2017年11月25日土曜日

桟敷ケ岳

今回の桟敷ケ岳の写真はすべてiPhone Xです。さっそくiPhone Xのカメラでアンちゃんを撮影。ポートレート撮影でボカシが利くようになったのでいい感じに撮れています。


登るには、北大路駅から出る「もくもく号」に乗ります。8:40発で料金500円。8人乗りくらいのマイクロバスに30分乗って下の「現在地」の場所である岩屋橋に到着。
左が志明院、右が桟敷ケ岳登り口と出ていますが、面白いのは左側です。今回は左側から入って頂上からぐるっと回って、この右側の道を逆に歩いて、岩屋橋に戻るというルートです。


山と高原地図でいくと今は〇の場所。ここから右回りにいきます。



左に入ると旅館なのか食堂なのかお店がある。お客さん来るのかな?


惟喬親王(これたかしんのう)を祀る神社。桟敷ケ岳の由来は、惟喬親王が都を眺めるために山上に高楼を作ったという伝説から。でも実際登ってもそんなに都の景色は良くはなかったですが。


しばらく車道を進みます。iPhone Xの写真は確かに解像度は目まぐるしく上がっているけれど、階調の自然さはまだまだRX1Rには及ばない。全体にフラットな感じがする。


この階段の先は志明院。最初はこのお寺を抜けていくのかと思い進んでいくと、明らかに人を歓迎したくない老婆に山に行くなら脇道を通るように言われました。

このお寺には魔物が住んでいて怪奇現象が起きるといううわさ。


お寺を左手に見ながら脇道を上がっていきます。


この標識を右に行きます。ネットを見ると間違えて左にいった人も多いみたい。


この桟敷ケ岳は、あまり目印のテープも少なく、道がはっきりしないので、GPSなしで間違えずに上るのはまず不可能、と言っておきましょう。

今回のiPhone XはGPSとデジタルコンパスの精度が非常に良いので、ものすごく助かりました。逆にこれが壊れことを考えるとコワいです。


これが六体地蔵。進路は奥から手前に進んできたのですが、これをそのまま手前方向にいくと大森リゾートキャンプ場に行くようですが、桟敷ケ岳は地蔵達の背中側を進みます。


iPhone Xのポートレートモードで。


六体地蔵のある場所は薬師峠とよばれています。


すぐに何やらお墓のようなストーンサークルが。何となく不気味です。


こういう道がはっきりとわかるルートは少ない。


かなりな急こう配をストックを使って登りきると、岩茸山(いわたけやま)。


ここから桟敷ケ岳頂上までは尾根沿いです。急に景色が開けました。向こうに見える山はナベクロ峠と言われる場所のようです。


これは魚谷山(いおだにやま)方面。


送電線。いつも思いますがよくこの山奥にどうやって立てるのでしょうね。


桟敷ケ岳頂上に到着。誰もいないし、景色もさして良いわけはないのでヤッターという気分にはならない。


こんな景色を見ながらお弁当をいただきました。沸かしたお湯で食べる豚汁が美味しい季節になってきました。


さて、帰りは東向きのルートで下っていくのですが、沢沿いになります。雨が降ったあとなどは、おそらくこのルートは避けた方がいいと思います。


GPSで何度も確認しながら間違えないように進みます。このような標識はほとんど出てきません。


途中に相当な急こう配があります。多分道を間違えたのだとは思いますが、落ち葉で滑りやすく、ストックで支えながら下りて行ったのですが、見事に滑って3メートルほどいってしまいました。滑る途中でストックを置いていってしまったので、また這い上がってストックを掴んでまた滑るというちょっとしたスリルを味わいました。

滑った先にはまた沢があります。イワナが獲れるんですね。いまは禁漁のようですが。


すぐに道路にでてしまいました。「えっ」という感じです。自転車で登ってくる若い子たちがいました。


ひたすら道路を歩いていきます。はっきりってあまり面白くありません。行きのルートを戻った方が良かったかも。


スタート地点の岩屋橋に近づくと赤い提灯が。


料理旅館 洛雲荘。川床料理で冬のぼたん鍋が名物ということ。でも車で来たら飲めないし、泊まるほどではないし、微妙です。


北大路へ戻る「もくもく号」は15:10発。ところが岩屋橋に戻ってきたのが13時前。やはり帰りが道路だったのでめちゃくちゃ早く着いてしまった。
こんなところで2時間も待っていてもしょうがないので、もくもくのルートを逆に、とにかく歩き出す。

