2023年12月19日火曜日

【滋賀】幻住庵~国分山(芭蕉の足跡を訪ねて)

 角川ビギナーズクラシック「おくのほそ道」と加賀乙彦さんの「わたしの芭蕉」を読んだので芭蕉の足跡に触れようと思い、滋賀県大津市にある幻住庵(げんじゅうあん)を訪ねます。

(大津市のパンフレット)


松尾芭蕉のおくのほそ道の俳諧旅行は1689年に伊勢に向かうところで終わっていますが、その後、膳所の義仲寺の草庵で新年を迎えます。

その膳所で友人の曲水に勧められ、この幻住庵で4月から7月の終わりごろまで滞在しました。芭蕉が46歳のときです。

「幻住庵記」には、過去10年の長旅で50に近い老体にもガタが来たので「今歳湖水の波にただよふ」と、しばらく琵琶湖のそばに住んでみようと言っています。

筆者はびわ湖を詠んだ句でこれが一番好きです。

四方より 花吹入れて にほの波

昔は今よりも琵琶湖の周囲には桜があったらしく桜の花がびわ湖に舞い入る様子がたいへん美しい。ちなみに「にほの海」とはびわ湖の別名です。鳰(にお)とはカイツブリのことで、カモをちっちゃくしたような水鳥ですが、くちばしが平べったくないのでカモと区別ができます。

同じく幻住庵記には「石山の奥、岩間のうしろに山あり、国分山といふ」と書いてあるので、幻住庵を訪れるついでに国分山にも登ってみようと思いつきました。

ヤマレコ地図には国分山は記載されていないのですが、調べてみると、京阪石山駅から音羽山へ向かう登山コース(4年前に登った)の北側に並行して国分山を通る踏み跡があることがわかったので、そのコースを行くことにします。

こういうコースは間違いなく整備されていない登山道なので歩きにくいこと必定ですが、低山のショートコースなので大丈夫かと。



これが歩いた結果のルートになります。京阪石山駅から南へ歩いて幻住庵を訪ね、幻住庵の裏手から山中に入って国分山とその尾根道を進みます。尾根道は音羽山まで続くのですが、途中で北に折れて変な沼地の横を脱出して帝産バスの焼野バス停でバスに乗車しました。

合計時間2時間40分、6kmの距離で累積標高260mでした。

幻住庵は芭蕉好きなら是非行くべきかと思いますが、国分山の尾根道は予想通り、かろうじて道があるかないかの状況で倒木だらけ、景色もありません。元々が里山なので自然の美しさを感じることもないので、筆者のようなモノズキの方以外には全くおススメしません



京阪石山駅を降りると、芭蕉の像がありました。膳所で芭蕉と言えば幻住庵よりも義仲寺が有名です。芭蕉は木曽義仲をとても好んでいたので自分の墓は義仲寺にしてくれと生前から頼んでいたそうです。

ちょうど今月、中山道歩きで木曽路を歩いてきましたが、木曽路では木曽義仲や巴御前にまつわる史跡が数多くあり義仲人気をうかがわせます。平家物語ではどちらかと言えば義経の方が人気がありますが、何故に芭蕉は義仲のことが好きだったのでしょうか?

筆者は義経のように源氏の家系を意識せず、山野を駆け回って自由奔放に生きた義仲のほうが芭蕉にとって魅力に映ったんじゃないかなと思います。



京阪石山駅から幻住庵までは敢えて幹線道路を通らず、細い道を歩きます。長らく街道歩きをしていると地図を見れば大体古い道筋かどうかわかるものです。

このあたりには昔、国分寺がありました。国分寺とは奈良時代に仏教を広めるために全国に建てられたお寺です。ここの国分寺は火事で焼失したあと、平安時代に国昌寺となりましたが、国昌寺も今は存在しません。



水路の横の道の右手に見えるのが国分山の麓です。幻住庵記には「ふもとに細き流れを渡りて翠微に登る(中腹)こと三曲二百歩~」と書いてあるのでこのあたりを言っているのかもしれません。

