2025年9月22日月曜日

【東海道】土山宿、鈴鹿峠、坂下宿、関宿

つい数日前まで35度近くの酷暑が続いていましたが、ようやく峠を越して普通に歩けるようになりました。

街道歩きの趣味は西国街道があと一回の旅で下関に到達する予定なのですが、やはりフグ料理は11月に置いておきたいので、次の目標である東海道を始めることにします。

本当は最初からやりたいのですが、ガイドの奥さんが鈴鹿峠を歩きたいと言うので鈴鹿峠の前後である土山宿~関宿までの距離を歩きます。

京都からの東海道のルートをプロットしてみましたが、草津宿までは中山道と共通していて、草津宿から中山道は彦根、関ケ原と内陸方面へ進むのに対して、東海道は草津宿から鈴鹿山脈の南を抜けて伊勢湾へと進んで行きます。


下が今回歩いたルートと記事で紹介した場所です。合計時間5時間半、距離は15.5kmでした。鈴鹿峠を東に越えた1kmほどの箇所が山道になっていますが、それ以外は大体国道沿いを歩くことになります。ゴールの関宿はとても大きく宿場町の風情が良く残っていて楽しかったです


スタート地点は田村神社で、正確に言えば土山宿ではなく土山宿より少し東寄りです。JR貴生川駅からバスが出ていて便利なのでここをスタートとしました。

田村神社から国道をはさんだ向かい側には奇妙な建物がありますが、これは建築家の隈研吾(くまけんご)さんの設計です。木材を使った自然美を活かした建築が特徴ということですが、筆者にはスターシップトゥルーパーズに出てきたバグの頭に似ているなと思いました。



田村神社のそばにはおしゃれなコーヒー屋さんがあり、さっそく奥さんがテイクアウトを所望。



田村神社の境内には入らなかったのですが、かなり立派な神社のようです。坂上田村麻呂を祀っている神社なのです。

坂上田村麻呂と言えば、蝦夷地の反乱を鎮圧した征夷大将軍として有名ですが、この地に神社がある由来は、蝦夷地とは別に鈴鹿峠に棲む悪鬼(山賊)を成敗したことにあるそうです。

以前、高橋克彦さんの「風の陣」を読んだときに坂上田村麻呂の父親である鎮守府の坂上苅田麻呂が出てきました。小説ではむしろ帝国主義の大和朝廷の圧政に苦しむ蝦夷の人々といった構図で、朝廷から派遣される陸奥守は蝦夷の人々を差別する悪代官といった感じで描かれていました。



田村川を渡る橋。ここが土山宿の東端で、西端は野洲川まで宿場町があったと書かれています。橋が出来たのは江戸時代中頃でそれまでは無理やり歩いて渡ったらしく大水に流されてたびたび旅人が死んだそうです。



鈴鹿峠手前までは、このような茶畑をひんぱんに見かけました。四日市、鈴鹿、亀山は三重県の主要な茶の生産地のようです。ちなみに三重県は茶の生産は第3位。5位の京都より多いです。



夫婦の双体道祖神。街道によく見かけます。微笑ましくて好きです。



新名神高速道路の下あたりに来ました。

難所だった鈴鹿峠で旅人をのせた馬をひいて歩く鈴鹿馬子。この馬子たちの歌を保存しようと今に至るまで毎年全国大会が行われています。

鈴鹿峠は滋賀県と三重県の県境です。明治以前は近江国と伊勢国の国境。



クリの実が出来てきています。数日前まで35度近い酷暑だったのに、それでも季節の変化を感じてくれているのですね。



刈り入れの終わった田んぼを背景にお地蔵さんの祠。大津の我々の田んぼでも9月13日に稲刈りをしました。今年は高温障害で米粒の実入りが良くないと聞いたのですが、脱穀後が気になります。



