2021年4月22日木曜日

【中山道】坂本、軽井沢、沓掛

二日目の今日は旅のメインイベントである碓氷峠に登ります。

<初日のブログはコチラ

宿で美味しい朝ごはんを食べて、お昼のお弁当も作ってもらって7時半に出立します。

丁須の頭(1057m)の急峻な山肌を見ながら歩き始めます。妙義山は難しい山なので、このあたりに住んでいる人たちのほとんどは登ったことがないのでしょう。毎日見ているのに危なくて登れないというのも残念な気がします。


すぐに碓氷の関所跡に出てきます。「入り鉄砲に出女」で有名な関所です。鉄砲が江戸に密輸されないようにすることと、人質になっている地方の大名の妻子が脱出しないようにという意味です。


案内板にあった当時の見取り図。残っているのは江戸側の東門で、当然ですが当時は道路を遮断するように位置していました。道幅四間四尺と書いてあるので、約8.5メートル。


関所跡から国道18号が北側の旧中山道ルートと、碓氷新道ルートに分岐します。
信越自動車道の下を通るところにある水神宮。田畑を潤す水の神様です。


坂本宿を通過。


一本道の中山道の先に見えるのが刎石山(はねいしやま)。後で出てきますが、柱状節理が多く見られ、まるで刀で石を切って刎ねたように見えることから山の名前が付いています。

碓氷峠越えルートは、刎石山を右に巻きながら登って行きます。


途中にあった八幡宮で無事に峠を越えられるようにお賽銭をあげる。


狛犬の顔が眠そうでなんともユーモラス。


国道から左にそれた非舗装の道が中山道ルートです。


獣害フェンスですが、電気柵になっているので、絶縁体の部分を握ってフックを外さなければ感電します

こんなパターンは今まで初めてでヒヤヒヤします。💧


行路は予想していた通りの山道で、無数の人々が踏みした切り通しの道で、整備されています。比叡山の雲母坂登山に似ているような。


山道の左上の見通しのよいところには以前、同心による番所があったそうです。関所以外にも目を光らせていたのですね。


これが刎石山の由来となった柱状節理が特に目立つ場所です。剥がれ落ちた平らな石が積み上げられたのが右です。

私も一つ積み上げておきましたが、ジェンガのゲームみたいに崩れないかちょっと怖かった。

妙義山を含めた碓氷峠は、古代におきた大規模な噴火による溶岩からできた火成岩(安山岩・玄武岩)が主要な地質になっています。


このあたりに上り地蔵下り地蔵という二体の地蔵があったそうですが、見当たりません。よく見ると、台座のような石があったので、たぶんこの上にあったような気がします。


ここが覗(のぞき)と呼ばれる場所で、坂本宿から刎石山への一本道の全貌が見えます。昔の旅人達は灯がともった宿を見て、もう一息と、励ましあったことでしょう。


ここは風穴と言われる場所で、溶岩から発生する水蒸気が噴出するそうです。こわごわと耳を近づけてみましたが、「暗黒の無音」とも言うべき気を感じました。


弘法の井戸という名の湧き水。弘法大師がここを掘れと言ったという井戸は、いったい全国にいくつあることやら。でも澄んでいて飲めそうな気がします。


このあたりは、四軒茶屋と言われる平地。「わらび餅でも食べて一息いれなされ」なんて声を想像していました。


坂の連続が終わったあたりにしっかりした休憩所がありました。少し休みます。


掘り切り」と言われる場所。小田原攻めのために攻めてくる豊臣秀吉勢に対して防戦のためにわざと脇を崩して道を細くしたそうです。

それでも豊臣勢の勢いにやられてしまいましたが。


明治天皇が徒歩で碓氷峠を歩いた(御巡幸)前に、見回りの警察の屯所(とんしょ)がつくられた場所。


かなり登ってきました。遠くに妙義山の尖塔が見えます。


廃屋が出てきました。横には「千曲自動車株式会社」と書かれたバスが放置されています。
どうやら東京オリンピック以前の1960年代前半の観光事業の一環として開発されかけたところで終わってしまったのでしょう。


建てられてあまり使われないまま廃屋になってしまったもようです。廃墟好きなので、中をのぞいてみましたが崩れ落ちそうだったのですぐに離れました。


😱一つ家跡😱ここには老婆がいて旅人を苦しめた」と書いてあります。山姥(やまんば)伝説は日本中にあるのでしょうが、場所を特定しているのは珍しい。


この分岐の右部分は、皇女和宮の嫁入りの際に、少しでも歩きやすい道を作ったルート。今回は、オリジナル中山道を進みます。武田勢と上杉勢が戦闘した場所でもある。


水場が出てきました。熊野神社が近づいてきたので、旅人はこの水で顔を洗って身だしなみを整えたことから、「化粧水」と呼ばれています。


峠道が終わり、車道にでてきました。


熊野神社で、無事に峠を越えられたことに感謝。


神社からの眺めです。標高1200メートルの高さを感じさせる景色です。


軽井沢に来たと感じさせる別荘群が出てきました。中山道に近いあたりが、明治時代に最初に開発された別荘地で、昭和になるに従って西へ広がっていきます。


何やら秘密基地のような別荘。


ここからしばらく旧中山道は再び非舗装地になりますが、意外に整備されておらず、本で確認しながら歩きますが、再び舗装道路に戻ります。

これは二手橋(にてばし)。軽井沢宿で飯盛女と一夜を楽しんだ旅人は、この橋まで飯盛女に見送られたそうです。「また来てね~💓」とか言って手を振っていたのでしょう。


こちらが「ショーハウス」。SHOWではなくて、SHAWです。宣教師だったショーは、福沢諭吉の子供の英語教師として名を成しました。たまたま療養に訪れた軽井沢に魅了されて別荘を持ったことから外国人の間で軽井沢が有名になり、「軽井沢=別荘地」という風になったそうです。

ちょうどこの頃(明治20年頃)に中山道の南に碓氷新道が作られて馬や車が走り始め、中山道ルートを通る人が減っていきます。軽井沢も、火山灰の土質のせいで農業にも適さず、へき地のようになりかけたところで、ショーさんのおかげで高級別荘地として生まれ変わるというわけです。


旧軽井沢の商店街です。


旧軽井沢を感じさせるメルヘンチックな電話ボックス。標高1000メートルだけあって、今が桜の満開時期です。


六本辻でここが軽井沢宿です。交差点でなくてロータリーになっているところが、西洋風です。


雲場池(くもばいけ)。浅間山の湧き水をせき止めた人工池です。こういった風光明媚な池の周りも、公共の市民向けというより大きな私有地で区切られているのが、西洋の別荘地を感じさせます。


この方向に浅間山が鎮座しているはずなのですが、見えません。


近衛文麿別荘。


しなの鉄道の鉄路の向こうに浅間山の全貌が現れました。中山道の旅は、山好きにはこたえられません。


さくらとセットで浅間山。


中軽井沢の駅舎です。近代的で洒落てます。このあたりが沓掛宿です。軽井沢宿と沓掛宿の間は4キロしかないのですぐでした。


美しい浅間山の写真をいくつか。



今日は「ゆうすげ温泉旅館」という宿に泊まります。あまりきれいな宿ではないですが、24時間源泉かけ流しが疲れた体にはありがたいです。


おひとり様には素泊まりプランしかなく、周りに食べるところもないので、夕食はカップヌードル鶏白湯味。残念ながらあまり美味しくなかった😑

昨日御馳走だったから、まぁいいか。。。


次は三日目に続きます>>

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