このあたりは雲ケ畑と呼ばれ、平安時代は平安京の木材をここから支給していたということ。


道すがらのお家。松の枝を家の坂に合わせて伸ばしている。昔からのちゃんとした集落という雰囲気。


持越峠。このあたりはサイクリングコースになっているようで、スポーツ車でスイスイ走っている人が幾人か見かけた。





途中で二ノ瀬へ向かう東海自然歩道のルートを見かけたのでそちらへ向かう。北大路までいくにはまだ10キロほど歩くが、こちらのルートだと3キロ弱。


夜泣き峠へ向かう道へ出る。夜泣き峠にいくのは三度目。



最後は二ノ瀬にでるので叡山電鉄鞍馬線に乗って帰りました。

岩屋橋から二ノ瀬へのルートはこちらです。


2017年11月12日日曜日

高野山

高野山へは登山と組み合わせたかったところだが、高野山自体観光名所が多いので、時間の関係上、車で行きました。

高野山のマップはこちら。これだけ広い土地が標高800mに存在しているというのが奇跡的で、空海が宗教都市として目を付けたのも納得です。ブラタモリによれば、高野山は泥岩(でいがん)の基盤に水がたまった上を土が覆っているような地形になっているせいで、水が豊富で、それも空海がこの場所を気に入った一つの理由だそうです。

大門をこえると、美しい紅葉が出迎えてくれます。


到着してから宿坊に荷物を置いて周りを散策し始めると、すでに夕暮れで、壇上伽藍の中門がライトアップされています。

壇上伽藍は、弘法大師空海が高野山で最初に建てたと言われる場所です。

空海は最澄と一緒に唐へ渡り仏教を修めて空海は真言宗を始めて高野山を開き、最澄は天台宗を始めて比叡山を開きました。どちらかと言えば弘法大師空海の名前の方がよく見かけるのは空海が熱心に各地をまわって布教に努めたからなのでしょう。
一方最澄はすぐそばが京都だったので朝廷との関係で手一杯だったのかもしれません。

空海の凄いところは、唐における密教の師である恵果(えか/けいか)和尚から、灌頂(かんじょう)と呼ばれる最高の位を授かり正式な密教の後継者として認定されたことです。中国では残念ながら仏教の教えは衰退してしまいましたが、日本でしっかり仏教が継承されたのも空海の功績が非常に大きいのです。


祀られている四天王の像は平成になってから造られたもの。


ついつい紅葉が主役になってしまいます。






金剛峯寺の門。提灯がいい感じ。



今回の宿坊は蓮華院というところ。精進料理といえども、種類が豊富で美味しい。
でもいかんせん、魚も肉もないので、すぐにお腹がへってしまいます。

ビールは最初に出してもらえましたが、そのあと、宿坊の方は誰も食堂におられないので、追加も頼めません。どうやら宿坊は家族経営みたいで、お食事中は必死にお部屋で布団を敷いておられたようです。

宿坊の方々はとてもにこやかで親切で、お嫁さんは赤ちゃんを抱っこしながら働いておられました。裏に建っている立派な家を見ると、お金には困っているようには到底思えないのですが、人は雇わない主義なのでしょうか。


翌朝は6時半から、お堂に集合して、お経を聞きます。その後、本堂の周りを和尚さんが案内してくれます。この蓮華院という宿坊は、元々室町時代から松平家が檀家であったことから、徳川家と縁が深く、歴代将軍の位牌が祀られていました。でも第十五代慶喜の位牌だけはないそうで、それは、徳川家を滅ぼしたから、だそうです。状況を考えれば慶喜だけのせいでは全然ないのにちょっと酷い扱いですね。

あと秘宝としては家康が関ケ原や春夏の陣の際に必ず持参したという仏壇が置いてありました。

希望者には写経や瞑想の阿字観(あじかん)も体験できます。


こちらが蓮華院のフロントです。大和ハウスと関連があるようで、木材をたっぷりと使った近代的な宿坊です。

ちなみにフロントにはチェックイン時もアウト時も誰もいなくて、呼び出しの鐘があるのですがそれでも誰も出ず、結局電話をかけると、赤ちゃんを抱っこしたままにこやかに「すみません」と出てこられました。ホテルじゃないし、大変そうだし、しょうがないか、という気持ちになります。



