2024年9月3日火曜日

【西国街道】四日市宿(八本松駅)~広島宿

 西国街道歩きシリーズです。京都から歩き始めて広島県に入るところまで通算18日。今回はいよいよ広島宿(広島駅)に入ります

本当は宮島口まで歩いて三日目は宮島(厳島)にある名山の弥山(みせん)に登る予定だったのですが、9月だというのに34度の猛暑のなか長時間歩いて熱中症になり、2日目の途中でリタイヤしてしまいました

8月の猛暑のなかで登山やテニス、畑仕事をしていたので暑さは大丈夫だろうと思っていたのですが、やはり長時間、木陰もないところを歩いたのは相当堪えたようで、2日目の夜は宮島口のホテルで寒くてガタガタ震えながら布団をかぶって寝ていました。

ということで歩行記録は下記の結果となりました。今回のルートの街道は特に大きな見どころもなく、2号線に並走する道で民家が立ち並ぶ普通の道路といった風情でした

  • 1日目 27km、7時間、3万7千歩
  • 2日目 10km、3時間(原爆資料館見学含む)、1万3千歩記事はコチラ



下図が一日目のルートを記事で紹介した場所のマップです。特筆するような見どころは特にありません。



9月3日新幹線広島駅で乗り換えて前回の終点の八本松駅で下車。この駅はかつて材修所といってロングレールの集配所になっていたのでだだっ広い場所の陸橋の上に入り口があります。10時前から歩き始めます。



前回は桜の季節だったのですが、今日は9月だというのに36度にまでなる予報。それでもさすがに10時の時点ではまだ30度は切っています。

2号線は大きなトラックは走り抜けるので歩いていてこわいのですが、本来の西国街道は南の山中にあり、西国街道の難所の一つである大山峠を通るルートになっています。

今回なぜ本来のルートを避けたかというと、前回に同じく難所の松小山峠を越えた場所が荒れ地になっていてとんでもない目に遭ったからです。事前に調べると大山峠も同様な荒れ地のようだったので同じ目には遭いたくないので避けました。今の時期、荒れ地は特に雑草や虫が酷いでしょう。



万葉集の石碑。勢能山(せのやま)の葉がしおれているのを見て自分のしおれた心と同じだな、と感じた歌です。この勢能山は和歌山県の山とされていて何故ここに石碑があるのだろうかと調べてみると。この地が上瀬野という名前でした。

おそらく「せのやま」は瀬野山のことだと信じた人が建てたのでしょう。



籠立場というのは参勤交代などの際に籠を置いて一休みした場所のようです。このあたりから、「西国街道」のシールと説明版がちらほら設置されていて、地元民の郷土愛を感じます。



瀬野川沿いにあった吉田松陰の説明版。中央にあるのは松陰が江戸に罪囚護送された時に、この瀬野川を見て書いた日記です。川傍の老松の容色が変わらないように例え罪人とされても自分の意志は変わらないと書いています。

ちょうど先日「ペリー提督日本遠征記」を読んだのですが、ペリーの船に深夜、若者二人が小舟で近づき是が非でもアメリカへ連れて行ってくれと頼んだことが書いてありました。吉田松陰(23歳)と金子重之助(23歳)だったのですが、ペリーは二人の熱心な様子を見て、こんなに日本の若者が外国に関心があるのなら、日米和親条約は日本のためになることを確信したと書いてありました。



この立派な石碑は地元の人々のために当時の国鉄とかけあった人の功績をたたえたもの。



この地、大山は鉄が採れたので芸州を代表する刀鍛冶(かたなかじ)がいたそうです。発掘したら多量の金糞が出てきたそうです。



2号線の右(南)方面に熊野跡路と標識があります。調べてみると以前、熊野跡(くまのあと)村があったようです。瀬野川が熊野川へ名前が変わります。



土方大作(だいさく)の碑。新選組の副長だった土方歳三の兄と同じ名前ですが、どうやら地元の先生のようです。



海田市広島方面が西国街道で、左は熊野跡村となっています。



祈念(きねん)碑。ここの夫婦の娘さんが昭和30年におきた森永ヒ素事件の被害により自活することが出来ずに暮らしているけれど地域のみなさんに助けられながら天寿を全うできるようにという願いが書かれています。

