2024年4月2日火曜日

【西国街道】湯坂温泉郷、四日市宿、八本松駅

 西国街道の三原宿からの二日目です。

(一日目はコチラ)

ブログで紹介した場所をプロットした行程図です。


昨日は賀茂川荘のうっすらとラドンが含まれる湯のおかげで疲れもとれ、朝食のビュッフェもおいしくいただきました。


ホテルの前が広い庭になっています。



8時前から歩き始めます。田万里(たまり)川をはさんで歩道の向こう側が国道2号線です。



モクレンの花が咲いています。これは紫の差し色がはいった紫(シ)モクレン。


しばらく歩くと旧街道の面影を残す集落が出てきました。田万里市(たまりいち)という名前で、本郷宿と四日市宿の間宿(あいのしゅく)だったらしいので宿と市場の双方を兼ねていたようです。




街道脇の石垣の上に建っているのは石立神社。


日向一里塚。


西国街道の難所と呼ばれた松子山峠に行くには舗装道路の右のうっすら踏み跡があるところから雑木林のなかに侵入する。


この荒れた雑木林の中を突き進む。もう悪い予感しかしない



全く道も踏み跡もない場所だけれどこのあたりが松子山峠の最高地点(368m)のはず。GPSだけを頼りに小枝をかき分けて進むが、沼が近くにあるためズブズブのぬかるみに靴が沈み込み、イバラに引っかかり袖が破れる。血が出なかったのが幸い。いままでの街道歩きは勿論、登山の経験も含めて最悪ルートの一つでした。



あまりにも酷いルートだったのでルートの計画を間違えたかと思って後でヤマレコで確認してみました。黒い点線が国土地理院の幅員1.5m以内の道なので、ルートは間違ってはいないようです。

ここからは想像ですが、雑木林の木々は若い(10年以内)ものばかりなので、10年以内に何か大規模に人の手が入ったような気がします。松子山峠のおわりに広島中央エコパーク(ゴミ焼却場)があり、運用開始されたのが2021年からなので建設工事に関係しているように思えます。

いずれにせよ、こんなところは歩かない方が無難です。他の人のブログを見ると、どうやら次回の旅で再び難所と言われる大山峠があり、松子山峠同様に荒れているらしいので回避することにします。



二度と歩きたくない荒れ地から出たところに松子山峠の道標があった。通ってきた荒れ地も以前はこういう感じの道だったのでしょう。



今宮(牛宮)神社の前の案内版に牛満長者伝説の話が書いてあっておもしろい。昔、焙烙(ほうろく、煎り鍋)を売る行商人がいて、松子山峠で倒れている牛を助けてやったところ、牛が黄金に変わり、行商人は牛満長者と呼ばれるようになった。

長者になった男はこの先の西条の土地を買って多くの小作人が歌を謡いながら田植えに汗を流していたが、ある日、一人の百姓が長者の家にある開かずの倉を開けると、そこにあった焙烙が一羽の白鳥に変わり、白鳥山(松子山峠の北西の山)へ飛んで行った。

それをきっかけに長者は没落して元の貧乏な行商人へと戻ったという話。


最初に助けたのが牛なのに、最後に正体を現したのが白鳥だというのが解せない。複数の民話が混ざったような感があります。


2日目も1日目と同様、ずっと田舎道を歩いてきたのに、ちょうど12時頃にランチの店にたどり着いたのでラッキーでした。「とんかつ日刈り」という店でカツとエビフライ定食をいただきました。



久しぶりに見た二宮金次郎の像。筆者の小学校の校庭にもあったと記憶していますが、働きながらも寸暇を惜しまず学問に励む姿が日本人の理想として国家レベルで教育の現場に登場しました。

昔は多く見かけましたが、なぜ見かけなくなったのでしょうか?子供が働いている姿に違和感を感じるようになったのか?歩きながら本を読むのが危険だと指摘されるようになったのか?



