2025年5月13日火曜日

【西国街道】富海宿、宮市宿、四辻駅

5月中旬になってきて筆者の菜園では一年で一番楽しいイチゴの収穫時期になりました。



西国街道シリーズの続きです。かなりゴールの下関に近づいてきました。今回は山口県防府(ほうふ)市の富海(とのみ)駅から旅を始めて2拍3日で厚狭(あさ)駅まで行きます。

3日目の午前中にレンタカーで秋芳洞を観光しました。

山口県に入ってからあまり面白くなかった街道ですが、富海宿から山中宿あたりまでは瀬戸内海の景色が楽しめます。矢掛宿のような宿場町の雰囲気はありませんが、地域愛が感じられる道のりで大変楽しめました

全体の行程です。2泊とも新山口駅のホテルアルファーワンに宿泊しました。

1日目:富海宿(富海駅)、宮市宿(防府駅)、四辻駅 23km、6時間
2日目:四辻駅、小郡(おごおり)宿(新山口駅)、山中宿、厚東(ことう)駅 24km、6時間
3日目:(午前中秋芳洞観光)、厚東駅、船木宿、厚狭(あさ)宿(厚狭駅) 12km、3時間



こちらが1日目の旅路と記事で紹介したポイントです。



7時41分京都発の新幹線に乗り、新山口駅で山陽本線に乗り換えて前回の旅の終点であった富海(とのみ)駅に10時27分に到着しました。

前回は3月末なのに徳山駅は真冬のように吹雪いて大変でしたが、今回は大変良い天気に恵まれました。



出発前に富海の海の景色を見ます。前回の徳山からのルートは海岸線がコンビナートで埋め尽くされていて面白味のない街道歩きでしたが、終点のこの景色に救われました。



アサガオのような花を咲かせたハマヒルガオが海辺を飾っています。



街道の標識です。中国地方の人たちは西国街道とは言わずに山陽道と言いますね。こういう標識が立てられているのは地域の歴史や文化を大事にしようという郷土愛から来るもので、歩いていてとても楽しい。

橘坂と書いてありますが、ここから浮野峠まで登り道になります。「浮野峠」と書いて「うけのたお」と読みます。今回の旅は特に漢字の読み方が難解な地名が多い。



ここから自然道です。いい感じですね。



標高50mほどですが、最初に見た富海の海岸が望めます。富海の向こうに見えるのは回天記念館のある大津島でしょう、たぶん。

写真の右手は四国と九州の間の海路、豊後水道です。昔は背中側は断崖のようになっていたようで、岩に手をかけて絶景を見ながら小休息したそうです。手懸り岩という名前がついていたそうです。

説明書きの案内版を立ててくれているのは、牟礼郷土史同好会、富海史談会と書かれています。こういう方々の努力が地域を活性化させているのですね。



足元に咲いているのはイモカタバミ。似ているのでクローバーと間違えますが、クローバーの葉は3枚か4枚、カタバミは5枚。



茶臼山手前で眼下に見えるのが山陽本線。海がきれいです。案内版には昭和31年開通とあります。「本線」と言いながらも大体1時間に1本しか走っていません。地元の人たちはクルマなんでしょうね。

茶臼山は古戦場だったと書かれていて、毛利元就と豊後(大分県)の大友宗麟の争いのなかで大友宗麟配下の武将である大内輝広が山口に上陸したがあえなくこの茶臼山で自害していまった。



浮野峠の改修碑。遠回りの道を明治時代に近道を開いたといったようなことが書いてある。



旧山陽道の看板が脇道へ入るように立っているが、無視して地図上の道に沿って進む。



浮野峠の最高地点、といってもたかだか90mほどです。



ここにゴミを捨てると子々孫々に災厄が降りかかると書いてある。戦前くらいまでなら効果があったのかなぁ。珍しい。



浮野峠から下って少しの場所、駕籠立場跡と書いてある。参勤交代の大名行列がここで景色を楽しみながら駕籠を下りて休んだそうです。案内版にも書いてありますが九州の大名は初めは海路を通っていたのが、海難事故が発生したので、途中(享保、宝暦)から陸路を通るようになったそうです。

筆者はすでに中山道を完了(総日数27日)してもうすぐ西国街道を完了(総日数30日予定)するわけですが、薩摩藩はそれに加えて九州を縦断しなければなりません。

これほどのしんどい旅を毎年一回強制させられれば、倒幕!なんて空気が醸成されるのも仕方ないなと思います。

参勤交代も幕末は幕府の権威が弱まって3年に一回に減りました。



防府霊場22番。防府地域の中に八十八箇所巡りがあります。



大輪の花がシャクヤクで、右の細かい花はシバザクラ。



「こんぴらみち」「あじなみち」と書かれた石碑。この村にあった金比羅社と阿品社への案内碑だと書かれている。



浮野(うけの)町はかつて富海宿と宮市宿(防府駅そば)の間の半宿だったと書いてある。ここの郷土同好会の方々はかなり熱心に調査されています。



お寺の参道入り口で時々見かける不許葷酒入山の石碑、葷酒(くんしゅ)の葷とはニンニクなどの臭い食べ物を言います。



艶やかな紫色の花を今回の旅路で何度も見かけました。なかなか覚えられないアヤメ、カキツバタ、ハナショウブの違い。模様が一番豪華なのがアヤメ、白い線がカキツバタ、黄色の線がハナショウブ。写真の花は小さくてよくわかりません。



