2025年10月30日木曜日

【京都】大原三山(翠黛山、金毘羅山、瓢箪崩山)

 近畿圏の山はかなり登り尽くした感がありますが、近所でまだ登っていなかった山を発見しました。

大原の西にある三山で、それぞれ翠黛山(すいたいさん)(572m)、金毘羅山(577m)、瓢箪崩山(532m)で、三つ登ってぐるっと一周するルートです



これが登山ルートです。合計時間5時間、距離11km、累積標高800mになりました。筆者にとっては丁度良いくらいのトレーニング強度です。

頂上からの景色が、ほぼ無しなのであまり人気がないと思われ、倒木も多く登山道はあまり整備されていません。難所と言ったような場所はありませんが、道がはっきりしておらず、テープもわかりにくいのでGPSは必須です。京都北山はどこも大体こんな感じですね。

金毘羅山は京都の鬼門だけあって神がかった雰囲気が独特です。また、登山道以外の大原の道は落ち着いた集落や棚田の風景が目を楽しませてくれます。


朝9時前に駐車場に到着。寂光院の近くには駐車場が多くありますが、比較的道が細くない場所を事前に調べておきました。三千院近くになると料金は高くなりますが、寂光院の周りはたいてい一日300円です。ここも含めて無人で料金箱に入れるシステムなので、事前に小銭を用意しておく必要があります。



寂光院へと向かう道。大原らしい落ち着いた洛外の雰囲気に思わず深呼吸したくなります。京都ですが、滋賀名物の「飛び出し君」があちこちを走っています。



京都の人なら誰でも知っている大原女(おおはらめ)。薪を頭上に乗せて売り歩きました。いまから登る三山も里山として大原女が毎日のように薪を取りに入ったことでしょう。



寂光院を入り口から覗きました。平清盛の娘の建礼門院が、壇ノ浦の戦いで奇跡的に生き残り、平家一族と子供の安徳天皇の冥福を祈りながら余生を過ごしたところです。大原三千院に女一人旅のイメージがあるのも、建礼門院のおかげでしょうか。



寂光院から少しあがったところに登山口があります。途中に小さなお墓が並んでいますが、これらは阿波内侍(あわのないじ)など建礼門院の侍女たちのお墓だそうです。

最近はお腹をすかせたクマが徘徊しているそうで、熊鈴をつけます。いつも友人たちから「うるさい」と言われるほどの鈴ですが、このご時世はうるさいくらいの方が安心です。



翠黛山までの320mの登りは急で道がわかりにくい。



登山口から約1時間で翠黛山(577m)に到着しました。景色ゼロ😓で全く山頂といった感じはありません。

案内板に翠黛山(すいたいさん)の山名の由来が書いてあります。平家物語の最終巻に、後白河法皇が寂光院を訪ねる場面があり、寂光院からの景色を「緑蘿(りよくら)の墻(かき)、翠黛(すいたい)の山、画(ゑ)にかくとも筆もおよびがたし」と言っている。

「蘿」という漢字は初めて見ましたが蔦のことを言い、「墻」は垣と同じ。緑の蔦に覆われた生垣です。続いて「翠黛」とは緑(翠)の眉墨(黛)のことだそうです。プクっとした平安時代の女性の眉を緑にしたような山ということでしょうか



翠黛山から金毘羅山へ向かいます。今回の登山道のテープは数が少ない上に小さくてわかりにくい。京都人の控え目さなのでしょうか。テープがわからないまま進むとすぐに道迷いします。