全国で1万2千人が罹患し34名が死亡するという未曽有の大事件は森永の工場で誤って混入したヒ素が原因だったようです。



JR山陽本線の電車ですがカープトレインと書いてあります。車両ごとに選手の写真と名前が。今年3月~11月の期間限定列車。



この先、南方向に瀬戸内海方面へ抜ける縦走登山ルートがあります。鉾取山は710m。広島県も名山が多そうで楽しそうですね。



JR瀬野駅にあった史跡案内図。旧山陽道(西国街道)が赤線で示されています。



12時半でちょうどお好み焼き屋さんに遭遇。店主さんは明るいおっちゃん。地元客ではやっているようです。



このときすでに暑さで参っていたので食欲も少なく、麺なしの一番軽いお好み焼きを注文。キャベツよりもモヤシが多く入っていてとてもやわらかい。ちょっと天かすがまぶしすぎだけど十分に美味しかった。



祇園神社に続く参道。京都の八坂神社に関係しているのでしょうか。



見事に実った稲の穂。今年は台風10号のパニック買いもあって全国的に米不足になりました。



雑草にまじって咲いているのはナツズイセン(夏水仙)という花らしい。分類的には秋に咲く水仙ではなく彼岸花に属するそうです。




街道沿いの食べ物屋さんは大概がお好み焼き屋さん。広島に来たんだなぁと実感する。京都から歩き始めて通算19日目ですが、歩いているうちに方言や食文化が変わるというのは普通はない経験。



瀬野川沿いを歩くと京都鴨川沿いの川端通りを彷彿させます。



春日神社への参道。いつもなら神社に立ち寄るのだけれ今日はしんどくて無理。この神社は奈良県春日大社から大明神を勧請した由来があるようです。

ちょうど先日「春日権現記絵」を読みましたが、僧の出世話など数多くの春日大明神のご利益が描かれていました。春日大明神が閻魔大王に頼んで地獄行きを免れたとか、かなりの力を有した神様です。



町の掲示板に貼ってある安芸国文化祭り。西国街道沿いの江戸文化に親しみましょうというイベント。2ヶ月後の予定。お琴の演奏会もいいけれど日本酒の飲み比べが気になる。

こういう地元民の郷土愛が感じられる場所はいいですね。



海田市宿(駅)手前の説明版。この辺りは街道沿いに松並木があったそうです。昭和に松食い虫に襲われて最期の一本が平成に枯れてしまったと書かれています。



熊野神社。しんどいので神社仏閣をずっと素通りしてきましたが、今回は行ってみることにします。



神社境内に原爆死没者の慰霊塔があります。真ん中に立っているのは砲身のようです。ヒロシマに来たんだなと感じました。



ラーメン屋とかうどん屋がなくて、お好み焼き屋さんばかり。さすが広島。



海田市宿があった場所。これは千葉家住宅と書かれていて宿場の管理をされていた方の家のようです。

広島(安芸国)を歩いていると四日市、七日市、廿日市など「~市」と名の付いた地名が多いのに気がつきます。毎月、市が立つ日が地名になっているのですが、「海田市」というのは調べてみると、以前の地区の名称「開田」と市場「二日市」が合わさってできた名前のようです。埋め立てられる前は瀬戸内海も近かったので「海」の字がアテられたみたいです。



こちらは三宅住宅。金融業をなりわいにしていたと書かれている。



JRの線路が高架になっています。いよいよ広島市の中心に近づいてきた感覚があります。



府中大川の支流の脇にポツンと置かれたような恵比須神社。元はどこにあったのでしょう。



府中大川を渡る。府中大川はもう少し南で猿猴川(えんこうがわ)と合流して広島港へ出ます。「猿猴」とは河童のことらしく、鄙びていい名前です。今ではビッシリと建物が立ち並んで河童の出る場所はありません。



広島市街に入るとコンクリートの熱気にやられて、ほうほうの体で今日のホテルの「相鉄フレッサイン広島駅前」に到着。水シャワーを浴びて、近くの「かない屋」で焼き鳥を食べましたが食欲が湧いてこず、ちょっとヤバイなぁと思いながら眠りにつきました。

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