関宿から庄野宿の先までを2泊3日の旅で歩く2日目です。
1日目の記事はコチラ。
下の地図が2日目のルートと記事で紹介した場所です。2日目は合計25km、6時間20分の歩きになりました。
今回2泊3日の宿は桑名駅前の桑名ステーションホテルでした。大浴場に無料の朝食つきで2泊で1万5千円という昨今の物価高のなか大変がんばっているホテルでした。
2日目は桑名駅で7時半の電車に乗り、30分ほどかけて1日目のゴールだった加佐登駅に降り立ちます。乗客の大半は途中の四日市駅で下車していきました。
三重県の県庁所在地は津市ですが四日市市が人口数では三重県トップです。
駅を出てしばらく鈴鹿川の北岸を歩く。水害を恐れてかほとんど建物がなく、そのおかげで景色がよく見えます。
筆者の住んでいる滋賀県はこれら鈴鹿山脈のちょうど裏側(西側)です。鈴鹿山脈を東に見ながら歩くのは珍しくて楽しいです。
鈴鹿山脈の山々に東海道をプロットした図です。⑦は鈴鹿セブンマウンテン、⑩は鈴鹿十座、「カ⑦」は亀山7座の山々です。上の写真は南の野登山から北の釈迦ヶ岳の先まで見渡せています。
石薬師の一里塚。
石薬師寺に立ち寄ります。真言宗で本尊は弘法大師が一夜で彫ったと言われてる石仏ですが、「弘法大師が一夜で~」というのは大変良く見かけますね。
薬師如来の石仏が石薬師宿の名前の由来です。
お百度石の上のお地蔵さんが可愛い。毛糸の帽子を被らされています。
東海道五十三次「石薬師」に石薬師寺が描かれています。
板張りと瓦が立派な倉。斜めにかかる松の枝が大変美しい。
佐々木信綱の資料館になっています。バサラ大名の佐々木道誉に関連した人かなと思いましたが時代が全然違っていて、ここ薬師村出身の歌人でした。
信綱資料館の横が
石薬師宿の本陣(小澤本陣)。亀山宿、庄野宿と同様、民衆に人気のお伊勢参りはこのルートを避けて通ってしまうため旅籠経営は厳しかったそうです。旅籠の数は庄野宿と同じたったの15軒。
本陣といっても小ぶりです。
浪瀬川手前に静かに佇んでいる北町の地蔵堂。白いサザンカとの組み合わせが風情がある。
鈴鹿市を出て四日市市に入り、しばらく国道沿いの面白くない道が続きます。道路沿いの食堂にあったのが采女(うねめ)の一里塚。
采女とは宮中の下級女官の名であり四日市の富田といわれるこの地で、采女になった娘が多かったことが由来になっています。
四日市にむけて40mほどの下りの道。石薬師宿のあたりが台地のようになっています。
景色の先をよく見ると名古屋のある濃尾平野を通り越して雪化粧した木曽の御嶽山(3067m)が見えます!さらに左の奥には乗鞍岳(3026m)の姿も。
御嶽山は今年9月に登りましたが、あらためてよくあんな山に登ったもんだと思います。
血塚社(ちづかしゃ)。怪我をした日本武尊がここで血を封じたとされていることが由来。
境内には日本武尊の塚があります。伊吹山でバケモノ(古事記はイノシシ、書記は大蛇)と闘って負傷したヤマトタケルは亀山の能煩野(のぼの)という場所で亡くなったと言われています。能煩野は昨日、ナゾの飛行機があったあたりです。
とすると伊吹山からの帰り、ここで止血はできたけれどもその甲斐なく少し進んで死んでしまったのですね。
以前中山道歩きの際、醒ヶ井で清水で傷を洗って回復したという伝説を目にしましたが、そうすると伊吹山の戦いの跡、いったん彦根方面におりて醒ヶ井に立ち寄ってからこの地に来たことになります。
さきほど御嶽山が見えた場所から血塚社のある40mほどの坂は、よほどの坂道だったようで杖衝坂(つえつきざか)という名前がついています。杖を突きながらなんとか坂道を登ったのでしょう。
坂にあるのが芭蕉の句。
歩行(かち)ならば 杖つき坂を落馬かな
歩けばよいのに杖衝坂を馬で登ろうとして落馬してしまった、という歌です。「奥の細道」を始める前年、伊勢へと向かう道中です。
筆者は下り坂でしたが、そんな大変な坂にはとても思えませんでした。整備される前はガタガタだったのでしょう。
坂から再び見えた御嶽山と乗鞍岳。
内部川(うつべがわ)を渡ります。遠くに尖った鎌ヶ岳と右に御在所岳が見えます。この内部川も鈴鹿川に合流して伊勢湾へと向かいます。
