2024年4月1日月曜日

【西国街道】三原宿、本郷宿、湯坂温泉郷

 調べてみると筆者の地元の滋賀県で去年2月3月で雨か雪が降った日の数は26日、対して今年(2024年)は41日ありましたので6割増しの雨でした。

加えて今まで無敵だったはずなのにコロナに罹患してしまい本ブログの更新も久しぶりになってしまいました。

今回は西国街道歩きシリーズの続きです。京都から歩き始めて通算16日目で広島県三原宿までたどり着きましたが、今回の旅は本郷宿、四日市宿まで歩きます。

本当は交通費を考えれば2泊3日にしたかったのですが、あいにく4月3日が雨確定だったので1泊2日の旅になりました。

前回の旅と同様、国道2号線ではなく住宅地や田畑の道でしたので快適に歩けましたが、旧道の面影を偲ばせる道はほとんど無く、面白みに欠ける街道歩きでした。

また、2日目の途中にある松子山峠は西国街道の難所の一つでした。高度は350mなので高度だけで言えば中山道の和田峠(1530m)と比べれば可愛いものですが、もはや道とは言えない荒れ地で非常に難儀しました。

一方で1日目の最後にちょうど温泉地(湯坂温泉郷)があり、温泉旅館でゆっくりと骨休めが出来たのが至福のひとときでした。

  • 1日目:三原宿(三原駅)~本郷宿~湯坂温泉郷 約28km、3万5千歩
  • 2日目:湯坂温泉郷~四日市宿~八本松駅 約26km、3万2千歩


中国地方に入って西国街道がつまらなくなる理由の一つとして参勤交代で使われていなかったからというのはあると思います。中国、四国、九州の代表的な藩の参勤交代ルートを調べてみると、いずれも穏やかな瀬戸内海を大坂まで船で航行しているのがわかります。

ただ、唯一の例外が薩摩藩で江戸時代後期は陸路で西国街道を通ったようです。これは九州西部をぐるりと大回りするときの天候不良などで行程が大幅に遅れることを嫌ってのことだそうです。江戸まで二ヵ月程度かかったそうですのでとてつもなく財政的負担であったことでしょう。サツマイモが全国で爆発的に普及したのも薩摩人が陸路を歩いたからかも知れません。

ちなみに、薩摩藩や土佐藩が太平洋側を航行しなかったのは黒潮が怖いからです。江戸時代は外洋に耐えうる船がありませんでした(禁止されていた)。



ブログで紹介した場所をプロットした行程図です。


京都から新幹線で福山駅でこだま号に乗り換えて三原駅に到着したのが9時です。小早川秀秋の父、隆景(たかがげ)によって建てられた三原城址を少し歩いて街道歩きを始めることにします。本日新春4月1日は素晴らしい陽気に恵まれて、歩き始めてすぐにTシャツ姿になりました。



大正末期に建てられた豪商の家をリフォームした mihola というお店。中はランチやカフェ、お土産屋になっていて、2Fはリモートワークのデスク等が置いてある。



県立広島大学



定屋(じょうおく)大橋。江戸時代に定屋和尚が初めて掛けた橋。愉快な人々のレリーフは三原の夏の「やっさ祭り」です。三原城築城を祝って踊ったのが発端だそう。



今年は雨が多く開花が遅かったのですが今日の陽気を待っていたかのように咲き始めました。



去年刈り取った稲が成長してきたのでしょうか?まるで夏の田んぼのような景色です。




途中12時前頃に「くりきんとん亭」というお店で、鯛のあら煮定食を食べる。今回の旅はお昼時にちょうどお店にあたってラッキーだった。おかげで持参のウォーターバック、バーナー、カップヌードルのお世話にならずに済んだ。


西国街道から北上すると佛通寺(ぶっつうじ)というお寺があって広島県内屈指の紅葉の名所だそうです。



だいたいこの恵美寿神社がある辺りが本郷宿があったところ。本陣跡など宿場町の面影はありません。注連柱(しめばしら)は神の功徳を称えるよくありそうな文言です。



境内の案内版に江戸時代の本郷宿の案内版がありましたが、草書体の字がかすれてしまって判別できません。家屋の数を見ると小規模な宿場町だったように見えますが、やっぱり大名達が瀬戸内海を船で素通りしてしまうからなのでしょう。



地元の猟友会の人が建てた鳥獣慰霊碑。川沿いに色々な社が並んでいますが、開発の際に川べりに集められたのでしょうか。



小早川家の子孫の方の歯医者さんでしょうか。



甑天満宮。「甑」は「こしき」と読み古代中国から伝わるお米を蒸す土器だそうです。菅原道真が京都で謀略にはめられ大宰府に左遷される際にこの地に立ち寄り、井戸を掘った水で持参の干飯(ほしいい)を蒸してあげたのが由来だそうです。

菅原道真が京を発ったのが901年、平安時代の前半で、瀬戸内海を古船で港をホッピングしながら小倉まで進んだそうです。途中でしけにあって愛媛の今治に流着しているので瀬戸内海の船旅でも当時は簡単ではなかったのでしょう。当時の56歳なので老体には厳しい旅で2年後には亡くなっています



この狛犬は安政三年に寄進されたもののようで、江戸時代も天満宮は人気があったことがうかがえる。菅原道真が学問の神様になったことで学問重視の江戸幕府から支持されたのでしょう。




広島空港の南方周辺が古墳地帯になります。地方の豪族の墓だと考えられていて、この梅木平(ばいきひら)古墳は広島県内で最大規模とのこと。

広島県のサイトを見ると7世紀初頭と書いてあります。小野妹子が中国(隋)に渡った時代なので大和朝廷が西日本の津々浦々に支配範囲を広げていった時期です。



赤色が引き立っている桜。八重桜のなかでも赤い品種なのかな。



旧南方村役場之跡と書いてあります。街道の北が北方村、南が南方村でした。この洋館は現在は図書館になっているようです。



この他にも数カ所に古墳があるようです。明治の地図を見るとこのあたりは賀茂と記されているので、古墳に祀られている古代豪族は賀茂氏だったんじゃないかな。



2号線から脇道に入ります。こういう所はよく街道の標識が立っているのですが、広島県さんは街道保全には興味がないようで。



ここからが東広島市です。荘野村の集落がでてきました。



仏様がきれいに祀られている場所は良い気を感じます。法界定印を結んでいるのは弘法大師さんでしょうか。



大師さんの場所にある道標。ここは現在は国道2号線と432号線が交差する付近ですが、明治の地図にも432号線に相当する道が記されています。この南北の道は島根県松江まで延びているので、賀茂氏が出雲から下ってきたという仮説が濃厚になります。

賀茂氏は大物主神につながる古代氏族と言われていますが、大物主神が謎の神様なのでよくわかっていないようです。大国主命(オオクニヌシ)は出雲出身なので関連の深い大物主神、賀茂氏も出雲関係?と想像してしまいます。

東西の道は明治の地図では西国街道とは書かれておらず横大道と記されていて、この道標は横大路の方向を示しています。



船谷村にあった一里塚跡に大きな石碑が立っている。字が細かくてかすれているので判別できないが何かがあったのだろう。



4月1日なのにもう椿が花を落としています。



3時半頃に今日の宿の湯坂温泉郷に到着。ちょうど良い塩梅の場所に温泉宿があってラッキーでした。

賀茂川沿いに建っているので賀茂川荘という名前のなかなか立派なホテルで温泉は無色透明ですが柔らかい湯質です。桜目当てか平日なのにお客さんも多かったです。

賀茂氏にちなんで賀茂川になっているのは京都の鴨川、賀茂川と同じですね。




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