テープを付けていただいた方々には感謝しますが、GPSがないと不可能。



今回のルート上の要所要所には世界的なボランティア団体の支局の京都洛北ライオンズクラブ寄贈の標識があります。番号は消防団に助けを求める時に使うものでしょう。

標識の下に書いてある「ロックゲレンデ」は寂光院の方を指していますが、有名なロックゲレンデは金毘羅山の先のはず。



江文峠(えぶみとうげ)と金毘羅山の分岐に出てきました。



現在地の分岐をいったん下に行って金毘羅山に立ち寄ってから再び戻ってきて江文峠方面へ向かいます。

途中にロッククライミングゲレンデの場所が示されています。



金毘羅山に向かう途中に立派な鳥居が。



神社内の石柱には三壺大神(みつぼたいじん)と書いてあります。調べてみると、三壺とは火壺、雨壺、風壺のことで、特に雨に関しては雨乞の儀式が行われていたそうです。



三壺大神のすぐ先には大岩が立ちはだかっています。「これを越えるのか!」とアセりましたが、横に細い脇道がありました。



この大岩の上を拡大した写真。大国主命はどこでも見かけますが、中央には「天御中主之命(アメノミナカヌシノカミ)」、左には「魔王大神」とあります。

アメノミナカヌシノカミを筆者の愛読書「まんが古事記」で調べると、なんと全ての神様たちのなかで最初に誕生した神様でした。イザナギ、イザナミよりも前です。宇宙神のような存在なので身近に感じられなかったのでしょうか。

そして魔王大臣。今まで知りませんでしたが仏教界には悟りを妨げる存在として第六天魔王、通称、天魔という存在があるようですが、魔王大臣は天魔のことなのでしょうか。



この先にも大岩がありますが、ちゃんと周り道があります。



大岩の脇から京都方面の景色が見れました。今回のコースで唯一の眺望です。



拡大図。五山の送り火の船岡山や双ヶ岡(ならびがおか)が見えています。



樹々の隙間からは大原の景色も見えました。



拡大図。三千院がよく見えます。



上記、眺望のよい場所にモノリスのように立っている謎の石柱。ハングル文字に似た文字は神代文字と言われ漢字が伝来する以前に日本で使われていた文字のことで、特にこの文字は阿比留文字(あひるもじ)という神代文字の一種で、さきほど出てきた最古の神様を意味する「アメノミナカヌシオオカミ」と書かれているとある

しかしWikiによれば、神代文字といったものは今では学会で完全否定されているそうで、この石柱もどうやら個人が勝手に作ったものだそうです。



翠黛山から20分ほどで金毘羅山の頂に到達しました。翠黛山と同じく山頂から景色はありません。

金毘羅山といえば、讃岐が総本山で、筆者が西国街道歩きの際に瀬戸内では良く金毘羅信仰の石柱を見かけました。役行者による山岳信仰が盛んな山です。

さきほどの神社や大岩に祀られた古代神、そしてナゾの文字の石柱とミステリー的な雰囲気を纏った山ですが、この金毘羅山は京の都の鬼門(北東方向)に位置しており、邪気を封印するためにも超強力な神々を召喚しているのでしょう



江文峠へ向かう途中でロッククライミングゲレンデ(展望台)への分岐がありましたが、立ち寄らずに江文峠へ向かいます。



ヤマレコの3D図で見てみます。金比羅山から江文峠へ向かう尾根道の山腹が岩が露出した状態になっています。




琴平新宮。琴平(ことひら)と金毘羅は漢字が違うだけなので、金比羅山を神として祀っている神社なのでしょう。こんな山中なのに意外に立派な神社です。





金毘羅山から50分ほどで江文峠へ下りてきました。江文峠のそばには大原の氏神である江文神社があります。加えて江文寺もあったようですが鎌倉時代以降に廃寺になってしまったそうです。



江文峠には県道が走っていますが、大原から鞍馬へ抜けることができます。今度車で走ってみよう。

江文峠から瓢箪崩山へ向かう林道があって間違えやすい。細い登り道があるのですが、探すのに少し手間取る。



江文峠から30分ほどのところの分岐。瓢箪崩山へは南方向の寒谷(かんや)峠を目指すのですが、ここから西方向へ行くと蓑裏ヶ岳(432m)を通って鞍馬へ抜けます。



ヤセ尾根。



寒谷(かんや)峠に出てきました。いよいよ最後の瓢箪崩山への登りです。ちなみに寒谷峠からも岩倉へ抜ける道があります。大原女が行き来する里山だったので道が多いですね。



