶な命令を受けた一言主神は、「私は顔が醜いので昼間は外に出ることが無理で、夜にしか働けないので時間がかかって無理です」と無残な言い訳をするも、役行者からは、「おまえの顔がどうだろうが関係ねぇ!昼も働かんかゴラァ!」と怒られたそうです。

どこまでも情けない神様です。

というか、役行者さんもキレイな橋でラクをしようという根性で良いのか!と思います。役行者さんの評価ポイントがかなり下がった逸話でした。

ただ、そんな一言主神さんですが、どれだけいじめられても、決して役行者が押し付ける仏門に下らなかったことタフさは立派だと褒めたい。


神社の境内には樹齢1500年以上といわれる20メートルのイチョウの大木があります。


もはや自力で立てない妖気すら漂う老木です。根が空中に伸びて呼吸を助ける気根と言いますが、これが乳のように見えるので、乳イチョウと呼ばれています。


畑のあぜ道のようないい感じの道を歩きます。こういうきちんと手入れされた古道が残されているのは素晴らしいことです。


美しい段々畑。山から流れる貴重な水を階段式に流していく技術は葛城国の時代から受け継がれてきたと言います。



神武天皇の子の二代目である綏靖天皇(すいぜいてんのう)の頃の都であったといわれる高丘宮(たかおかのみや)の碑。

それにしては、新しめの石碑一本でそっけないのですが、それは、この綏靖天皇の存在自体がはっきりしないからかもしれません。


屋根付きの休憩所があったので、コーヒーを飲んで休憩。


立派なお屋敷があります。メンテにお金がかかるのでしょうが、今は何を商売にされているのでしょうか。余計なお節介ですが。


こちらは九品寺(くほんじ)です。ここも行基開設。


こちらのお寺の裏には千体石仏とよばれる石仏群があります。道沿いにも前掛けをした石仏がびっしりと並んでいます。


これだけ並んだ石仏はあまり見たことがありません。南朝軍の兵士の慰霊ともいわれています。


ここからの道は御所市と大和三山がよく見渡せます。手前の丘陵が畝傍山(うねびやま)、左の形の良いのが耳成山(みみなしやま)で、右のあまり形の良くないのが天香久山(あまのかぐやま)です。


六地蔵の石仏。室町時代の作。


今でも集落の生活に溶け込んでいるようで微笑ましい。


このあたりの字は櫛羅と書いて「くじら」と呼びます。写真に写っている学校名は大正小学校。櫛羅小学校だったら、生徒が学校名を書けないという問題が起こりそう。


近鉄御所駅に向かう柳田川沿いを歩いていると、ところどころ桜の枝に緑のかたまりがくっついているのが見えます。これはヤドリギです。鳥の巣のようにも見えます。

これだけ多くのヤドリギが付いている桜を見たのは初めてですが、ヤドリギは実が粘着性で、実を食べた鳥の糞が木の幹に付着して、どんどん増えていく仕組みです。

寄生植物ですが、桜が枯れるということはなく、自分で光合成はするので、桜の幹からは水分を拝借しているだけのようです。

ここから国道24号線の近鉄御所駅で乗車して帰路につきました。