(尾道宿から三原宿まで瀬戸内を眺めながら歩く)
京都から歩き始めた西国街道歩きも通算13日目で広島県の手前までやってきました。
今回は2泊3日で前回の終着点である井原鉄道の荏原駅からスタートして三原宿まで歩きました。
今回のルートの全体の感想ですが、国道2号線の車道の脇を歩くことは少なく、ほぼ旧街道の道を歩けたのは良かったです。
ただ地域が積極的に宿場町を保存しようとしていないようで、順当に住宅化されたので前回の矢掛宿のような江戸時代にタイムスリップみたいな感動はほぼありませんでした。
印象に残ったのは尾道宿から三原宿までの行程で左手に瀬戸内の島々を眺めながら歩けたのがとても良かったです。
3日間をまとめるとこんな感じです。
2日目の午前中はしまなみ海道ドライブを兼て大三島(おおみしま)にある大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)で甲冑コレクションを見学に行ったので午後から街道歩きでした。
- 1日目:荏原駅、七日市宿、神辺宿、横尾駅 約20km、3万歩
- 2日目:横尾駅、今津宿(松永駅) 約16km、2万6千歩
- 3日目:今津宿(松永駅)、尾道宿、三原宿 約21km、3万4千歩
宿は2泊とも福山駅そばのホテルに泊まりましたが、西国街道は福山駅から北へ離れているので少し不便ではあります。
こちらが一日目の記事で紹介しているマップです。
前回の終点であった荏原(えばら)駅まで新幹線、山陽本線と乗り継いで清音(きよね)駅で井原鉄道に乗ってようやく到着。
荏原駅の正式名称は「早雲の里 荏原駅」となっていますが、これは北条氏の初代である北条早雲の出目が荏原領であったらしいということが由来です。
早雲は室町時代にはるか遠くの小田原城を奪取して相模一帯を支配するまでに出世した武将ですが、正直、いままで知りませんでした。もっとも北条氏を名乗ったのは早雲の死後だったそうです。
相田嘉三郎旧邸と書いてある。調べてみると明治から戦前までの人で東日本で学んだ養蚕業をこの地に広めた人でした。
井原大橋を渡ったところにある七日市宿の本陣跡。
よく見ると南無大師遍照金剛と書いてあるが、これは金剛大師、つまり弘法大師に帰依しますという意味。上段に祀られているのも弘法大師のように見える。
今回の旅では瓦葺きの屋根のついた小規模なお堂(大師堂)を度々見かけましたが、これらは四国八十八所と関係があるような気がします。
道が大きくカーブしていて大曲跡と書いてある。単調な旅に変化をつけるため、と書いてありますがそんな理由はどうも疑わしい。
高屋川からはまだ随分離れているのに備中大橋跡の碑がある。名前からして大規模な橋のようですが、明治時代の地図を見ても「大橋」と書いてあるだけで実際の川も橋もない。先の大曲と合わせてこのあたり随分大きく地形が変わったように思えます。
高屋駅があるあたりは高屋宿という宿場町であったようです。正式な駅名が「子守唄の里 高屋駅」になっていて山田耕筰編曲の唄「ねんねこしゃしゃりませ」というのはお眠りなさいませの方言。
ここまでが岡山県(井原市)で、ここから先がいよいよ広島県の福山市に入ります。
民家の軒先に咲いている蠟梅。
上御陵八幡神社。子守唄の歌詞に三十日の宮参りに行くとあるのはこの神社らしい。この歌詞、どうやら子守をする乳母の唄のようですが、乳母の本音が出ていて少し恐ろしくもある。寝ている子はかわいいけれど、起きて泣くと憎たらしい(つらにくい)、まな板にのせて青菜を切るようにじょきじょき、と親には聞かせられないような歌詞です。
右の石燈籠がとても大きくて目立ちますが、今回の旅では屋根付きのお堂と同じく、この簡素で大ぶりな燈籠が印象的でした。
注連柱(しめばしら)には和やかな風が吹き、めでたい気に溢れるといったようなことが書かれていて運気がつきそうな神社です。
境内に登ったところからの景色。