筆者の大津の畑でも猿や小動物がでるので獣害ネットに電柵をしているのですが、この個人菜園レベルで、これだけ頑丈な獣害フェンスをしているのを見たことはありません。

鹿とイノシシ対策なんじゃないかと思いますが、これなら熊でも防げそう。



獣害フェンスの頑丈さに感心していると、さっそく傍に鹿がいました。



国道沿いにある鳥居と石楼。参道があるのでしょうが雑草に埋もれてしまっています。



国道の脇道を少し登ったところが鈴鹿峠の最高地点(377m)です。

この下を貫いている鈴鹿トンネル建設時に旧東海道の道が廃止されて、この整備された道に変わりました。この38トンの常夜燈も旧東海道から移設されました。



峠というと街道歩きをする人には厳しい登りという印象ですが、登山をする人にとっては尾根道の凹んだ場所(鞍部)なんですね。

以前、鈴鹿セブンマウンテンと亀山七座を中心に登山をしていた頃にプロットした図ですが、鈴鹿セブンマウンテンは大体標高1000メートル前後で、亀山十座は700メートル程度、鈴鹿峠は三子山(みつごやま)(568m)と高畑山(773m)の間の凹んだ箇所になります。

ちなみに亀山七座はまだコンプリートしておりません。



峠を下りるまでは車道はトンネルなので、山道を歩きます。看板に三子山(みつごやま)登山口が案内されています。

三子山、四方草山(しおそやま)、臼杵岳(うすきねだけ)は4年前にちょうどここから登っています。四方草山と臼杵岳の間には安楽峠という峠がありました。安楽といいながらも492mあるので、鈴鹿峠(377m)のほうが低いので東海道は鈴鹿峠になったんでしょうね。



この道は旧東海道だったんじゃないかという雰囲気です。ちょっと中山道を思わせる。



鈴鹿峠の解説がよく書かれています。

これによれば、鈴鹿峠が使われ始めたのは京に都が作られてからで、奈良の都のころは今のJR関西本線が通っている大和街道といわれるルートを使っており、やはり加太峠という峠越えがあったそうです。加太峠は309mなので鈴鹿峠より少し楽だったのかも知れません。

奈良時代や平安時代は関東など未開の地だったので、主に伊勢神社との往復が主目的でした。

ただ、山賊が多かったというのは恐ろしいですね。



途中で展望が広がる場所に出てきました。鈴鹿峠を通る1号線は上下線の2ルートあり、ここから見下ろす1号線は、まだ一本だけだったころの古い方で、今は名古屋方面の登りルートになっています。



馬の水飲み場。峠道は馬もさぞかし苦しかったのでしょう。鈴鹿峠は「八町二七曲」と言われたそうです。八町は大体1キロ弱。カーブが27回あったということですね。



芭蕉の句碑。「おくのほそみち」をやる前に江戸から東海道を下って伊勢に行く旅の途中に詠んだ歌のようですが、鈴鹿峠を越える前に何かを発心(決意)したのでしょう。

一方で筆者の場合、東海道歩きをやるぞと発心して最初の旅が鈴鹿山なので、この句は良いめぐりあわせです。



国道1号登り線の下を通って良い感じの山道は続きます。



片山神社。三子山が御神体であり、坂上田村麻呂のほか、鈴鹿の守護女神というような鈴鹿御前を祀っている。田村麻呂と鈴鹿御前が夫婦になったという伝説もあるそうな。

鈴鹿御前が薙刀で悪鬼や山賊を打ち払ったという伝説から、右に鈴鹿流薙刀術の石碑が立っています。木曽義仲の巴御前のようなイメージですか。



山道が続きます。



ものすごい急坂で階段状に整備されているけれど段の幅が極小ですべり落ちそうになる。



身代わり地蔵。誰かが大名行列の前を横切ったせいで斬られそうになったのを地蔵が代わりに助けたという話。確かに右のお地蔵さんには首がありません。



関町坂下地区のマンホール。鹿とキジがデザインされている。キジって「キュー」って鳴きながら歩いているのは見かけるけれど飛んでいるところは見たことない。



法安寺の境内にある庫裏(くり、住職の住処)の玄関門はかつて本陣の門を移設されたと記されています。

かなり重量感のある門ですが、これは坂下宿にあった松屋本陣のものです。このあたりが坂下宿で、かつては本陣が3つもある大きな宿場町だったそうですが、宿場町の面影はありません。



宿場町が栄えたころは名物茶屋だったのでしょうか、風化しつつある白玉団子のお店です。



伊勢参宮名所図会の坂下宿を見ると、宿場町の賑わいが感じられます。右上には鈴鹿峠への坂が描かれています。
(国立公文書館より)


