2020年2月29日土曜日

神呪寺から甲山

私の出身地である西宮市の甲山。子供のころ何度もいったのですが、今回、登山という形できちんとハイキングしてみます。

阪急の甲陽園駅を出発し、地元の人もほとんど誰も知らない(私も知らなかった)八十八か所巡りを経て、神呪寺の登山口から甲山(309m)に登り、森林公園、そして母校、関西学院大学(関学)を訪れてから仁川駅でゴールです。


甲陽園駅を出発。あまり天気は良くありません。


西宮では、「園」と名の付く場所は高級住宅街として知られています。香櫨園、甲風園、甲東園など、「お金持ち」が住むところ。


少し歩くと、こんな案内板がありました。朝鮮人、台湾人、千人以上が動員されたらしいです。紫電改は、もともと水上戦闘機であった「強風」を陸上機に変えた「紫電」の改良型。

高級住宅街の甲陽園に、このような暗い歴史があったとは、ここを歩くまで知りませんでした。


この屋敷は塀をジグザグに登ったところに立派な門があり、さらに登ったところに屋根が見えます。

家というか、砦のようです。不審者には上から弓矢が飛んできそう。


高級マンションの横の急な階段を上っていきます。


すごい坂。高級住宅に住む人たちが使っているとは思えない。使用人のための裏道っぽい。


これまた豪邸。重厚な門です。


目神山(めがみやま)。こんな坂道の上の高級マンションって、本当に価値があるのでしょうか。タクシーで芦屋の寿司をつまみに行くのでしょうが、あまり羨ましくは思いません。というか家賃1万円でも住みたいとは思いません。


これは御手洗川(みたらしがわ)。岩盤の上を流れているのは六甲からつながる地盤を感じさせます。


西宮の河川について、地元出身でありながら真剣に学んだことがありませんでした。子供の頃、親から「みたらし川」と言われていたのは、実は津門川(つとがわ)で、御手洗川は、甲陽園あたりまでは、「東川」という名前になっています。でも、東川に沿った道を「みたらし通り」と言っているので、昔は御手洗川と言っていたのでしょう。


かなり登ったところに、すごい豪邸が。庭もとても良く手入れされています。このクラスになると、たぶん運転手やメイドさんがおられるのでしょう。


道路に、ひっそりと階段が設けられています。ここから八十八か所巡りのルートになります。お地蔵さんの前掛けの赤が見えています。


八十八か所巡りと言えば、四国なのですが、当時は外国に行くようなもの。なのでミニ巡礼コースをつくってなんとか御利益にあやかりたいということなのでしょう。


京都の、仁和寺にもミニ版の八十八か所巡りがあり、以前、訪れました

通称、甲山大師と呼ばれる神呪寺は、仁和寺の末寺(まつじ)なので、仁和寺に倣って作ったのでしょうね。

仁和寺のは、一つ一つ祠が設けられていましたが、こちら末寺バージョンは、一か所につき、2,3の石仏が置かれているだけです。仏様別に唱える言葉が違うのは仁和寺と同じですが、字が薄れて読めない。


甲山を背にした石仏群。良い写真です。


甲山のふもとに神呪寺の屋根が見えてきました。





八十八か所巡りは、道路の両側にあります。全部きちんとお参りしようと思うと、両側を一周するように周らないといけないのですが、今回は、神呪寺に向かって、片方だけのお参りです。
いったん道路に降りて、別の側のルートにいきます。金網の隙間に入ります。


神呪寺の仁王門前の桜茶屋。


神呪寺に行くときはいつも、甲山大師道を車で来るので、大師道の下に、仁王門があることは知りませんでした。


こちらが仁王門。神呪寺までずっと続く階段が見えます。


南方を守る守護神、増長天。


増長天の足元には、千羽鶴が。


甲山大師道からさらに階段を上ります。


神呪寺にあった史跡マップ。甲山は、もともとは火山の噴火でできた山で、粘性の低い溶岩で、すそ野まで広がったものが浸食されていまの形になったそうです。


神呪寺は、平安時代の初め、828年に、天長帝、淳和天皇の第四妃であった如意尼(にょいに)が開祖です。源頼朝の時代に諸寺に広がり隆盛を誇ったものの、信長による焼き討ちで多くを焼失し、いまあるお寺は元々の奥の院があった場所のようです。

八十八か所巡りのあたりもお寺が広がっていたのでしょうね。


神呪寺のご本尊は、如意輪観音(にょいりんかんのん)、観音菩薩の変化身(へんげしん)の一つとされています。

開祖の如意尼は、空海との関係も深かったそうで、特に如意輪観音への信仰が厚かったそうです。ご本尊は、空海が、如意妃をモデルにして、桜の木から作ったという伝説があるので、如意妃という尼さんは、相当の尊敬を受けていたようです。