一里塚跡に菅茶山先生の漢詩が彫ってあります。菅茶山(かんちゃざん)は江戸時代このあたり神辺の出身の漢学者だったそうです。
寛政9年(江戸時代中後期)外ヶ島弥五郎と書いてあるので調べてみると、地元で人気の怪力の力士でしたが若くして亡くなってしまったそうな。その横には大日如来、陸軍一等兵の石碑、そして馬頭観音碑。
ここにも大きな石燈籠がある。傘の部分が大きくて火を灯す部分(火袋)が小さいので不安定な感があります。象山夜燈と書いてありますが象頭山のことでしょうか。このあたり御野村という名前で御陵という地名もあり古墳も見つかっているようなので、天皇家に関係しているのかも知れません。
高屋川を渡ります。地蔵菩薩の石像。
川沿いのデニムの会社。前回の旅で矢掛宿手前の備中呉妹(くれせ)の由来が朝鮮から絹織物が伝えられたとありましたが、今回の旅でも織物や染料の会社が幾つかありました。
広島の呉の港など瀬戸内海に上陸した呉の時代(西暦200年代)の秦氏など朝鮮人たちが絹織物を伝えたのが発端なのではないかと思います。
一方で綿織物が日本に伝わったのは中世以降になります。カイコから絹糸を採るより、綿花から糸をつむぐ方がよっぽど簡単に思えますが、綿花そのものが知られてなかったからでしょう。
大昔からの織物技術の知恵が蓄積されて児島に代表される高級ジーンズを生み出したわけですね。
ここは先ほど漢詩の石碑で出てきた管茶山が開いていた学校で簾宿(れんじゅく)があった場所。
このあたりで中学生が体育の授業でマラソンをしていました。走りながら挨拶をしてくれました。管茶山が残した教育への想いは今にも生きているかもしれません。
案内版にあった絵。江戸時代なので朱子学などを教えていたのでしょう。
酒屋さんになっている古そうな家屋は小早川文吾旧宅と石碑があります。文吾は上の管茶山の弟子で簾塾で学んだそうです。
神辺(かんなべ)宿の本陣です。
なまこ壁の変則で花柄になっています。こちらの歯医者さんは福山市で今でも開業されているようです。
このあと横尾のバス停から20分ほど乗車して福山駅に行きました。
福山駅は西国街道のルートよりはずいぶん南にあるのですが、街道沿いに良い旅館がなく、食事の利便性等を考えて福山駅近くのホテル(リッチモンドホテル)にしました。
まだ少し時間と体力があるので、福山駅に隣接している福山城を訪ねます。これは案内版の見取り図ですが、思っていたよりも規模がおおきくて天守が立派なのに驚きました。
江戸幕府になってから建てられた城で福山市のサイトでは最高到達点と言われています。
城が建つまでの福山は田畑があっただけで、町の中心部はさきほど訪れた神辺(かんなべ)宿周辺であったそうです。
なぜわざわざ街道から離れた場所に建てたのか疑問に思いましたが、どうやら理由は福山城は瀬戸内海と運河で通じていたからというのが理由のようです。
豊臣勢を大坂の陣で滅ぼしたあと、江戸幕府から見た時の脅威は四国や九州の残存勢力なので、いつでも水軍を出せるようにしたかったのではないかと思いました。
明治の地図を見ると、お城から福山湾へつながる運河がまだはっきりと残っています。たいして現在の地図を見ると道路になっています。
(今昔マップon the webより)
背の高い立派な石垣です。これら櫓の建物は京都の伏見城を廃城にしたときに建築物資を移転して作られたそうです。
明治初期の廃城令で取り壊しの予定だったものを地元福山からの願いでなんとか潰されずにすんだそうですが、こんな立派なお城を潰そうとは明治政府はよっぽど古い日本文化をゴミ扱いしていたのしょうか。
お城の西側にゴシック建築の立派な教会というかカテドラルがありましたが、調べてみると最近建てられた結婚式場だそうです。さぞかしオシャレな結婚式ができることでしょう。
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