かつて坂下の尋常高等小学校だった校舎で、現在では鈴鹿峠自然の家として使われています。尋常高等小学校は戦前の制度で、現在の小学校と中学校が合わさったような学校ですが、当時は高等小学校は義務教育ではありませんでした。



3ヵ月前に登った錫杖ヶ岳が見えます。(ちょっとARヤマナビの山名がズレてます)。標高676mで亀山七座のなかでは最南端に位置しています。



こんなちょっとしたスペースにも茶畑が。このあたり少し北側に筆捨山という変わった名前の山があります。289mの小さな山ですが、江戸時代には名勝として知られていたそうです。



伊勢参宮名所図会や東海道五十三次を見ると、旅人たちが坂下宿の茶屋から川越しに筆捨山をながめています。

筆捨山の名前の由来は室町時代の狩野派の絵師が美しい山の姿を描いていると雲がでてきて描けなくなったので筆を投げ捨てたという逸話からきています。

(国立公文書館より)

(東海道五十三次「坂之下筆捨山」)


透明な水が美しい鈴鹿川ですが、上の2つの絵を見ると、昔は、今と違って鈴鹿川の水量がはるかに大きかったので山との対比が美しかったのではないでしょうか。

実際、江戸時代に鈴鹿川の氾濫で坂下宿が壊滅して移設されています。昭和になってからも水害があり継続的に治水工事がされてきた歴史があるようです。



「転び石」。山の上にあるような大きな岩が何かの拍子に転がってきたのでしょう。夜な夜な山に帰りたいとうなり声をあげたと。



蓑と笠をつけた旅人の関宿のマンホール。



関宿の入り口です。関宿の西端は京の都から鈴鹿峠を越える街道とともに奈良から加太峠を越える大和街道との分岐点でもあったので「西の追分」といわれていました。



関宿は伝統的な町家が200棟も残されていて当時の宿場町の雰囲気が伝わります。中山道で言えば、奈良井宿、馬籠、妻籠目、西国街道では矢掛宿といったところ。でも、それらの宿場は今やインバウンドの外国人であふれかえっていますが、こちらの関宿では外国人はほとんど見かけません。まだ、海外のトラベルサイトで紹介されていないのでしょうかね。

本陣、脇本陣が各2軒、旅籠が42軒あったということなので、東海道の宿場のなかでは規模の大きな方ですが、最大級といったわけではありませんが、これだけ立派に町家が建ち並んでいると、当時の盛況ぶりが伝わってきます。



広重の関宿。まだ薄暗い早朝に本陣から出立するを描いている。左で笠を配っている男の後ろに「仙女香」「美幻香」と書いてあって、前者はおしろい、後者は白髪染めのようです。「ビゲンヘアカラー」の「ビゲン」の由来ですね。



関宿を代表する旅籠の会津屋。今はショップになっています。



ショップにあった関宿の案内板。



会津屋の向かいにある地蔵院。



名所図会にも地蔵院が描かれています。

(東海道名所図会より)


地蔵院に鹿の銅像。

これは壬申の乱の際に道に迷った大海人皇子を鈴をつけた鹿が道案内したという伝説が由来です。その伝説から「鈴鹿」という地名になったという話です。信じられませんが。

壬申の乱では大海人皇子(後の天武天皇)が兄の中大兄皇子(天智天皇)の後継者を自分にせずに嫡子の大友皇子にしたことを不服として反乱を起こしました。

その時に大海人皇子は関ケ原(不破の関)と鈴鹿の関を封鎖して、かつてから交流のあった東国の兵をかきあつめて奈良に攻め込みました。



途中で奥さんが目当てにしていた白玉団子をいただきます。座布団も白玉団子になっています。



後ろ(西側)を振り返ると町家の連なりの背景に鈴鹿の山が見えます。



関宿の中心部にある伊藤本陣跡。2つある本陣の一軒です。



関宿が大変よく保存されているのもJR関駅に隣接しているからなのでしょう。一つ前の坂下宿は駅から離れてしまって風化してしまっているのとは対照的です。

ここから電車で帰路につきましたが、関西本線、草津線、びわ湖線と乗り継いで行くのに大変時間がかかります。次回は近くの駅まで車で来ようと思いました。



0 件のコメント :

コメントを投稿