寒谷峠から瓢箪崩山へ向かう道にいきなり白い岩塊が露出していて行く手を阻んでいます。脇道があるのですが、こんな道が続くのか?と身構えてしまいました。



登り口の岩塊には驚かされましたが、その後は登りやすい道で難なく山頂へ到着。江文峠から1時間10分ほどかかりました。

山名の由来は横にした瓢箪が崩れたような形をしているからだそうで、GoogleEarthでグルグル回してみましたが、どこから見てもモコモコしていて「そう言われればそんな感じ」でした。

12時20分だったのでランチにします。おにぎりとトムヤムヌードル。最近の日清は主力のカップヌードルの派生商品をやたら滅多ら出していて見苦しいですが、トムヤムとチリトマトは名作だと思います。



山頂から大原の向かいに比叡山の山頂がきれいに見えます。大原三山でランチにするにはここでしょう。



下山を始めます。北東方向の大原に向かう道です。始めの激下りのあとは舗装はされていませんが、林業の作業道のような道を歩きます。



かなり頑丈な砂防ダムが出てくると登山道はおわり。



獣害フェンスのある登山口です。ここから瓢箪崩山に行くのが一番簡単でしょう。



ここから出発地点の駐車場までは気持ちの良い大原の道を歩きます。とてもきれいに管理されている茅葺き屋根。職人も少なくなり費用もかかるのでトタン屋根にしてしまう家屋が多いので貴重です。しかも茅葺きは上からムカデとかが落ちてくるそうです。



このあたりの井出集落は山裾が棚田になっていますが畑も多いです。これはダイコン畑。筆者の畑にもありますが9月末種蒔きなのでまだこんなに育ってはおりません。



左後ろが瓢箪崩山です。ここからだと瓢箪には見えませんね。



右が翠黛山(すいたいさん)で左が金毘羅山です。中央のもっこりを越えて左方向へ歩きました。



比叡山を背景に左がダイコン、右手前がニンジン、右奥がキャベツ畑です。さすがプロの仕事。

この後14時前に駐車場に戻り家路に着きました。




2025年10月22日水曜日

【東海道】草津宿~石部宿(三雲駅)

 昨日(10/21)に高市さんが新総理に任命されました。女性初の総理大臣ということも有意義だと思いますが、久しぶりに覇気を感じる首相が出てきたなと思いました。

気候の方は先週まで30度に迫る暑さだったのに10度以上下がって一気に秋が来たといった感じです。本当は今のような気候は9月に来るはずなんですが。

さて、今回は東海道歩きです。先月に初の東海道歩きを始めたのですが、奥さんの希望で鈴鹿峠の前後(土山宿、坂下宿、関宿)を歩いてしまったので、草津宿から土山宿を2回に分けて歩くことにしました。今回はその1回目で草津宿から石部宿になります。正確には石部宿を過ぎたJR三雲駅までが行程です。

東海道は京都の三条大橋がターミナルですが三条大橋から草津宿までは既に踏破した中山道とカブっているので省略して、筆者の東海道歩きは草津宿を始点にしています。



以下が詳細ルートと記事で紹介したスポットです。全行程19kmで4時間半ほどの歩きでした。いつもはもう少し歩くのですが、前述したような都合があったので短めの距離になっています。

全体的に旧街道の面影を感じるとても良いルートでした。旧東海道は交通量の激しい国道1号線沿いをトボトボ歩くといったイメージを持っていましたが、全く国道沿いは歩かずに済みました。これから江戸までもずっとこんな感じだと良いのですが。。。



朝、9時前に今回の歩きのゴールであるJR三雲駅の駐車場に車を停めて、三雲駅から草津線に乗って、JR草津駅で下車しました。9時20分から行動開始です。



草津駅から歩いて10分弱のところが草津宿です。中山道歩きでここを通ったのがもう7年前。草津宿は東海道(伊勢路)と中山道の分岐点(追分)でした。



東海道名所図会の追分の図。
(国立公文書館より)


草津川を越えるところにある道標。草津川は天井川といって平地の上を流れている。氾濫しないように堤防を人為的に高くしていった結果こうなってしまいました。人家の屋根より高くなっています。

