2021年3月9日火曜日

【丹波篠山】 筱見四十八滝から八ヶ尾山

 週末は京都アーティストフェアに行きました。京都文化博物館と京都新聞社地下旧印刷工場の2か所に分かれた展示でした。

多くの若いアーティスト達のクリエイティブな作品を見ることができました。何人かの作家さん達と直接話もできて彼らの考え方も理解できました。

全般的に、自己の内面と外面の関係性をテーマにした作品が多かったような気がしました。コロナの影響で自分自身と向き合う時間が多くなってしまっていることがあるのかもしれません。


さて、登山ですが、今回も丹波篠山の多紀連山シリーズの続きです。今回は、連山の東の端の八ヶ尾山に登ることにします。


ルートですが、このあたりに丹波篠山の名所の一つである筱見四十八滝があるので、滝めぐりも楽しむことにします。滝めぐりの終点から八ヶ尾山頂上に登ったあとは、つまご坂登山口に下山します。

つまご坂登山口から四十八滝までの直線ルートもあるのですが、他の方々のブログを見ると、荒れ道のようなので遠回りをしますが、車道脇を歩くのではなく、旧街道沿いだったので歩いて楽しかったです。

八ヶ尾山までの山道ですが、途中で岩場がありますがそんなに危ない感じはしませんでした。ただ、あまり整備されていない登山道なので、ほとんどテープがなく道迷いしやすいです。初心者向けではないです。

四十八滝入り口からつまご坂登山口まで、標高差350m、約3時間半の山行です。

筱見四十八滝入り口近くにあった多紀連山全体の案内図です。これを見ると、四十八滝から八ヶ尾山へのルートは点線で未整備になっていますが、その通りでした。多分多紀連山の一部でなかったら登らなかったでしょう。


筱見四十八滝の案内版です。以前、地元の人から聞きましたが、四十八滝というのは、「八つの滝が始終(しじゅう)ながれているので四十八滝と言う」とはっきり書いてあります。

昔の人は、なんでも数が多いという代わりに「四十八」と言ったそうですが、それでもかなり無理があります。赤目四十八滝は本当に多くの滝がありますが、赤目と同じと思ってここに来た人は「だまされた!」と思うことでしょう。

ちなみに、「筱」というのは「篠」の簡体字です。中国でなく日本の地名に簡体字が使われているのは初めて見ました。


八つの滝の案内版です。この図は滝めぐりの終点から左方向の小金ヶ岳に向かって周回するコースが描かれていますが、今回は、終点から右方向の八ヶ尾山方向に進みます。

ここから小金ヶ岳へも多紀連山シリーズの一部なのでここにはまた戻ってくることになるでしょう。


前回の登山で、iPhoneのバッテリーがなくなり、GPSが使えなくなるというハプニングに遭遇し、あらためて、地図とコンパスの重要性を感じたので、YouTubeでコンパスの使い方を学習し地図も印刷し防水ケースに入れて万全の状態で臨みます

iPhoneも八千円ほどかかりましたが、AppleStoreでバッテリー交換したのでこちらも万全です。


こちらが四十八滝キャンプ場の入り口です。駐車場とは書いていませんが停めます。


滝めぐりの案内が示す方向に登り始めます。


最初に出てくるのが手洗い滝。まずは、身を清めるということでしょうか。



弁天滝と肩ヶ滝。


クサリ場を登ります。


この滝の名前は、「シャレ滝」。語源について説明したものは見つかりませんが、「洒落る」の語源が「さらされて、余分なものが無くなった」ということなので、そんな滝、というところでしょうか。カタカナにすると、「シャ乱Q」みたいですが。


右に踏み道がありますが、手書きの案内に従って左に迂回します。


大滝が出てきます。


四十八滝の終点です。「一の滝」と「二の滝」は見落としたようです。


終点の右を見ると、登山ルートの案内と共にいきなりクサリ場です。


なかなかスリリングに見えますが、引っかかる場所が多く、登りにくくはありません。


それでもやっぱり下を見るとコワイ。


岩場は少しで、そこから急に開けた雑木林みたいになります。


ここが小金ヶ嶽への分岐路です。今回は八ヶ尾山に行くので、右に行くのですが案内版には書かれておらず、踏み跡をたよりに進みます。


ここから先はほとんどテープがありません。この道は登山道らしく見えるので進んでいくといきなり途切れてしまい、iPhoneで確認すると違った方向に歩いていたことが発覚。
今回は、できるだけ地図とコンパスで歩いたのですが、やはり難しいです。