防府(ほうふ)天満宮。この地域で見るからに立派な名刹なのでお参りします。



北野天満宮、太宰府天満宮と並んで日本三大天神と言われているそうですが、そこまで立派かなぁと感じました。また、菅原道真が亡くなった翌年に創建されたので日本で最初の天神様だともHPに書かれています。

菅原道真が神様になったのは非業の死のおかげで怨霊となって数十年間、朝廷で不幸が続いたせいなので、亡くなって翌年にいきなり神様として創建、というのはちょっとなぁ、とも思います。



防府は詩人の種田山頭火の出身地だということをここに来て初めて知りました。立派な記念館もあります。あいにく定休日でした。



宮市宿の本陣跡です。ここの本陣は豪商だった兄部家の住宅が本陣として提供されていたと案内版にあります。兄部家は佐波郡一帯の商人を統括していたとあり、古い地図には確かに佐波村と記してあります。



山口県は律令制では長門国と周防国の2国が合わさった地域であり、江戸時代においては長州藩でした。防府は周防国の国府であり、北に向かって山口、そして日本海に面した長州藩の本拠地である萩を萩往還街道でつながっていました



さて、街道近くにある山頭火の正家跡を訪ねようと歩いて行くと、山頭火が履いていたような草鞋の跡があります。心憎い演出です。




山頭火正家の種田家跡でしばし休憩します。山頭火は以前、終焉の地である松山の一草庵を訪ねましたが日本国中を歩いては句を詠み、貧しいながらもファンの仲間たちと交流して人生を全うしたところが松尾芭蕉と似ていると思います。



でも松尾芭蕉の句は絵画的ですが、山頭火の句は絵画的なものもありますが、どちらかと言えば内省的なような気がします。

記念碑には山頭火が好きだった日本酒の一升瓶がお供えされていました。銘柄は「山頭火」。山口市の酒造屋さんでした。もっとも、いま山頭火をネットで引けばラーメンばかり出てきますが。



佐波(さば)川の河川敷を歩いて橋を渡ります。左の山は右田ヶ岳(みぎたがだけ)426m。



これはアヤメです。5月は様々な花を見られてよいですね。このあたりは古墳が多く見つかっているそうです。筆者の考えですが、防府は日本海の萩とつながる道があったので渡来人が住み着いたんだと思います。広島県三原を歩いた時に梅木原古墳というのがありましたが、そこも島根県松江とつながる道がありました。越前から鯖街道で京都も同じですね。



大正天皇の即位記念碑。



佐野峠に向けて山道に入って行きます。「佐野峠」も「さのたを」と読みます。「たお」の語源も「高い」「縦」「盾」「建て」「立つ」などと同じです。



気持ちの良い山道。富海からの道は西国街道歩きのなかでも最良の一つです。






佐野峠に着きました。ここは駕籠建場。浮野峠にもありましたが、大名行列の駕籠をおろして景色を眺めて小休止したところ。

明治維新の時代の長州藩主、毛利敬親(たかちか)の歌碑があります。安政4年とあります。

しらぬひの筑紫路うけて うちかすむ 佐野のたむけの 春ののどけき

「しらぬひ」は筑紫路、つまり山陽道の枕詞。その峠である佐野の手向の春ののどかさを詠んだ何気ない歌です。

安政4年(1857年)と言えばペリーの黒船の後に列強が次々と押し寄せてきたころで、長州藩では吉田松陰が松下村塾で高杉晋作や伊藤博文に日本の進む道を熱烈に説いていたころですが、藩主の敬親はまだのんびりしてたのでしょうか




福岡県方面の景色。



この上は山陽自動車道のSAになっています。



ため池を見ながら2号線を進み、16:30頃に山陽本線の四辻駅に到着しました。ホテルを予約した新山口駅まで、ひと駅です。

ホテルはアルファーワンで今回初めて泊まりましたが、色々あるビジネスホテルチェーンのなかでも簡素だけど大浴場もあり必要十分といったところです。

夕食は一番目当てにしていた「磯べぇ」が大人気で平日開店5時半から予約でいっぱいだったので、「I-CHI」という和食屋さんにしました。なかなか美味しかったです。




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