2026年4月17日金曜日

【東海道】掛川宿、日坂宿、金谷宿、大井川、島田宿、JR六合駅

 東海道の舞阪宿から島田宿までの2泊3日の旅の最終日です。(2日目はコチラ)。

下図が3日目のルートです。掛川宿を入れると4つも宿場を通ります。

やはり国道1号を歩くことが多かったのですが、日坂宿から坂を上がった小夜の中山と菊川の坂のルートは一面の茶畑の緑の輝きが素晴らしかった。


2泊した掛川ドーミーインを後にして7時半に出発。昨日は宿が終着点だったので電車に乗らずにすむので時間を稼げます。



岡崎宿の27曲りほどではありませんが、クネクネと曲がりながら進みます。

途中に「塩の道」の道標があります。塩の道は昨日の大池大橋からの秋葉街道と重なっていますが、秋葉山よりさらに北方の塩尻まで続きます。これは御前崎の早良の長い日照時間と広い砂浜を活かした塩田で採れた塩を内陸に向けて送り届けるルートになっています。

加えて塩の道は塩尻からさらに糸魚川沿いに日本海まで続いていますが、これは逆に日本海で採れた塩を塩尻に届けるルートです。塩尻はその名の通り日本海と太平洋の塩のターミナルでした。

塩の道は、フォッサマグナの糸静線と重なっていて、フォッサマグナが造ってくれた超重要なルートだと言えましょう。



葛川の一里塚の常夜燈から見た東海道。



甲州と接しているので諏訪神社を時々見かけるようになります。



事任(ことのまま)八幡宮。遠江国のなかでも最も格式の高い神社ということで立ち寄ってみる。



この神社で一番目を引いたのが御神木のクスノキ。樹齢300年以上だそう。



後ろに周って御神木を触らせてくれる場所があります。何やら霊気を感じます。幹は割れることもなくまだまだ生命力を発揮しています。



拝殿からみたクスノキ。掛川市の天然記念物。



1時間半ほど歩いたので小休止。

絵馬の一つを見ると「櫻坂46の5期生オーディションに合格しますように!」と書いてある。

事任八幡宮は「ことのまま」、つまり願い事がなんでも叶う神社だそうで、参拝人が多いのもうなずけます



逆川(さかさがわ)を超えると日坂宿の宿場町に入ります。これは高札場跡。



川坂屋という日坂宿の一番西の旅籠。大坂冬の陣で負傷した武士が始めた旅籠屋だと書いてある。本陣が復元されていることは多いけれど、旅籠がここまで復元されているのは珍しいと思う。



扇屋本陣跡は門だけ復元されていて公園になっている。おじいちゃんたちがゲートボールを楽しんでいました。

日坂宿は本陣1軒、旅籠33軒の小ぶりな宿場町



日坂宿からすぐ山中に入って行きます。

ここからは小夜(さよ)の中山と言われる最高252m標高の山道で、東海道の3大難所の一つです。あとの2つは鈴鹿峠と箱根峠です

現在は道が舗装されていて難所といった感はありませんが、木々のなか急勾配を登っていると、中山道っぽいなと感じます。



東海道名所図会。「佐夜(さよの)中山」と書いてある。



陽の当たる斜面を活かして、眩しいほどの新緑の茶畑が広がります。



広重の五十三次の案内。広重の絵はいつも大袈裟に描いてあります。




北西方面を見ていると広大な茶畑の向こうに何やら字のようなものが見える...



「茶」の字でした!ここから5kmほど北東にある栗ヶ岳の東面に描かれて(?)います。栗ヶ岳は標高1293mと登り甲斐のありそうな山で、頂上からは富士山がよく見えるようです。

茶文字の麓の茶畑は枯草の縁取りがされていますが、これは静岡独自の茶草場農法と言われる方式で国際連合食糧農業機関に正式に認定されたそうです。

ススキやササを刈り取って、枯草を茶畑の畝にすき込むいわゆる「緑肥」というやり方で、化学肥料などを使わない自然のリサイクルです。筆者の畑も秋から春先までエンバクを育てて、夏野菜の緑肥にしています。手間はかかりますが、単なる肥料だけでなく微生物も増えるので土壌改良に良い。