西条駅が近くなると酒屋さんが続くようになります。西条酒蔵通りと言われているようです。これは賀茂泉酒造。このあたりの地域も賀茂と呼ばれているようです。酒造技術も出雲から下ってきた賀茂氏が伝えたのでしょうか。




おそらく西条で最も大きな酒造さんと思われる賀茂鶴酒造。日本三大酒処は灘(兵庫)、伏見(京都)、そして西条ということらしいですが、納得する人は少ないでしょう。

ここが西国街道の四日市宿なのですが、宿場町の形跡は酒造りの隆盛に完全に消されてしまっています。

西条の酒造りが拡大したのは明治の前半に鉄道が開通してからだと書いてありました。灘も伏見も江戸時代からの歴史があるので一緒にするのはちょっと...

ここに醸造所が集まっているのは、良質の仕込み水が井戸から汲み上げられたからだそうです。



西条の酒造の発展に貢献したのが動力精米機。当時は精米はもっぱら水車を使うのが一般的であったが、流れの速い川がなくて精米に苦心していたところに開発されたそうです。これも明治の終わりに開発されたので鉄道と相まって酒造りが一挙に盛んになったのでしょう。

仕組みは甕の上部に投入された玄米が中央で回転しながら側面の砥石に当たって削れるようになっています。ちなみに筆者も使っている街のコイン精米機は回転する玄米を風に当てて玄米どうしの摩擦で精米する仕組みです。



駅前から続く道は飲食街です。なまこ壁の倉のなかはバーになっています。


陸軍の上等兵だった人の記念碑。明治38年なので日露戦争です。



ここから50mほどのアップダウンがあり、案内版によると飢坂(かつえざか)という穏やかでない名前が付いています。


道中にある説明版に由来が詳しく書かれています。2説あるとのこと。

①1説目は松子山峠を出たところにあった今宮(牛宮)神社の伝説とリンクしていますが、牛満長者が買い占めた畑を小作人の百姓が西から東まで稲を植えているうちにお腹がすいてこの飢坂にたどり着いた時には飢えてしまったという伝説。

②2説目は凶作で飢饉が発生したとき、この坂の西側から東側で行われた炊き出しを目当てに人々が西国街道に列をなしたが、東側の炊き出しにたどり着く前に飢え死にして倒れてしまったという伝説。

伝説を真面目に検証するのも無粋ですが、どちらも取って付けたような話です。

明治から昭和の地図を見ても飢坂の表記はなく、塚の峠(つかのたわ)を記されています。いつの間にか「ツカノタワ」が「カツエザカ」に変わっただけなのかも。




飢坂を越えたところに国鉄の八本松材修場所と書かれた石碑があった。


調べてみると太平洋戦争の戦後の地図に材修所が記されていました。でも昭和30年代にはすでに撤去されています。

これについては詳しく調べておられる方の記事を見つけましたが、ここでロングレール(200m以上の長いレール)の溶接場になっていて、広島、岡山だけでなく九州や四国へ供給していたそうです。

(今昔マップon the webより)



この記念碑は、江戸時代初期に農業用水を確保するために人力で掘られた溜め池(須久茂池)のことを語っています。

その須久茂池は、長らく住民たちを助け、また憩いの場になっていたが、昭和の終わりに再開発を行って移築されたので、溜め池と先人の労を忘れないように建てられたのが記念碑です。





街道沿いに石仏が設置されていて番号が振られています。これは第六十番の大日如来像。調べてみると大正末期に富豪が八本松駅の周辺に八十八体の石仏を設置されたそうです。



そして再び二宮金次郎。



2時半頃に今回の旅のゴールである八本松駅に到着しました。駅前の広い土地は、さきほどの飢坂にあるかつての八本松材修場所へ線路が伸びていた跡地であることを示しています。

伝説やら石碑やらを調べてみると、自分たちが住んでいる場所が過去からの積み重ねであることに感謝したい気持ちになります。

八本松駅から広島駅まで約30分山陽本線に乗り、そこからのぞみ号で京都に戻ります。次回は広島市を歩くことになります。


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