車は駐車場に置かせてもらったので、蓮華院を後にしてあらためて高野山観光に出発。




こちらは警察署です。さすがに僧兵による自警、というわけにはいかないようです。


まずは北西の女人堂に向かいます。





女人堂に到着。高野山に入る道は7つあって、以前はその全てに女人堂がありました。現存するこちらの女人堂はそのなかでも最大のものだそうです。
ここから先は女人禁制なので、女性はこちらで参籠をされていたのです。



真言宗である高野山の本尊は、大日如来です。
お供え物に芋やレンコンなどがありますが、斜めに切っているのは、「新鮮なものをお供えしていますよ」というメッセージだそうです。


女人堂を後にして元の道を戻ります。
途中の徳川家霊台に立ち寄ります。右が家康、左が秀忠。作ったのは三代目家光。



日差しが明るくなってきました。なかなか良い写真。


金剛峯寺に入ります。意外にそんなに大きなお寺ではありません。




撮影禁止のためネットから拝借。狩野派の蒔絵がある大広間と持仏間。



蟠龍庭(ばんりゅうてい)。蟠という言葉は「とぐろを巻く」という意味なので、龍がとぐろを巻いているイメージなのでしょう。



はやり龍だけあって、京都の禅寺の庭石と比べるとかなり荒っぽい大きな石です。


破風には精巧な龍の彫刻が。


金剛峯寺を出て、壇上伽藍へ向かう途中で見かけた赤い橋と紅葉のコンビ。

この高野山のメインストリートは、ブラタモリによれば、以前は御殿川(おどがわ)という川だったそうです。埋められたわけではなく、いまでも下に流れており、そういう水路のことを暗渠(あんきょ)というらしい。タモリは地学にはえらい詳しい。


ここが壇上伽藍。


伽藍とは、宗教施設が集まった建物群といったような意味です。壇上は、「~の上に」という言葉。この場所が高野山でも一段高いところにあるからだそう。

ここはかなり広いお寺です。


こちらは金堂(こんどう)。内部も金色です。


こちらはネットから拝借のご本尊。薬師如来像で近代の作。壇上伽藍は多くの建物が江戸時代後期から昭和の建築です。何度も火災に見まわれ、しばらく放置状態になっていたのを江戸後期から復興させたそうです。




根本大塔。昭和の建物で見るからに新しく派手ですが、いかにも鉄筋コンクリートといった感じで味気がない。


赤と青空のコントラスト。


この不動堂は14世紀のもの。焼けずに残ってよかった。

高野山は平安時代から落雷でほとんど建物が消失して僧がみんな山から下りてしまうほどだった。比叡山を焼き討ちにした織田信長は、高野山も敵対し、僧を数百人殺して、高野山も焼き打ちかといった寸前で本能寺で殺された。


愛染堂は江戸時代。根本大塔の写真に比べて、こちらのほうがお寺らしいです。


東塔、これも昭和の建築。後ろに見ゆるは大塔。




大会堂。


この松は、空海が唐から帰国するとき、放り投げた三鈷杵(さんこしょ)がはるか高野山まで飛んで行ってこの松にひっかかった、という逸話があります。
この松の木には三鈷杵にちなんで3つの葉があると言われます。なので、みんな一生懸命地面に三つ葉の松を探しています。おかしいですね。


西塔。本塔を東塔と西塔をはさむ形になっている。


壇上伽藍を後にして奥の院へ向かいます。

メインストリートで見つけた変な店。いったい何を売っているのでしょうかね?


途中にあった紅葉スポットです。



奥の院へのマップ。


ここから院山道に入ります。


杉の大木。樹齢200年とか300年の大木があっちこっちに生えています。やはりお墓で仏様たちのエキスを吸って育った木々をやすやすとは切れないのでしょうか?


これが奥の院のお墓の地図です。左上にあるのがお墓の構造の説明。下から、地、水、火、風、空。五重塔もこの5つの要素を意味しているという話。



誰のお墓かわからないけど手前と奥のコントラストが良かったので。


これは伊達政宗。歴史の教科書にでてくる有名人は大概お墓になっています。
弘法大師の元にお墓を作ることで極楽往生できると信じていたから分骨でもお墓を造ったという話ですが、多分本当の骨が埋まっているのはほとんどないのでは?




ここから先は撮影禁止です。弘法大師御廟。


水かけ地蔵さんたち。



帰りに撮った火のように燃える紅葉。