先月11月に西国街道を下関で完遂したので街道歩きの趣味は東海道に専念することになります。
今回は草津から3日かけて到達した関宿(関駅)をスタートして2泊3日で桑名宿を通り越して熱田宿の手前(近鉄蟹江駅)まで歩くことにします。
旧東海道では桑名宿から熱田宿までは陸路を通らず、七里の渡しという船に乗って伊勢湾を横断していましたが、現在は通常運行していないので陸路を歩きました。
3日間の行程は以下の結果となりました。
① 関宿(JR関駅)、亀山宿、庄野宿、(JR加佐登駅) 17km、4時間30分
② (JR加佐登駅)、石薬師宿、四日市宿、(JR朝日駅) 25km、6時間20分
③ (JR朝日駅)、桑名宿、(近鉄蟹江駅) 23km、6時間
関宿までは宿場町だけでなく街道にも旧街道の雰囲気が残っていて大変趣きがあったのですが、今回、三重県に入ってからは街道の趣きは少なくなりました。とは言え宿場町はそれなりに昔の雰囲気を残しており、なにより左手に見える鈴鹿山脈が北へ変わる景色が素晴らしかったです。
こちらが1日目のルートを記事で紹介した場所です。1日目はJR関駅を出発、亀山宿、庄野宿を過ぎたJR加佐登(かさど)駅をゴールにします。宿は関西本線上のJR桑名駅にあるホテルに2泊します。
茶畑の後ろの山は何だろうと調べると前回の旅に見た筆捨山近くにある明星ヶ岳。
伊勢自動車道の下をくぐり抜けてしばらく歩くと布気皇館太(ふけこうたつだい)神社。古墳時代、垂仁(すいにん)天皇の時代の神社とされています。

城址にある亀山神社。元々は本丸西にあった小さな祠だったそうです。
多聞櫓から南方向を眺める。「池の側」という名前の池が見えますが、この池は外堀の一部になっています。
亀山城見学を終えて再び東海道へ合流します。亀山宿は寂れ気味の商店街になっており宿場町の面影は全くありません。
JR草津線、関西本線と乗り継いで前回の終着点の関駅に到着したのが12時頃。今日は17kmと短めなのでゆっくり目のスタートです。
お昼だったので歩き始める前に関宿にあるお食事処「山石」で親子丼定食をいただきます。元気と愛想の良い女性店員さんが気持ちよくお客さんをテキパキと応対していました。
食後のコーヒーまでつけてくれましたが、歩く前からゆっくりしてられないので早速スタート。
平日なので観光客もほとんどいない静かで雰囲気の残る宿場町です。
東の追分。東海道と伊勢別街道の分岐点です。鳥居をくぐって南方向に行くと津市を経由して伊勢へと続きます。
茶畑の後ろの山は何だろうと調べると前回の旅に見た筆捨山近くにある明星ヶ岳。
伊勢自動車道の下をくぐり抜けてしばらく歩くと布気皇館太(ふけこうたつだい)神社。古墳時代、垂仁(すいにん)天皇の時代の神社とされています。
垂仁天皇はヤマトタケルの祖父。
一里塚に植えられたのはエノキが多かったようで、これもそうでしょう。土台がやせて根が露出していて可哀想ですが迫力があります。
「御召替所」の看板に明治天皇の行幸の際にここで休憩され、御茶料3円を下さったと書いてあります。「御召替所」というのはどうやらここで着替えをされたということのようで、明治天皇行幸ルートにはチラホラあるようです。
亀山宿西にある野村集落で大地主で商家だったという佐野家住宅が保存されています。亀山市が歴史保存のために家屋を取得して維持保存されていて大変良いことだと思います。
内部は無人で休憩所になっていたので、サーモスに入れてきた熱いほうじ茶とドーナツで一休み。外にトイレも付いていてありがたい。

これが亀山城の西端(京方向)にあった京口門跡です。
GoogleEarthで調べてみると今渡った竜川は亀山城西側の天然の要害になっているのがわかります。
一里塚に植えられたのはエノキが多かったようで、これもそうでしょう。土台がやせて根が露出していて可哀想ですが迫力があります。
「御召替所」の看板に明治天皇の行幸の際にここで休憩され、御茶料3円を下さったと書いてあります。「御召替所」というのはどうやらここで着替えをされたということのようで、明治天皇行幸ルートにはチラホラあるようです。
亀山宿西にある野村集落で大地主で商家だったという佐野家住宅が保存されています。亀山市が歴史保存のために家屋を取得して維持保存されていて大変良いことだと思います。
内部は無人で休憩所になっていたので、サーモスに入れてきた熱いほうじ茶とドーナツで一休み。外にトイレも付いていてありがたい。
10m以上はあるかと思われる谷の上にかかる橋を渡る。水量はほとんどないけれどここはかつて竜川が流れていたところです。

これが亀山城の西端(京方向)にあった京口門跡です。
GoogleEarthで調べてみると今渡った竜川は亀山城西側の天然の要害になっているのがわかります。
亀山城外堀は大きな池を残して明治時代にはすでに埋められてしまって残っていませんが青線枠で囲ったようになっていました。
東海道は外堀の外側を南に迂回するようにつながっています(黄色線)。
安藤広重の亀山「雪晴」。竜川から右上に京口門を見上げた構図です。雪の日に笠を被って馬と駕籠が坂を登って行く様子が描かれていますが、橋が無かった当時はどういう道になっていたのでしょうか。
亀山城は鎌倉時代に建てられた城ですが、江戸時代に壊されてしまいました。壊された理由ですが、なんと幕府から「(丹波の)亀山城を壊せ」と命令されて間違えて伊勢の亀山城を壊してしまったそうです。
こういう事件があったからか、まぎらわしいので明治2年に丹波の亀山は「亀岡」に改称させられました(現在の京都府亀岡市)。
その後明治の廃城令で天守以外の建物も壊されて構造物として現存しているのは石垣の上に建つ多聞櫓(たもんやぐら)のみのようで、この建物は武器庫の後工場として使われて残存しました。