道しるべには東海道(左)と信楽道(右)を記してあり、夜間でもわかるように立派な燈籠が上に乗っている。こういうのを花袋式といいます。



このあたりは年を取って働けなくなった牛や馬が残酷に殺されないように保護していた場所だそうです。



新幹線の線路を南下した草津川沿いにある田楽茶屋「ほっこり庵」。このあたりは目川集落で名物が田楽だったそうです。



ここが伊勢路を代表する三大田楽茶屋の一つ「こじま屋」があったところ。田楽の豆腐も味噌も大豆が原料。近江は全国有数の米どころで、裏作に大豆を育てたのでしょう。豆類は肥料になるので、それでまた稲が良く育つというわけです。



東海道名所図会にも目川の田楽が紹介されています。「豆腐百珍の一種」と書いてあるので調べてみると、江戸中期に「豆腐百珍」という料理本が大ヒットしたそうです。「目川に来たら絶対に田楽を食べなきゃ」と言ってたのでしょうね。

(国立公文書館より)


今回のルートは全く国道を通らないばかりか、旧街道の雰囲気の残り香が感じられる道が多くてとても楽しめます。



同じく目川のひょうたん屋さん。いまでも販売されているようです。かつては年間9千個を売り上げたそうです。

ひょうたんってびっくりするほど軽いんですよね。旅人の水筒としては耐久性から竹筒かなぁ。ひょうたんは形が良いのでお酒を入れて家で使うのが良いかも。



東海道と中郡街道の道標。中郡街道の下の説明を読むとどうやら東海道の東方面を指しているようです。

写真の右側は堤防になっていて、草津川の支流の金勝川(こんぜがわ)がL字型に曲がる場所にあるのが目川池。ため池だったのでしょう。

ため池ごと天井川になっている地形も珍しいのではないでしょうか。



街道の先に見えるのが近江富士こと三上山。いつも思うけれど山を背景にした街道っていいですね。



このあたり、いくつかため池があるのですが、これは上鈎(まがり)池の堤防の下の石碑。

ちょうど今、今谷明さんの「近江から日本史を読み直す」を読んでいて、この話が出てきました。

将軍の足利義尚(よしふさ)が近江で権勢を思いのままにしていた六角氏を倒すために軍を起ここして陣を張ったのがこの上鈎村でした。

六角氏は形勢不利とばかり甲賀へ逃げたそうですが、義尚はというと、この陣に1年半もいるうちに酒宴を繰り返して23歳の若さにして、ここで亡くなってしまいました。



階段があって堤防の上に登れたので上鈎池を眺める。正方形で一辺100メートル以上あります。



「すずめ茶屋」跡。ここも田楽が名物だったらしい。この道標にも「中仙道」と書いてあります。どうやら昔は草津方面は中仙道と言われていたようです。

東海道は中山道と比べて山中を歩かずに済むのですが、代わりに渡河が多く本格的に使われるようになったのは交通技術が発達した室町後期からだそうで、近江地域でも伊勢路と中山道の存在感が大きかったのではないでしょうか。



手原村の稲荷神社。JR手原駅が近くにあります。



手原の稲荷神社にあった奇妙な石造りの手掌。説明を読んで調べてみると、手孕み伝説というのが元になっているらしい。

これは「手」だけを生んだ女の話だったり、男から手をかざされて出産した話だったりで、ここの説明では歌舞伎「源平布引滝」で木曽義仲の愛人兼武人だった葵御前が自分の子を守るために産んだのは「手」だけだと偽り続けたと書いてありますが、実に奇談ではあります。