日永の追分と呼ばれる東海道が伊勢街道に分岐する地点(追分)です。鳥居が向いている左方向が伊勢街道、手前から右方向が東海道です。
江戸方面からお伊勢参りをする人は東海道からこの日永の追分を経由して津を通り伊勢神宮へ向かいました。なので日永の追分は人通りも多く、正式な宿場町ではない間宿(あいのしゅく)として賑わったそうです。
鳥居の立っている分岐点にはベンチがあったのでサーモスから熱いほうじ茶を入れて一休み。日永の追分では名物「追分まんじゅう」を売る茶屋が軒を連ねていたらしい。
広重「東海道五十三次」追分の図。たしかに「まんぢゅう」を楽しそうに食べてますね。
見事な一本松の巨木。このあたりは松並木が続いていた。
砲弾の形をしているので戦争関連の碑であることがすぐわかります。街道歩きをしていると村々で頻繁に見かけます。これは志那事変(日清戦争)の忠魂碑。日露戦争、太平洋戦争は多いですが、日清戦争はあまり見かけません。
忠魂碑のそばの看板に、日永集落の村人たちが手をつないで輪になって踊る「つんつくおどり」が紹介されていました。
天白川(てんぱくがわ)を渡ります。もう鈴鹿川とは別の流れになりました。鈴鹿山脈も鎌ヶ岳が後ろに見えるようになります。
日永駅そばにある大宮神明社。昔は500mほど内陸側にあったのを火事がきっかけで東海道沿いのこの地に移設したと書いてある。内陸側にあった昔はこの辺りは海だったので舟付神社と呼ばれていたそうだが、東海道ができた時は陸地になっていたことになる。
日永駅のある路線は四日市あすなろう鉄道が運営しています。
四日市市街に入ってきました。商店街の名前はこの先にある諏訪神社に由来しています。
商店街はそれなりに賑わいがあります。この気持ちの悪い人形は自動で首が伸び縮みしています。サンタの帽子が全く似合っていない。
これは大入道と言われ、毎年夏に行われる四日市祭りの山車に載せられたことが由来のようです。こちらでは山車のことをネリと呼んでいるみたい。
四日市祭りの様子を描いた明治時代の版画絵。大入道以外にも巨大な魚に人間の足が生えているのも見える。かなりのゲテモノ。
大入道がろくろ首のように首が長いのも祭りで目立つからなのでしょうね。
さきほどの「スワ栄」と「スワマエ」が四日市の2大商店街。
この辺で時間が12時なのでどこかでお昼のお店を探しますが良いお店が見当たらない。
諏訪公園に出てきました。なにやらアールヌーボーとシュールレアリスムの中間のようなデザイン。すぐ向こうに諏訪神社がありますが、優先順位はランチ。
諏訪公園西の歓楽街のなかにタイ料理店(
カルアータイ・イーサン)が営業していたので少々不安になりながら入ると、タイ人のお母さんが溢れるような笑顔で「サワディー・カー」と挨拶してくれました。
お母さんが作ってくれたパッタイ定食は本場の味で美味しかったです。
歓楽街や風俗街の朝や昼のお店って、本当に「休んでいる」雰囲気があって何故か癒されますね。
タイ料理を後にして諏訪神社に向かいます。岩座の上の柱には「廣く会議を興し萬機公論に決すべし」とあり、これは明治天皇の五箇条の御誓文の第1条。明治元年の前に発布されました。柱は五角形になっていて側面、裏面に残りの4条が記されています。
諏訪神社。諏訪湖そばにある諏訪大社を中心にして全国にありますが、ここは鎌倉時代に勧請されたそうです。
鎌倉時代は東国武士が実権を握った時代だったので、東国で国譲りの太古から信仰されていた諏訪の神を勧請したんじゃないかという気がします。
三滝川を渡ります。この川の手前が
四日市宿があったところ。四日市宿は大変にぎわったようで旅籠の数も100軒近くありました。山の景色も鈴鹿山脈の北端の霊仙山から
関ヶ原の向こうの伊吹山が見えてきました。
「東海道五十三次」四日市「三重川」。三重川は三滝川のことです。河原の風で飛ばされた笠をあわてて追いかける旅人。
ちなみに「三重県」の由来はヤマトタケルが東征の帰りで足が三重に曲がる(?)ほど疲れたという話からだそうです。その状態で伊吹山の怪物と闘ったせいで大怪我をしたわけです。
カステラ屋さんにあった大入道。首が長い上にベロまで出している。
四日市のカステラは長崎カステラに四日市のお茶の風味を利かせているのが特徴だそう。