城址にある亀山神社。元々は本丸西にあった小さな祠だったそうです。
多聞櫓から南方向を眺める。「池の側」という名前の池が見えますが、この池は外堀の一部になっています。
亀山城見学を終えて再び東海道へ合流します。亀山宿は寂れ気味の商店街になっており宿場町の面影は全くありません。
亀山宿は城が近かったので風紀が厳しくて面白味がなく大名行列以外の旅人は好んで泊まらなかったそうです。旅籠の数も関宿の半分しかありません。
亀山宿が人気がなかったもう一つの原因は江戸時代の民衆に大変人気のあったお伊勢参りのルートが、京都方面からは関宿から伊勢別街道へ、江戸方面からは四日市宿を過ぎた日永の追分から伊勢街道へと進むため、その間にある亀山宿、庄野宿、石薬師宿は通らないことがありました。
亀山宿が人気がなかったもう一つの原因は江戸時代の民衆に大変人気のあったお伊勢参りのルートが、京都方面からは関宿から伊勢別街道へ、江戸方面からは四日市宿を過ぎた日永の追分から伊勢街道へと進むため、その間にある亀山宿、庄野宿、石薬師宿は通らないことがありました。
庄野宿方面に向けて東海道を進むと、北へ曲がる角に江戸口門があります。京口門と違って東側は自然の要害にはなっていません。
和田道標。東海道に分岐して鈴鹿サーキット北側を抜けて伊勢湾の若松港に至る道(神戸白子若松道)に続きます。この道標は三重県最古らしい。
川合集落に入ります。ここは刑場があった場所で刑死者を供養するために日蓮宗信者が建てた題目塔。この塔の東海道をはさんだ向かい側が鈴鹿川の広い河原だったので罪人が処刑されたのでしょうか。
JR井田川駅を過ぎて鈴鹿川に合流する安楽川の橋を渡ります。
女人堤防碑文。
亀山ローソクのきれいで立派な工場。国内ローソクのシェアは50%だそうですが、お墓の文化も消えつつある日本で今後ローソク主力でやっていけるのかな。
亀山市のマンホールのデザインはさきほど見た亀山城の多聞櫓。
和田集落にはいったところにある一里塚。今回のルートは一里塚が保存されている場所が多い。でも両側に塚がある場所は無かった。
和田道標。東海道に分岐して鈴鹿サーキット北側を抜けて伊勢湾の若松港に至る道(神戸白子若松道)に続きます。この道標は三重県最古らしい。
川合集落に入ります。ここは刑場があった場所で刑死者を供養するために日蓮宗信者が建てた題目塔。この塔の東海道をはさんだ向かい側が鈴鹿川の広い河原だったので罪人が処刑されたのでしょうか。
JR井田川駅を過ぎて鈴鹿川に合流する安楽川の橋を渡ります。
橋の向こうに離陸する飛行機が見えます。これについては物凄く詳しく調べている人の記事があり読んでみると、もともとはアメリカの旅客機(CV240)だったものを広島の航空会社が買い取り、現役引退後、各地を転々として90年代に今の場所で中古建設機械を取り扱っている商店社長が買い取ったと書かれています。
ここの前は静岡県のホテルに展示されていたのを搬送するのに運送会社に断られたので、搬送台車を自作してこの地に運び込み4ヵ月かけて今の形に完成させたというのですごい執念です。
女人堤防碑文。
このあたりは安楽川が鈴鹿川に合流する箇所で水害が頻繁に発生し田や住宅に大きな被害がでたが、藩主が堤防建設を許さなかった。
もし藩主に無断で堤防を作ると打ち首になるが、どうしても堤防が必要だということで菊女という女が働き手の男子が殺されては村の将来がないと、自分を中心にして200人の女手で堤防を作った。
案の定、藩は女たちをとらえて菊女を筆頭して打ち首にしようとしたところ、勇気のある家老の死を賭した諫言で藩主が翻意して菊女たちの命が救われた。
何気ない日常がこういう先人たちの努力の上に成り立っているということを感じさせられるすごい話です。
庄野宿。本陣跡が郵便局になっています。それなりに名残りを感じます。
さきほどの亀山宿と同様に庄野宿も民衆はあまり使わなかった。旅籠の数は亀山宿よりさらに少ないたったの15軒。
広重の東海道五十三次「庄野の白雨」。広重の絵の通り、パラパラだった雨がボツボツに変わってきたのでレインウェアに着替えて、JR加佐登駅の名古屋方面の一時間一本の電車(16時半過ぎ)へ急ぎました。
加佐登駅周辺は妙な化学臭が漂っていて少し気持ち悪かった。南側にコンクリート工場があるのでそのせいかもしれない。翌朝も同じ臭いがしたので住民の方は迷惑しているのでは。
桑名駅で下車して今日、明日の2泊の宿、桑名ステーションホテルで休みます。
2日目はコチラ。
































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