元々は、丹後(今の山陰)の海部氏系の家系で、幼名を小萩と名であったとのこと。


この神呪寺から見える景色が、実に素晴らしく、神戸から大阪の先の関西空港まで見渡せるのですが、今日はあいにく天気がイマイチです。


さて、神呪寺の後ろから登山口に向かいます。



登山道はとても良く整備されています。地元の人らしき数人の方とすれ違います。


景色が広がります。モヤってますが。


神呪寺がすでに標高があるので、すぐに山頂にたどり着きました。頂上は広いのですが、ただの平地です。

日本書紀による最初の女帝とされる神功皇后(じんぐうこうごう)が、ここに兜や宝珠を埋めたといわれており、甲山には財宝が埋まっていると地元の人たちは信じています。

さらに、六甲山の地下には宇宙人の基地があり、甲山からUFOが出入りしているという噂もありました。


ここが三角点。309メートル。


六甲の連山が見えます。


森林公園に向けて下山します。



しばらく行くと、みやたんハウスという名前の子供のママゴトみたいな家があります。
みやたん、とは西宮市のキャラだそうです。2011年に誕生とのこと。知らんかったー。


甲山自然の家。手前の別館には、両生類や昆虫が飼育されている様子を見れます。奥の建物は研修室や宿泊室を備えた建物ですが、そんなに使われているようにも見えません。


この説明版がわかりやすくて良かったです。6000万年前まで花崗岩が上昇したところに、1200万年前にマグマが噴出して、安山岩の甲山となった。


今回のルートは右側ですが、左側にも甲山自然観察池を訪れるハイキングコースがあるようです。


説明版の下にあった岩石。


左上のツルリと光っているのが安山岩で、本体の粗目の岩が花崗岩。両方がくっついているのが珍しいということ。こう見ると、確かに安山岩の方が硬そうに見える。


このあたりはキャンプサイトもいくつかあります。常設テントもあるので、また来てみたい。



森林公園へ向かって降りていきます。


シンボルゾーンの「愛の像」。明治百年、県政百年を記念して昭和48年に建てられた像です。ピンボケしてしまいましたが、1970年の万博の3年後なので、なんとなく岡本太郎の太陽の塔と似ています。


甲山周辺はGoogleが3Dデータになっていて美しい。これを見ると、シンボルゾーンが甲山頂上と一直線に揃っているのがわかります。


これが今日のベストショットかな。


クスノキ並木のがとても良い気を醸成しています。ここのベンチに座って一日読書を楽しむのも悪くない。


ベンチに座って、同じ構図でもう一枚。


彫刻の道。この時代はこういう抽象芸術が流行った時代でした。今見ると、あまり芸術性は感じられません。


ちなみに、私が以前住んでいたそばにある服部緑地の像。これも70年代の彫刻ですが、正直、もうちょっとマシなものが...と思っていました(スミマセン)


さて、森林公園を後にして浄水場に向けて下っていく途中にあった。六十六部供養塔。六十六部とは、法華経を収めるために全国行脚する僧のことを言いますが、水道整備の際、この供養塔を取り払った結果、病気や怪我が続出したため、あわてて元に戻したという逸話があるそうです。


六十六部さん。長細い箱の中には仏像が入っています。よくこれを担いで全国を廻ったものです。


上ヶ原浄水場。てっきり西宮市の住民向けに供給している水だと思っていたら、神戸市内へ供給している水でした。地元に長らく暮らしていてもちゃんと調べないと何もわからないものです。


明治の初めまでは誰もが井戸水を使っていたところ、1877年に神戸でコレラが発生し、水道を作ることになり、淀川から水を引くよりも、武庫川上流の千苅にダムを造り、そこから上ヶ原まで水を引っ張ってきて浄水化して、神戸市に送水するようにしたのが発端です。

ちなみに、日本で当時コレラで亡くなった方は37万人。日清・日露戦争の死者よりも多く、沈静化するのに3年かかったようです。今流行しているコロナウィルスはここまで脅威ではないでしょうが、沈静化するには、やはり数年かかるのでしょうか。

その後、水の需要が高まり、千苅のさらに北の、青野ダムからも水を引いたがそれでも足りず、いまでは神戸の水の75%は、淀川の水だそう。




浄水場から、わが母校、関西学院大学へ。いつ見てもこの時計台はよいものです。

1886年、JWランバス一家が作った読書館が発端で、その子息であるWRランバス博士が1889年に設立したのが関学です。


私が学生の頃と比べて、浄水場のすぐそばまでいろんな建物ができています。さらに三田にもキャンパスがあります。行ったことないですが、三田と上ヶ原ではキャンパスライフにも雲泥の差があると思います。


私が通っていた理学部棟。今は理工学部として、三田キャンパスに移動してしまい、この建物は全学共用棟として、経営戦略研究科などが直前まで入っていたようですが、それも移動してしまい、いまは空き家になっています。


扉が開いていたので昔を懐かしみ勝手に中へ入りました。この建物は、出来た時から、関学のスパニッシュ・ミッション様式のカケラも感じさせない、イケてない建物で、理学部は偏差値で言えば、主力の経済学部よりも高かったのに、学内の他の学部からは、オタクみたいな目で見られていました。

まあ、偉そうに言うほど、ちゃんと勉強してませんでしたが、社会人を数十年やって思うに、会社の仕事など、量子力学の不確定性原理や一般相対性理論に比べれば、難しいと思ったことはなく、社会にでると難しいのは、何よりも人間関係ですねぇ。