羽根村のあたり、ここは街道沿いに松並木があったが今はこの樹齢200年のこの松だけになった。この地域を川原津とよばれていたのにかけて江戸時代から変わらずの「かわらづの松」と名付けたと案内板。
小さな社は八幡地蔵尊で、本尊は地蔵尊なのに阿弥陀如来の姿をしていて「仏のことをよく知らない石工によるもの」と案内板。間違えてもお地蔵さんとして地域にとけこんでいるのが面白い。
左後ろの石碑はこの地に八幡神社があったことを記している。神社が無くなった理由は明治の「一村一社制」だと書いてあるが知らなかったので調べてみると、明治末に神社の威厳を保つために枝葉末節な社を取り潰す政策が打ち出されたとのことです。
ただ色々反対などがあって全国で徹底されなかったけれど、最も強力に実行したのが三重県で一村一社制の結果、神社の数が9割も減ったそうです。
古事記や日本書紀の神々よりも古い庚申さんとか男根崇拝的な神様(淫祠)が排除されたんじゃないでしょうか。
八幡の常夜燈。建てられたのは明治後期なので比較的新しい。さきほどの「かわらづの松」で記されていたようにこのあたりは松並木が続いていたけれど明治末には人通りの寂しい道で追剥ぎが出没したので、旅人の安全のために常夜燈が立てられたと説明版にある。
調べてみると関西本線の四日市ー桑名間は明治27年に開業されているので、そのあたりから東海道は寂れてきたのですね。
説明版には江戸時代の東海道の全盛期には、このあたりまで四日市宿の飯盛り女が迎えにきていたとあります。
右の石碑は明治後期に760mの暗渠による水路を通したことの記念碑。三重県特有の言い方で素掘りの用水路のための暗渠をマンボ(間歩)と言う。
しかし伊勢湾台風で水田も暗渠も破壊されてしまったと書かれています。伊勢湾台風は昭和34年に発生、被害規模は関東大震災に匹敵した。
石碑の後ろにある力石は120キロあって大正時代の力自慢たちが持ち上げて競い合ったそうな。
薬師寺の慰霊塔。これは大東亜戦争。薬師寺の本尊である如来像は弘法大師が彫ったとあるが、ここでは「一夜で~」とは書いていない。
富田村に入って案内板を読むと「そうは桑名の焼き蛤」はここ富田と、北に朝明川(あさけがわ)をはさんだ小向(おぶけ)村の名物だった、と書いてあります。
富田村と小向村が桑名藩に属していたので「桑名の焼き蛤」と言われたけれど、桑名城あたりではなかったと。
焼き蛤は今日桑名駅そばで食べる予定です。
すこし休憩したかったので街道を少し外れた公園で一休み。公園はかつてお寺があったと説明版。今日の旅は説明版が多くて面白い。
朝明川(あさけがわ)を渡ります。御在所岳が後方になりました。
3時前に今日のゴールであるJR朝日駅に到着。朝日駅からホテルの桑名駅までは一駅なのですぐです。
桑名市は四日市市ほどではないですが小都市といったところです。
面白いのは桑名駅は4つの鉄道会社のハブになっていることです。
JRと近鉄は前後含めてかなり重複しています。南へは日永の追分からJRは東海道、近鉄は伊勢街道沿いに続いています。
養老鉄道は明治の終わりに実業家によって敦賀と四日市をつなげたいという野望をもとに設営されましたが山地に阻まれて岐阜県揖斐までとなり、その後経営が傾き近鉄グループに入ったものの現在はグループから外されてしまいました。
山岐鉄道はセメント会社が設立した鉄道で鈴鹿山脈で採った石灰を原料に製造したセメントの移送を目的に設営されて旅客用にも運用しています。
ホテルで一休みしてから待望の「桑名の焼き蛤」を食べに繰り出しました。一番良さそうだった「丁子屋」は予約でいっぱいなので、駅前の「蛤将軍」にいきました。
大きさは普通のハマグリぐらいですが4年物。4個で2000円なのでいいお値段します。
身は張りがあってツルっとした気持ちよい口当たりですが、味のほうは、まぁ、ハマグリですね。もう一回2000円出して食べようとは思いません。
ハマグリは98%が輸入物だそうです。桑名産も干潟の減少などで一時は絶滅かと言われたけれど、人工干潟や漁獲制限などで昨今は増加傾向にあるそうでよかったです。
この後ホテルに帰り大浴場で疲れをとってから睡眠をとります。
3日目最終日はコチラ。
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