2021年2月10日水曜日

近江八幡(八幡山と豊臣秀次、ラコリーナ、長命寺)

2021年の2月、オリンピックの森会長の失言問題が話題になっています。日本人が思う以上に、西欧諸国は日本に対して男尊女卑のイメージを数十年にわたって持ち続けており、今回は海外から再認識させる結果となってしまいました。

さて、ブログテーマですが、近江八幡は琵琶湖の真ん中あたりにあります。

このあたりは見どころが多く、水郷めぐりが楽しめる西の湖や下図の枠外になりますが、南には織田信長の安土城跡や安土城の威光を朝鮮通信使が見たであろう朝鮮人街道があります。

また、湖に浮かんでいるのは琵琶湖の漁獲量の半分を担う沖島もあります。

まさに近江の中心であり、今回は

八幡山に登り豊臣秀次の不幸に思いをはせ、近江商人の町を訪ね、近江牛を食べて、
お菓子で有名な「たねや」が2015年に建てたラコリーナに行ってから長命寺をお参りします。

日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)の前に車を停めます。観光案内にありますが、八幡山のすそから近江商人の城下町が広がります。


日牟禮八幡宮は大国主命(オオクニヌシノミコト)を主に祀っています。


神社のそばに登山道の入り口があります。


八幡山の頂上まではすぐですが、縦走路もあるようです。今回は歩きませんでしたが。


登山道には雪の名残りがあります。もっと整備されているかと思いましたが、いい感じの山道です。


すぐに頂上にある瑞龍寺(ずいりゅうじ)の山門に到達しました。ここは豊臣秀吉の甥(姉の子)でありかつ養子である豊臣秀次の八幡山城があったところで、今は菩提寺(位牌を納めている寺)になっています。


この秀次という人は、秀吉に道具のように扱われた人といってよいでしょう。秀吉の養子になる前に、他家に二度養子に行かされて、三回目に変わった名前が豊臣秀次でした。当時17歳。

その後、秀吉の子供、鶴松が亡くなったこともあり、秀次は23歳で秀吉から関白職を譲り受け、事実上の後継者となったが、秀頼が生まれると、秀吉は謀反の嫌疑を一方的にかけて、秀次を切腹に追い込みました。

この粛清のありさまが酷いです。あらぬ嫌疑をかけられた秀次は、秀吉の居住する伏見城に弁明に行くも面会を拒絶され、高野山に行けと命じられて、頭を剃って軟禁された挙句の切腹命令。

しかも秀次切腹の後は、三条河原の秀次の生首の下で、北政所(ねね)の助命の願いも叶わず秀次の一家親族全員が処刑されて遺体は穴に放り込まれ、秀次の住居だった聚楽第や八幡山城も跡形もなく破壊されてしまいます。

なんとも凄まじいばかりの憎しみ。秀吉の晩年は異常な人物に変身してしまったように感じます。

秀次については、当時のキリスト教宣教師が「この若者は叔父(秀吉)とはまったく異なって、万人から愛される性格の持ち主であった」と書いているそうです。


あまりに秀次と家族の運命が痛ましく、家から徒歩圏内の木屋町三条にある瑞泉寺(ずいせんじ)にお参りに行きました。秀次公を祀っています。

秀次の悪行ぶりは江戸時代に書かれたフィクションで、まだまだ謎が多いものの、本当のことが分かってきたのは最近のようです。瑞泉寺は江戸時代から昭和までず~っと風評被害に耐え続けてきたお寺なのです。

秀吉が秀次を粛清した理由としては、秀頼が生まれて不用になったことも勿論ですが、当時秀吉が朝鮮まで権力を広げようとしていたのに対して、若くて分別のある秀次が積極的な態度を示さなかったので、自分が九州から朝鮮へ遠征にいっている間に可愛い淀君と秀頼のいる京都を秀次に乗っ取られたらどうしようという妄想にかられたのが一番の理由ではないかと思います。


こちらが秀次の墓。中央部に秀次の生首が入れられた石櫃が見える。両脇には処刑された秀次の妻子を含めた39名の墓。


瑞泉寺に展示されている当時(文禄)の風景画の資料。真ん中の「塚」に39名の犠牲者が埋められ、その上に秀次の首が入った石櫃が置かれている。石櫃には「秀次悪逆」と彫られていました。


八幡山に戻ります。展望台から眺める近江八幡の町。右に見えるのは近江富士周辺の山。


帰りはロープウェイです。



八幡堀は、秀次の八幡山城と同時に掘削されたもので、琵琶湖と接続していたので、城の防御よりも、輸送路として重要な役割を果たし近江商人の繁栄を築きました。

倉や石垣とセットになった運河の姿が美しい。



近江牛の名店、「西川」ですきやき丼をいただきました。赤いのはピーマンのように見えますが、赤こんにゃく。赤色は鉄分で特に味はないのですが、普通のこんにゃくよりも硬めでくさみも少ない。


近江商人の旧西川家住宅。


大変立派なお屋敷ですが、ここより少し東にある愛知川(えちがわ)沿いの五個荘(ごかしょう)にある近江商人の屋敷の方が、近江商人の財力を見せつける巨大さがあります。




昭和40年代の高度成長期にはヘドロで悪臭を放ち、堀を埋めてしまえという案もあったそうですが、美しさを取り戻せてよかったです。




さて、ブログテーマには少しそぐわないのですが、ラコリーナ(La Collina)近江八幡の菓子店「たねや」が2014年に建てたフラッグシップ店かつ本社施設です。

「たねや」はヴォーリーズのすすめで洋菓子を始めたそうです。

ラコリーナはイタリア人の建築家監修で、藤森照信(てるのぶ)の設計ですが、茅葺(かやぶき)の合掌造りの伝統家屋をイメージしているように見えます。春には屋根が新緑の若草色に変わるようで、是非また見に来たいです。


設計アイデアについてはラコリーナのサイトにも特に書かれていないのですが、三つの三角錐は、ギザのピラミッドをイメージしたのではないかという気がしました。


合掌造りだと陽の光が入らないので窓をあしらっています。


バレンタインデーのデコレーション。本物のロンドンの二階建てバスが銀色に塗られています。


数十年前のビンテージものです。


フォルクスワーゲンのバス(ワーゲンバス)。


こちらはベスパ。オーナーさんはアンティークカーが趣味のようです。


こちらは本社オフィスだそうですが、宇宙船のようでもあり、中東のテイストも感じさせます。


屋根の下を見ると、釘や金具を使わない日本の伝統的な木組みで作られていることがわかります。相当の労力がかけられたと思います。


日本の先端ショコラテリエの作品を集めたらしいです。


こちらは「たねや」が以前使っていたであろう菓子の型組です。真ん中はたい焼きの型のように見えます。


ここは建物というか場所を見るためだけに来る価値は十分あると思います。


さて、最後に長命寺を訪ねます。こちらは境内に行くのに808段の階段を登らねばなりません。1368段の「こんぴらさん」(金刀比羅宮(ことひらぐう))もありますが、808段は相当なものです。

長命寺のある長命寺山は干拓以前は島になっていたそうです。


ラコリーナと違ってほとんど人はいません。ひたすら登り続ける...



雪解けの水が屋根から滴り落ちています。


300歳まで生きたとされる武内宿禰(たけのうちのすくね)から長命寺の名前が来ているとのこと。

残雪に少し覆われた本堂の屋根が美しい。


修多羅岩(すだらいわ)と名のついた御神体の巨石。湖東流紋岩でしょうか。


遠くに見えるのは比叡山かな。


808段を下ったあとは、びわ湖サイダーでリフレッシュしました。


 

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