樹々の向こうに見えるのが八ヶ尾山。


頂上手前にある岩場のヤセ尾根です。ここも、登りにくいところはないので特に危険は感じません。三嶽から小金ヶ嶽に行った時の方がコワかったです。


岩場から丹波篠山市内が見えます。



途中の尾根沿いにでてきた西ノ峰。名前が付くほどの場所でもないですが。


最後の岩場です。


ようやく頂上が見えました。


頂上は広くて平らです。天気が良くなってきてとても気持ちがよいです。
頂上には、「八ヶ尾山」とは書かれておらず、この地区の名前である「大芋山」と書かれています。


頂上は苔むしており、石灰岩が散らばっています。アップで撮ると鑑賞石のようです。


西側に三嶽と小金ヶ嶽が見えます。


東側は多紀連山ではありません。


頂上で定番のシーフードのカップヌードルを食べて下山です。下山ルートは岩場もなく平凡な道ですが、全くテープがないので、何度か踏み跡をたどり間違えそうになります。


頂上から30分ほどで、つまご坂登山口に出てきました。


西側の道を行くと四十八滝への直線コースです。途中にある池まではこのような整備された道ですが、池から先はかなり荒れているようです。


今回はつまご坂登山口から東の遠回りルートを進みます。


国道173号線の内側の道を歩くのですが、後で調べると昔の播磨街道の道だったようでいにしえの雰囲気があります。街道沿いにある大日堂は、大日如来を本尊としていて多紀連山の修験道の登山口であったそうです。


主要街道であったことをうかがわせる立派な常夜燈。昔のまま朽ちているところが、わびさびを感じさせます。


大日堂の前に仁王が如き佇む日本の大イチョウ。樹齢250~300年と書かれたある。


田畑の脇にある立派な日本家屋。


近づいてみると、三軒はしっかりした石垣の上に建設されています。かなり格のある家なのでしょう。


四十八滝に近づくと、モダンなロッジが何軒かあります。移住されたのか別荘なのか、カントリーライフをエンジョイしておられるように見えます。


崩れ落ちそうな石燈は、九頭女神社の前にある。「クズメジンジャ」と読みます。


こちらが九頭女神社の社殿。クズメオオカミを祀っているとのことだが、古事記には採用されなかったようです。


御嶽、小金ヶ嶽のコンビが近くに見えます。


四十八滝キャンプ場の手前にある筱見観音像。応仁の乱の際に戦死した、地元多紀郡の兵士たちを祀って建てられた像です。

この像から少し北にいくと、スタート地点に戻りますので、愛車スイフトで帰宅の路につきます。







2021年3月2日火曜日

【鯖街道】朽木探訪

 鯖街道は、小浜と京都を結んだ物流ネットワークです。小浜で取れた鯖を塩でしめて、京都まで運んだ頃にちょうど食べごろになっているということで重宝された街道です。

最もポピュラーなのが若狭街道で全て車道になっています。今回は若狭街道の中継地である朽木(くつき)を訪ねます

若狭街道より一歩、山地に踏み込んだ街道が鞍馬街道で、今年歩く予定ですが、このルートは山道もあります。上根来から小入谷を針畑峠というので、このルート自体を別名、針畑越えとも呼びます。

針畑越えルートは、小浜と京都の最短ルートで古代は、若狭で作っていた塩を奈良まで届けたという由緒ある道です。東大寺二月堂の「お水取り」の香水は、このルート沿いに流れる遠敷川(おにゅうがわ)に流されるのです。室町時代は、日本で初めて上陸されたゾウを小浜から京都に運んだのもこの道だと言われています。

鯖だけじゃないのです。

さらに奥に入ったルートを雲ヶ畑街道といいますが、ここは完全に尾根沿いの山道なので、どう機能していたのかわかりません。材木の運搬用か、修行道か。


京都から朽木へは、国道367号線を真っ直ぐ進めばたどり着けます。武奈ヶ岳や峰床山などの登山にフル活用するルートで、出町柳からバスが出ています。

朽木で今回訪れた場所のマップです。

朽木(くつき)の名前の由来ですが、東大寺建築の際、木材を安曇川(あどがわ)から琵琶湖経由で奈良まで運んだ記録があるそうで、古事記でイザナギ・イザナミの子供の一人、久久能智神(ククノチノカミ)が変化してクツキになったと言われています。

