2017年3月26日日曜日

本法寺の長谷川等伯

本法寺で長谷川等伯の大涅槃図を公開していたので見に行った。先週は腰をいわしてほとんど動けなかったのがリカバーして歩けるようになった。うれしい。

これはチラシ☟

一年のうち少ししか公開しないため絵の傷みが少なく、彩色が非常に鮮やかなまま保たれている。普段は巻いて箱にいれて保管しているらしい。

勿論撮影禁止なのでこれはネットで拾った画像を自分の記憶に基づき若干色温度補正をしてます。


満月の光に照らされて永遠の眠りにつく釈迦を悲しむ者たちが描かれており、高さが10mもあるので下からだけでなく、二階からも鑑賞できるようになっている。

下部に描かれた動物たちの中には犬のコリーもいて、獅子や象などが抽象的に描かれているのに比べると精緻に描かれていることから等伯は外国から来た実際のコリーを見て描いたのではと言われている。あと、釈迦の頭の一番左端で沙羅双樹に寄り添う緑の服を来た男は等伯自身だと言われているらしい。この作品を描いたのは60歳になってからでちょうど関ヶ原の闘いがおきる直前頃の作品とういうこと。

等伯は能登出身で絵師となり京都にきてから大きく評価されて、狩野派と並ぶほどの大家となった人。千利休と親しくしていたという。狩野派の大御所、狩野永徳とはライバル関係で仕事の邪魔をされたりしたらしい。

この作中の緑の衣を着た永徳は、自分の跡継ぎに決めていた長男を亡くし、友人の利休は秀吉に切腹させられて、深い悲しみを表情にたたえている。


本法寺(ほんぽうじ)は、日蓮宗のお寺で、所在地を何度も移している。大坂堺に場所を置いていたこともあったという。

これは日蓮の蓮池。残念ながら蓮はまだなかったが、池の周囲のデザインがとてもユニークだ。本阿弥光悦の作品。


お堂の前には見事な桜の木があり、花を吹き出そうとする蕾が無数にある。いよいよ春がやってくる。



ウグイスが「ホーホケキョ」と鳴くのは春だけ。澄んだ声が美しかったのでスマホで録音しました。




2017年3月18日土曜日

中山道 大湫宿~細久手宿(無念)

前回、大湫宿(おおくてじゅく)まで行ったので、今回三連休で、再び中山道を再開することにした。

前回は大湫宿からJR釜戸駅まで歩いて行ったが、四キロの車道の下り坂だったので楽しくなかった。

調べてみると、釜戸駅から大湫宿まではコミュニティーバスがあるのだが、なんと週末は運休しているということで、東鉄タクシーに電話で予約した。

釜戸駅に到着すると、ちゃんと車の外に立って待っていてくれていたので、前回の中山道の終着点だった高札場(こうさつば)まで走っておろしてもらった。

「さぁーいよいよだぁー!」と充実したスタートに喜びいっぱいになりつつ、バックパックの中のカメラを取り出そうとしゃがんだ途端...

ビリビリ!

腰の後ろに衝撃が走った。その瞬間、JR在来線とタクシーを乗り継いで寒村に置いてけぼりにされたむなしさに無念の気持ちでいっぱいになってしまった。

去年もテニスを始めた時に一度やっており、その辛さはわかっているので、もはや歩くのは諦めて、予約していた大黒屋さんに断りの電話をいれると、当日キャンセルは全額払ってもらわねばならず、もし良ければ車で大湫宿まで迎えに来てくれるという。

それならとお言葉に甘えて、車に載せてもらい、宿に着いた。大湫宿から大黒屋のある細久手宿(ほそくてじゅく)までは車道が走っており、基本的に車道の北側が中山道なのだが、ところどころ車道と中山道が共有しているという。恵那から大湫まではほとんどが山道だったので街道を味わうという意味では細久手までは面白味は薄れるようだ。

