2024年1月16日火曜日

大山祇神社の甲冑、【西国街道】横尾駅、今津宿(松永駅)

 西国街道の旅(荏原駅(矢掛宿)~三原宿)の二日目です。

一日目はコチラ。

小林秀雄の「考えるヒント」に「古甲冑を見たいならば行かねばならない場所」と書いてある大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)がしまなみ海道の大三島(おおみしま)にあるので、西国街道歩きを再開する前にレンタカーで行ってみることにします。

朝8時のトヨタレンタカー福山店は大勢のサラリーマンが車を待っていました。ヤリスクロスで1時間20分ほどしまなみ海道を走り、向島(むかいしま)、因島(いんのしま)、生口島(いくちしま)と通って大三島(おおみしま)で海道を下ります。



オオヤマツミ(大山祇)はイザナギ、イザナミの神産みで生まれた最も古い神の一人で山の神として知られています。全国に897社ある大山祇神社の総本山がここだそうで、一見して社格の高い神社であることが感じ取れます。



この総門は鎌倉時代に焼失したものを2010年に総ヒノキで再建したもの。そんなに新しいものには全然見えない。



この神社は楠(クスノキ)群で有名なのですが、そのなかでも参道中央にある老大木が圧巻です。なんと樹齢2600年と書いてあります。クスノキは屋久杉のスギと並んで最も長寿の木だそうです。



そうっと樹皮を撫でてみましたが、何やらうめき声が聞こえてきそうで。



この拝殿は江戸時代のもの。拝殿右を抜けていくと目的の宝物館があります。



ここの国宝館には国宝、重要文化財に指定された日本の武具の4割が収蔵されているそうで、展示されている品々のほとんどが重要文化財で、国宝がチラホラといったところです。小林秀雄さんが行かねばならないと言うだけのことはあります。

ここに来る前に日本甲冑武具研究保存会の本「日本の甲冑」を読んで勉強してきました。

甲冑だけでなく刀の名品も多くあります。なかでも驚いたのが武蔵坊弁慶の薙刀です。確か吉川英治の新平家物語だと弁慶は熊野出身ではなかったかと記憶していますが、実在の人物かどうかよくわからないイメージがあります。

他にも巴御前の薙刀など「ホンマかいな」と思わせる品もありますが、有無を言わせず本物だと感じさせる雰囲気がここにはあります。

(拝観のしおりより)



甲冑は国宝館という別館に保存されています。南北朝時代の甲冑が多かったです。甲冑の最終形態は戦国時代の当世具足といわれる形態で江戸時代になってからは平和なので誰も甲冑は付けませんでした

(大山祇神社サイトより)


これは国宝で「八艘飛びの鎧」という名が付いています。源平合戦が終わってから奉納されたと書いてありますが、こんな重いものを着て義経が舟から舟へポンポン飛んだわけはないです。

展示されている甲冑の多くは南北朝時代の胴丸という形態で、文字通り胴体に巻き付けて右横で縛り付ける方式です。一方で写真のような平安時代の甲冑は大鎧といって平面的でゴツゴツしています

大鎧のほうがいかにも鎧っぽくてカッコイイです。


(拝観のしおりより)


これも国宝で同じく壇ノ浦の戦いで三島水軍の武将がつかった大鎧。兜の頭上に鋲が突き出ているのを「星」といいますが、時代が下ると技術が進んで小さくなっていきます。

鎧を構成しているのは札(さね)という一枚一枚のうろこ状のカードが革ひもで結ばれています。札の材質は牛革や鉄だったそうですが、ここに展示されている甲冑は見たところ全て牛革のように見えました。特にこのあたりは伊予札(いよざね)という幅広の札が特徴です。

牛革って革ジャンと同じ?と思い、はたして日本刀や弓矢から身を守れるのかと感じましたが札と札が重なっているので革ジャンよりは強度は高かったのでしょう。

鉄だと重すぎて動けないのでしょうが、革でも大鎧は30kg以上あるので主に馬に乗って弓を引くのが戦闘のスタイルだったようです。


(拝観チケットより)


大山祇神社を出て大三島の多々羅展望台に行き景色をながめます。このあたりの島々は広島(安芸国)と愛媛県(伊予国)の間にあるので芸予諸島と言われています。



展望台からの景色は良いのですが、しまなみ海道を走る車中からの景色のほうがよかったような気がします。運転中で撮影できないのが残念でした。


さて、しまなみ海道ドライブを終えてレンタカーを返却し、お昼ご飯を食べてから福山駅からバスにのって横尾のバス停に降りたのが午後1時。ここから西国街道歩きを再開させます。

これが本日のルートマップです。


高尾川を渡ると、悠々と泳ぐヌートリアを発見。二匹が縦列で泳いでいて高い声で鳴いていました。最近はちょくちょく見かけるようになってきました。


「地神」と書かれた石碑はあまり見た記憶がないのですが、地神塔と呼ばれ、岡山県と香川県に多いらしいです。左の地蔵菩薩には牛が描かれているので五穀豊穣、まさに大地の神との習合です。



芦田川の大渡橋。この手前にホロコースト記念館がありました。初代館長で京都市出身の牧師である大塚信はアンネ・フランクの父親と会って心を打たれ、この地に記念館を設立しました。


ここにもまた巨大な笠に小さな火袋の石燈籠。金比羅大権現と書いてあります。高屋~神辺間で見た同様の石燈には象山、つまり象頭山と書かれていたので、香川の金刀比羅宮(ことひらぐう)の威光であることに間違いないでしょう。
とすれば、さきほどの地神塔も金刀比羅宮の祭神が大物主神(オオモノヌシノカミ)であることとつながってくる。



アオサギかと思ったけれどこれは真っ白なシラサギ。アオサギは頭に黒い線が入っている。写真に映っていないが首を縮めたサギはフロックコートを着た気難しい男に見えて面白い。



ここにも地神塔が。



そして再び金比羅大権現の常夜燈。



これは常夜燈跡で案内版に金比羅大権現の常夜燈の由来が書いてあり、ようやく由来がわかった。福山藩の水野家4代に子供が授からなかったので福山中で金比羅信仰が盛んになったと書いてあります。

この崩れた石塔は日清戦争が始まる3年前(明治24年、1891年)の福山ー三原間の鉄道建設で出土した自然石で建てられたという。

このあたりの旧山陽道も秀吉の朝鮮出兵で整備されたというから、このあたりの交通網と中国、朝鮮との関係は強いものがあります。



旅の二日目は大山祇神社の甲冑は大変面白かったですが、西国街道は石燈籠くらいしかみるものもなくただ歩いただけでした。

今津宿手前の松永駅で山陽線に乗って福山駅に戻り再びリッチモンドホテルに宿泊します。
駅で福山名物くわいのチップスを買いました。

神辺宿の南の沼地にくわいが自生していたのを福山城の堀で栽培したのが発端だそうです。



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