この地が以前から「テハラ」という名前だったことで後から付いてきた話だとは思います。



手原醤油店。今は末裔が住まわれているのでしょうか。明治維新以降は銀行家として名をあげたと顕彰碑に書かれています。



「肩かえの松」と記されています。旅人足がこの松の下で休憩して、荷物を別の肩にかけ替えたそうな。



六地蔵村。ここも旅人が急速する立場であり、「和中散」という胃腸薬の販売で有名だったそうです。

胃腸薬といえば奈良の陀羅尼助か、木曽の百草丸が有名ですが、黄檗ではなくてビワの葉を使った薬のようです。いずれも柑橘系が胃腸に良いと言うことでしょうか。



このあたりが東海道で最も近江富士に近い所。キャベツ農家さんらしく整然と植えられているキャベツ畑と近江富士の景色が素晴らしい。

筆者の畑でも9月にキャベツとハクサイの植付けを終えて順調に育っているところです。

キャベツは密植栽培のほうが競い合ってよく育つと本で読んだので、この農家さんのキャベツの株間を目を凝らして見ましたが、密植ではなく、やっぱり標準的な30cmほどで仕立てているようです。



ここが和中散の本舗「ぜざい」です。徳川家康の腹痛がこれで治ったことで有名になったそうです。



石部宿が近づいてきました。



石部宿の西端、西縄手と呼ばれた場所。京都方面からきた大名行列はここで隊列をあらためて宿場に入る準備をしたと書いてある。



石部の宿場町の角にある田楽茶屋。平日のお昼ですが営業されています。石部宿には3軒の代表的な田楽茶屋があったそうです。



日替わりランチ。良いお味でした。名物の田楽は食べませんでした。筆者が街道歩きの人なので、帰り際に「気を付けて」とやさしく声をかけてくれました。



田楽茶屋を出てからゴールまで小雨が降り続けました。



ここが2軒あった本陣のうちの一つ。廃屋があって雰囲気がないですが明治天皇も宿泊されたそうです。

石部宿には飯盛女を置いていなかったので、それが堅ブツを意味する「石部金吉」の語源になったとか。



案内板が立て込んでいますが、目を引いたのが「お半」と長左衛門の心中話。浄瑠璃になったほどの有名な話のようで調べてみました。

お半は少女で、長左衛門は中年の妻帯者だったのが、石部宿の旅籠で丁稚に言い寄られたお半を長左衛門が自分の布団にいれてかくまったのがきっかけで男女の関係になり、不義に悩む二人は心中して京都の桂川で水死体となった浮かんだという。



人形浄瑠璃「桂川連理柵(れんりのしがらみ)」。連理とは木目が揃っていることで、二人の仲がよほどピッタリ合っていたことを現している。心中話は昨今では美談になることは全くないのですが、昔の人は大好きだったのですね。戦前の昭和でも驚くような連続心中事件がありましたが。

(朝日新聞サイトより)


石部宿は458軒の旅籠が1.6kmほど続いたそうなので、このあたりもまだ宿場町の続きなのでしょう。




筆者が好んで飲んでいる滋賀の銘酒、北島酒造。フレッシュでフルーティーなお酒です。いつもの酒屋さんが北島酒造は品質が安定していることを褒めていました。

蔵元限定酒でもあれば買おうかなと思いましたがあいにく定休日でした。



東海道から分岐で飯道神社へつながる道があります。飯道山には去年奥さんと登りましたが、南側の麓には、知っている人はほとんどいませんが、1年ほど都だった紫香楽宮(しがらきのみや)がありました。

聖武天皇が最初に大仏を建てようとして企画倒れになった都です。




夏見集落。ここも立場になっていて、何軒かの茶屋で名物のトコロテンと名酒桜川がふるまわれたと書いてある。目川は田楽で、ここはトコロテンと楽しい道中だったのですね。



野洲川に流れ込む大沙川(おおすながわ)の下をくぐる隧道。この川も相当の高さの天井川です。この隧道は明治時代のもので、それまでは直登して川を渡っていたそうです。



写真右側から天井川に登れるようになっているので行ってみると弘法の杉があります。樹齢750年と書いてありました。左利きで箸を使う子供を矯正するのに、この杉の小枝で作った箸を使わせたという変わった逸話があります。

この天井川沿いに山手に1キロ弱ほど行くと三雲城址があるようです。前述した六角氏が足利義尚の攻撃にそなえて配下の三雲氏に築城させました。

ここから約20分ほどあるくとゴールのJR三雲駅です。朝に駐車していた車に乗って家路につきました。