奈良には木材が豊富なように見えますが、取りつくしたのか、ものすごい遠回りでも水運のほうが楽だったのか、朽木の木が東大寺になったというのはオドロキです。


まず初めに興聖寺(こうしょうじ)を訪ねます。このお寺は、足利将軍義晴をかくまい、仮御所だけでなく庭園まで造ったことで有名です。

下が案内板にあった当時の仮御所(岩神館)で、東は川が自然の防壁になっていますが、西南側が弱点なので土塁を築いた跡が残っています。


興聖寺の入り口。山奥の寺といった自然と一体化したような静けさがあります。


こちらが池泉鑑賞式の庭園。遠くに見える山は蛇谷ヶ峰山(じゃたにがみね)。比良山の北の端です。

足利家も末期に近づくと細川家を背後にお家騒動でぐちゃくちゃになり、11代将軍の義澄は、いとこの10代将軍の義材に追われて近江に落ち延び、12代の義晴が晴れて京都で将軍になれたと思いきや、兄弟の義維と争って、この地、朽木に逃れています。

この庭園を見ても、心休まることもなく、義晴の心は京を追われた憎しみに満ちていたと思うとさみしい気がします。下々の農民たちからすると、エゴの争いでいい迷惑、といったところでしょうが。


こちらが本堂。


さて、次に朽木の中心部である市場町を訪ねます。この地は、古来から材木を集積して、安曇川(あどがわ)から筏で琵琶湖に流す大きな機能を持っており、鯖街道の中間地点としての宿場町としても栄えた場所であり、昔の立派な街並みが残っています。


用水路も幅広く、洗濯などのために川面に降りれるようになっている。


なんと百貨店もありました。昭和8年に開業されたというので、湖西線が整備された昭和40年代までは結構栄えていたように思えます。

今はコミュニティーカフェで、元気なおばあちゃん達がおもてなしをしてくれます。本当に元気で楽しそうにしているので、逆にこっちが元気をもらいました。


おばあちゃんが見せてくれた当時の町内地図です。映画館や旅館、呉服屋、時計屋さんとなんでもありです。


コミュニティーカフェで、栃餅(とちもち)ぜんざいを頂きました。写真の栃の実をおみやげにもらったのですが、栃ノ木はとても優良な材木だそうなので朽木でも重宝されたのでしょう。

栃の実は澱粉質が多くて栄養源になりますが、アク抜きにかなりの手間がかかるそうです。栃餅は、なにやらコーヒーのような香りがしましたが、栃の実の独特な香りなのかもしれません。


昭和13年の造られたヴォーリズによる建築。近江八幡ではヴォーリズの建築物をいくつか見ましたが、朽木でも活躍されていたのですね。アメリカ人の建築家で、メンソレータムを広げた人でもあります。


安曇川(あどがわ)です。結構川幅があります。何万本もの材木が筏で流されたと思うと感慨深いです。


山神神社(さんじんじんじゃ)。創祀(そうし)については不明だそうですが、材木による村の繁栄を山の神様に祈ったのでしょう。


朽木氏の陣屋跡。朽木氏は佐々木氏の分家で、室町時代は足利将軍をかくまい、戦国時代は織田信長が浅井長政の裏切りから京へ逃げかえるのに手助けするなど、将軍の親衛隊的役割を果たした名家です。関ケ原では徳川の側に付き、江戸時代においても準大名格の扱いだったそうです。

敷地内には、御殿、剣術道場、馬場まであったらしいので、城郭に近い位置づけだったのでしょう。


立派な藁ぶきの古民家がありますが、これは朽木の近隣から移築されたもので、陣屋とは関係ありません。入り口に「ムカデ注意」と張り紙がしてあったので、入るのをやめました。


隆盛を誇った朽木家の陣屋も明治維新後はすべて取り壊されて、残っているのは井戸くらいです。


朽木を散策したあとは、朽木温泉に立ち寄りました。塩分の多い京都市内の温泉と違って、朽木のお湯は、アルカリ成分が多くてヌルっとしています。少し寒かったですが露天風呂が気持ちよかったです。

併設のレストランでイワナの塩焼き定食をいただいて帰路につきました。