宿に着いて部屋のある二階に案内される。腰をいたわりつつゆっくりと上がる。

階段の踊り場が廊下になっていてとても風情がある。


この奥に、刀による傷跡があったのだが、正直刀なのかよくわからなかった。

とても静かでよい空気でした。




部屋にはすでに布団が敷いてあったので夕食の時間まで横になって安静にしていた。

5時にお風呂を入れてくれたので入る。小さな家族風呂だがよくあったまった。

6時に夕食で、部屋に運んできてくれた。



日本酒は注文。料理は決して豪華ではないけれど、山や川の幸を使った心のこもったものでした。

聞いてみると今日のお客さんは自分だけらしい。中山道は外国人で大人気だと思っていたけれど、大人気なのは妻籠と馬籠で、それ以外はあんまり来ないという。考えてみればそりゃそうで、初めて中山道を歩く外国人が、いきなりマイナーで車道の多い細久手には来ない。

そんな状態なのにキャンセルしようとしていたことに対して反省。

翌朝は7時に朝食。一階のお座敷でいただく。



歩けないので8時に予約したタクシーが到着するあいだ、宿の周りをヘロヘロの腰で歩く。

細久手宿の看板を見ながら、絶対リベンジしてやるぞと誓う。


こちら大黒屋さんの外観。


タクシーはJRの瑞浪(みずなみ)駅まで走ってくれたが、非常に丁寧なドライバーさんでした。「みずなみ」という読み方が珍しいのだが、古代は海だったらしい。ちょうど今小学校の合併で新校舎を建てていたところ、アンモナイトの化石がでたと新聞に載ったそうです。

ホームで電車を待つと、確かに「化石のまち 瑞浪」と看板にでていた。「化石のまち」と言われてもねー。あまりアトラクティブではない。


ということで、今回の中山道は「無念」編でした。考えてみれば先週は肩と背中がガチガチに凝っていて、その状態でかがんだから、腰の筋肉が切れたんだろうと思う。

ふだんから力を緩める練習をしなければ...と考えているところ。

2017年3月11日土曜日

城南宮の「しだれ梅と椿まつり」


梅苑で有名な城南宮に行きました。

地下鉄竹田駅から歩いていくと、平安時代の鳥羽天皇陵がある。左に上から一本太い道が走っているのが朱雀大路。いまの千本通りの場所だけど、千本通りはぐにゃぐにゃ曲がっています。



鳥羽離宮跡配置図を見ると、当時は城南宮の南が入り組んだ池になっていて、竹田駅の南は斜めに賀茂川が流れていたことがわかる。

鳥羽離宮は川沿いにあったので、当時の平安京へパイプがつながる物流拠点であったのと同時に、貴族たちが余暇を楽しむ場所であったそうな。特に城南宮は半島みたいになっていて橋が架かっている。白河上皇、鳥羽上皇と二代の天皇が趣味でつくったような風光明媚で優雅な離宮だったと思いをはせる。



もう少しあるくと、北向不動院がある。これは、北に位置する皇居を守護するために鳥羽上皇が勅願したお寺と、ある。

勅願(ちょくがん)とは、天皇直々に神仏に祈願することをいうそうです。

本尊様は中におさめられて見えないのだが、写真にあるように外にも北を睨んでいるお不動様がおられました。

ふつう、仏さんがいて、その両脇にお不動さんがいるのだけれど、これは、お不動さんがメインで、仏さんはお不動さんの頭の後ろに座っておられます。

ただ、ここはやたらと仏さんやら神様の像が多い。寄進したら横に名前をつけて石仏が建っていたり、どこをお参りすればよいのかわからない。

さて、阪神高速の下を通ってしばらく歩くと城南宮につきます。

Wikiを見ると「城南」というのは平安京の南にあるからだそうです。鳥羽離宮や平安京そのものよりも歴史が古いようで、その後は京都御所の裏鬼門を守る神となり、貴族の方違の宿所だったと書いています。

それだけ歴史のある神社であるのは、やはり小さな半島で風光明媚なところが大きかったのではないでしょうか?