「掛川観光情報」サイトを見ると茶文字の説明が書いてありました。何十本ものヒノキから構成されています。なかなかすごい



道中には芭蕉などの歌碑が数多くありましたが、これは西行法師の歌。

年たけて また越ゆべしと思いきや  命なりけり さやの中山

奥州の藤原秀衡に砂金の調達を依頼するために、この山道を通った西行法師。二度目の小夜の中山行だったということで、もう齢69歳。

「こんな歳になって、また小夜の中山を越えるとは思わなかったなぁ 命あってのことだ」

という内容です。

西行法師は平清盛の時代で、東大寺は焼き討ちにあったので、その復興に大量の金が必要だったのでしょう。



何気にあったこの看板は相当古そうです。「子育飴」は京都の六波羅で見たことがありました。調べてみると女の幽霊が子供を飴で育てたという伝説は日本各地にあるそうです。

あまり美味しそうなイメージはありませんが。



今年初めて見るシャガ。



久延(きゅうえん)寺境内にある「夜泣き石」。このお寺にいた妊婦が強盗に遭い殺された。妊婦の霊魂が石に乗り移って夜ごと泣いたという凄惨な話。

しかし死んだ母の胎から生まれた子供は久延寺の和尚に飴で育てられ、若者になってから強盗に復讐したという

さっきの子育飴の看板につながりました。



夜泣き石の久延寺までが小夜の中山で、そこからいったん下って、再び登りますが、ここを菊川坂と言います。この坂は旧街道の石畳が地元の人々の寄進によって復元されています。

このあたり掛川市から島田市へ変わります。



難所を越えたところにあった山小屋風喫茶店「こもれび」で休憩。思ったより広い店内のテラス席に案内してくれました。挽きたてのコーヒーも美味しかったけど、オーディオマニアの筆者には店内のJBLスピーカー(4312だったかな?)のジャズの音色が良かった。



珈琲の香りとジャズの音色で俄然元気を取り戻し、諏訪原城跡へと向かいます。まだお昼前。

諏訪原城は武田勝頼が遠江侵攻の拠点とするために築城したものです。新田次郎の小説「武田信玄」によれば信玄は愛する側室の湖衣姫が産んだ勝頼が、意地悪な正室の三条氏に殺されそうになったので、湖衣姫と一緒に湖衣姫の故郷の諏訪に移して育てました。

なので勝頼にとっての故郷は諏訪なのです。

城の片鱗は全く残っていないので想像するしかありません。これはパンフレットにあった推定復元図。



本曲輪から見た大井川方面の景色。確かに北条を監視するには絶好の地形ですな。


別の写真を拡大すると富士山がしっかり写ってます。肉眼で見た時には気がつかなかった。



金谷宿に向けての坂道も石畳が復元されています。



平成3年にコンクリート舗装だった歩道を昔の石畳に復元したそうです。



金谷宿本陣跡。金谷宿は後ろに東海道三大難所の一つ、小夜の中山、そしてその先には大河の大井川があったので利用客が多く、旅籠51軒、本陣3軒と規模の大きい宿場町でした。



大井川手前の和食屋さんでお昼にしましたが、ちらし寿司はちょっと臭いがして美味しくいただけませんでした。



大井川は駿河国と遠江国の国境の川だったので、簡単に渡れないように幕府は舟による渡河を禁じて、人足のみとしました。わざわざ極めて不便にしたわけです。そのため大雨が続いた日などは何日も待たされました

川越し場跡の説明にありますが、1番宿から9番宿まで約50人ずつ川越え人足が詰めていて、旅人が川合所で購入した札をもらってから、旅人を担いで川を渡りました。人足は渡河完了後、札場で札を現金に換金しました。

つまり人足が直接現金を受け取らないシステムになっているわけです。



広重の金谷宿は大井川の川越を描いています。右上の山の中腹に金谷宿があります。



右下の部分を拡大すると、駕籠一つを渡すのに、20人くらいの人足が筏のようなものを担いでいます。ものすごい手間がかかっていますね~。

川越えの料金は毎朝役人が川の深さと幅を測量して、それに応じて変わったそうです。



これも広重ですが、人物を中心に描いています。立派な着物を着てのんびり楽しんでいますが、実際はどうだったのか?



旧東海道に近い島田岡部線の大井川橋を渡ります。全長1026mもある。木曽三川の橋よりも若干長いような気がする。



橋から大井川を見ると確かに歩いて渡れそうなほど水深は浅い。

江戸時代の普段の水位は二尺五寸(約76cm)で、四尺五寸(約136cm)が川越しができるMAXで料金は2倍になり、それを超えると川留めといって渡ることができなくなりました。



大井川を渡ると、遠江国から駿河国へ変わります

川会所が復元されています。



これは川越し人足が札を換金してもらう札場。人形が無表情でコワイ。



川越し人足が詰めていた番所の一つ。



このあたりが島田宿のはずですが、島田駅前商店街になっていて面影はありません。

島田宿は旅籠48軒とやや大きめの宿場町。本陣が3軒もあるのは川越えで足留めされることが多かったからでしょう

「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川」と言われただけあって、水位が136cmを超えるといくらお金を積んでも越えられない難所だったわけです。

島田髷、高島田といった華やかな髪型がありますが、島田宿の女郎の髪型が起源になっているとか。



島田宿を通り過ぎてJR六合駅から浜松までローカル線に乗り、新幹線に乗り換えて帰路へつきました。

次回は静岡市まで行くことになるでしょう。東海道歩きも佳境に入ってきました。



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