このあたりは大津放水路といって増水の被害を抑えるために瀬田川へ流す地下トンネルがり、中へ侵入できないように厳重な柵がほどこしてあります。



幻住庵の入り口です。バス停があります。



パンフレットにあった案内図です。幻住庵は近津尾(ちかつお)神社から左上に少し登った場所にあります。

幻住庵記にも「八幡宮たたせたまふ」とありますが、近津尾神社は昔は近津尾之八幡宮と称していました。



神社にあがる階段を歩いていると、子供が詠んだ句が垂れ下がっていて微笑ましい。



近津尾神社。平安末期に建立。



屋根の上のX字(千木)があるので古い神社であることがわかる。



芭蕉はこの椎の木が気に入ったのもあり幻住庵にしばらく住んでみようと決めます。



案内版にあった幻住庵記の複製です。直筆を見ればどんな人物だったか想像できるのが面白い。几帳面だけど力強い、人から好かれそうな人物に感じます。



これが幻住庵。平成3年に復元した茅葺き屋根の建物ですが、六畳間に加えて、四畳半がふたつあります。時折、弟子などが訪ねてきたかと思いますが、想像していたより大きな家です。

幻住庵記には屋根はやぶれて壁はくずれ狐狸の寝床になっていると書いてあるので、芭蕉が来たときはよっぽどボロボロで動物臭の酷い庵だったようです。



軒先からは石山、瀬田川方面の景色が少し見えました。




庵を出てせせらぎ散策道に行ってみると、幻住庵の管理人の方が、箒で落ち葉やどんぐりの実を履いておられました。こちらに通っては庵の管理と周辺の掃除をされているそうです。

そこで筆者が一句。

「石山の どんぐり掃くは 庵の守」

一応「どんぐり掃く」を季語にしているつもりです。句を作ってみると、つくづく俳句というのは絵画に近いなあと感じます。どちらかと言えば、印象派かな。モネが日本で人気なのも俳句に近いからかもしれません。

せせらぎ散策道にあったのが、「とくとくの清水」と名のついた湧き水。「たまたま心まめなる時は、谷の清水を汲みてみづから炊ぐ」と書いています。



さて、幻住庵を後にして国分山に登ります。幻住庵の裏手から無理やり山に入りますが、道もなく強引に山中に入っていきます。



途中から三角点が出てきました。このルート、ここだけじゃなくて三角点がやたらに多いのですが、送電線の経路になっているからかもしれません。



巨石というほどでもないけれど、石山寺と地質がつながっていることを思わせる。



山に入って20分ほどで国分山(270.5m)の山頂に到着。景色なし。11時半なのでカップヌードルのミルクシーフードを食べる。

幻住庵記に国分山とは書かれていたけれど芭蕉がここまで来たのかどうかははだはだ疑問。多分、飯炊きなどのために薪を拾いに山中に入ったとは思いますが、それも弟子などがやってくれたんじゃないかなぁ。



国分山の尾根道は倒木だらけでとても歩きづらいのですが、新しめのテープがほどこされてあるので助かります。それでも道がはっきりしていないので度々間違えます。



木立の切れ間から見えた景色。本当に景色は何もありません。



音羽山に続く尾根道を行き過ぎて引き返し、北方向で折れて進みます。ヤマレコの踏み跡によると途中で244mの小ピークを越えているように見えるのですが、歩けるような道がないので、沼の方へ進みます。

幸い沼の横に歩ける道があったので歩いて行くと沼地に出てきました。ヤマレコの踏み跡を辿っても結局最後は沼地に出てくるので同じです。

この大きな沼には大掛かりなダムで水がせき止められており、その向こうが造成地になって多くの住宅ができています。



乾いているような場所を選んで沼地を横断しましたが、一箇所ズボっとやってしまい登山靴の片方が無残なことになってしまいました。

最後にこの緑のフェンスまで這い上がり、フェンスをよじ登って越えてほっと一息。立ち入り禁止の看板がかかっています。当然ですね。



ダムの先にできた若葉台住宅地。



バス停に通りかかると偶然にも石山駅行きバス到着の一分前でした。一時間に一本なのになんという幸運。たまにはこういうこともあっても良い。

帰ったら真っ先に登山靴をブラシで洗いましたが、ドロ沼の臭いがしました。

2023年師走、年の最後の登山はなんというか小冒険になってしまいましたが、芭蕉の足跡はしっかり感じることができたので良かったです。



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