ちなみに方違(かたたがえ)って知りませんでしたが、昔は方位神(ほういじん)というのがいて、東西南北をぐるぐる回っており、その方位神のいる方角にまっすぐ進めないので、いったん別方向に移動してからということをしていたらしい。

しかも、その方位神は神によって回る周期がことなるので、その神々の惑星周期を読んで、それらを避けるというのは驚異的に面倒くさい...と言ったらバチがあたりそう。


さて、城南宮ですが、梅のベストなタイミングにいったので、梅苑が素晴らしかった。




梅のほかには、椿が有名です。


椿の花は、まるごと落ちるので首を切られることを思わせるらしく、武士には嫌われていたらしい。ただ、とても絵になるのでお庭のそこここに散りばめられていました。




椿は赤い花、と思っていたら、いろいろな種類があるんですね。こんな白と赤が縦縞になっているような種類は初めて見ました。


さて、城南宮のあとは、名物の「おせき餅」。ふんわりやわらかでおいしかった。

それから鳥羽伏見の戦いの発端となった小枝橋に行く。洛中に入れろとせまる幕府軍と、入れさせまいとする政府軍が衝突したところ。


ちょっと見にくいですが、衝突は、小枝橋のある「鳥羽」と、昔の伏見城のあった場所「伏見」の二か所で発生したから、「鳥羽・伏見の戦い」というということが初めてわかりました。

恥ずかしながら、鳥羽って三重県の鳥羽だと思っていました。なんで幕府と政府があんなところで戦ったのだろう...と。

調べてみると、「鳥羽」とは「泊場」が語源らしく、京都は、先述した城南宮が方違の泊場、三重は熊野古道の泊場だったからだそう。

なんでも調べてみると発見がありますねー。

鳥羽・伏見の戦いは、鳥羽が最初で、その大砲の音を聞いて伏見でも戦いが始まったと。人数では3倍の幕府軍も近代兵器と訓練を受けた政府軍に押されて大阪に向けて敗走してしまいました。





2017年3月5日日曜日

中山道 大井宿~大湫宿

京街道がまだ完遂していないけれど、これからの本格街道歩きを体験する意味で東西街道の大動脈である中山道にチャレンジ。

時々耳にする恵那峡のある恵那からスタートすることにし、「じゃらん」で素泊まりプランから恵那ラヂウム温泉館を選ぶ。在来線を乗り継いで恵那駅に着き、徒歩で温泉館まで歩く。


素泊まりなので夕食と朝食は京都駅で購入した弁当を持ち込んだ。本当は禁止されているそうですが、周りに食べるところがないから仕方がない。


温泉は夜と朝とで男女が入れ替わるシステム。亀の湯という名前のついた風呂。岩窟の中は大人二人がなんとか入れるサイズで、サウナほどではないが、体全体があったまる。



こちらはメインのお風呂場。露天がないのが少し寂しいが贅沢は言えない。
朝風呂を楽しんだ後は、いよいよ、恵那峡に向けて出発。今回は本格街道歩きということで、バックパックを新調した。


コロンビアの30Lなのですが、背中にしっかりしたプレートが入っていて体にフィットするので疲れない。何より良かったのが内部に大きなポケットがあり、ノートパソコンXPS13がスルっとはいること。軽いし、さすが最新モデルだけあるなと思った。色も種類が豊富で白にしようかなとも思ったが、汚れたらいやだしブルーにしました。


さて、恵那峡ですが、激流の木曽川に建設されたダムに堰き止められた人口の湖でした。

あいにく散策路は工事中で歩けなかった。遊覧船としてジェットボートが3艘、10時のスタートを待っていた。せっかく自然美を味わいにきたのに、窓の内側の冷暖房完備のゴーゴーうるさい閉鎖空間でながめてもちっとも良くないだろうに。発想が貧しすぎる。



湖面にうかぶカモと散策路。人工物が映らないと木曽川の雰囲気がでてくる。
ダム湖にしてはかなり綺麗ではないかと思われる恵那峡を後にして、一時間に一本しかない東鉄バスで恵那駅へ向かう。

さていよいよ目的の中山道歩きのスタート地点である大井宿(おおいじゅく)に到着。



こちらは大名やお公家さんが宿泊したVIPホテルである本陣跡。まわりには45軒以上の旅籠があったというから相当な賑わいであったのだろう。


阿木川の橋。広重の五十三次があしらわれていてかわいい。



中野村庄屋の家の解説をみるとただごとではない事件だ。野井村に住む百姓の新三郎が、この家に滞在していた代官を斬りつけたという。理由は、和宮の通行の際、人足や食事を出すように命令したときに、隣村の中野村が本来負担すべき分も野井村に押し付けたからだそうだ。この代官、中野村の庄屋にいたところから、黒いつながりが想像できる。


高速道路沿いの道で見かけた神明神社。杉の森へ登る直線の階段が美しい。


さていよいよ山間部の道にはいる。ようやく中山道の気分が味わえるとわくわくする一方、「十三峠?」えらい大変そうだ。スマホで調べると大井宿から大湫宿までの14kmは坂の上り下りが特に激しい区間らしく、だから十三峠と言われているという。よりによって中山道でもえらい所を最初に選んでしまったものだ。


しかも石標の脇に手書きの告知板が。御嵩宿というと、今回目標とする大湫宿の先の細久手宿のさらにその先だ。実際大湫宿までの道のりでジュースの自動販売機を一つ見つけただけでそれ以外食料飲料が手に入る場所はなかった。

恵那駅のコンビニではジャガリコを買っただけでお昼の弁当を買ってなかった。今回の旅での一番大きな学びは、食料飲料を計画立てて入手しなければならないことだった。加えて天気が良かったからいいものの、傘もカッパも持っていないところも反省点だ。


左手に広がる景色を見ながら歩いていく。


ところどころこのような茶屋跡の碑がある。茶屋はあくまで食事か飲み物だけで、宿泊は禁止されていたそうな。それでも街道沿いにいろいろお茶屋があると、お団子とか食べながら旅人同士が情報交換をしていた姿を思い浮かべるとたのしい。


ほとんご真っ黒で何かわからないけれど、ここでお伊勢さんにお参りするかわりに、伊勢の方向を見て参拝したという。


杉が間を抜ける道。熊野古道のほうが森につつまれている感があるが、こちらもなかなかのもの。


基本的に人家はすべて農家。何を作っていて、どんな暮らしをしているのかと思うが、ほとんど人の気配はどこにもない。


こんもりと茂った樹々が並ぶまえの赤い屋根の農家がいい感じ。


光で透かされた緑が美しい。


なんと中山道に覆いかぶさるようにゴルフ場が(中仙道ゴルフ倶楽部)。中山道を横断するようにゴルフコースの道が走る。ゴルフなんかするより中山道歩きのほうがよっぽど楽しいと思います。


石仏が並ぶ祠を超えて進むといよいよ大湫宿(おおくてじゅく)に到着。「湫」という字は、水草などが生えている低湿地のことを言うらしい。湿地帯だったようには見えないが、由来はなんだったのだろうか。



大湫宿で一番の見どころは神明神社の大杉だと断言できる。なんと樹齢1300年というからすごい。恵那で立ち寄ったのも神明神社だったけれど、中部は伊勢信仰が特に強いらしく、天照大神を祀る神明神社はいろいろなところにあるようだ。


高札所で目についたのがこれ。「ばてれん」と「いるまん」を見つけて訴えれば御褒美を差し出すと言っているようだ。調べるとイルマンは平の修道士で、バテレンはPadreのことで司祭で、この高札は日本中で掲げられていたようです。

お昼は、じゃがりこしか食べられなかったので最初に見かけた商店でおばあちゃんからオールレーズンを買ってむしゃむしゃ食べる。カロリーが美味しい。

一番近くのJRの駅が釜戸で、そこまで歩いたのだが、約4キロもあり街道を歩き終わった足には少々辛かった。恵那駅と異なり駅員さんは一人おらず、駅の周りも日曜日にもかかわらずお店も空いていない寂しいところ。

次回は大湫宿からスタートしなければならないが、この駅から登りで4キロ歩くのは辛いのでバスかタクシーか調査しなければ、と思った。

ここまでで、約31000歩でした。