2018年8月19日日曜日

琵琶湖水郷めぐり、竹生島と安土城

夏休みの期間中に近江八幡に一泊二日で行ってきました。宿泊は、国民休暇村の常設テント。テント内は広くて、チェア、シュラフ、マット、枕を持参したので快適に過ごせましたが、駐車場からテント場までちょっと歩いて登らないといけないのが少し不便でした。

で、タイトルの竹生島(ちくぶじま)と安土城の紹介の前に、水郷めぐりの舟に乗ったのでその紹介を。

【琵琶湖水郷めぐり】
水郷めぐりは、いくつかの会社が運営していますが、私たちが乗ったのは和船観光共同組合というところ。何人かのおじいちゃんたちが受付兼船頭さんをされています。

ルート的には、大きな西の湖とその手間にある細い水路を縫うように進むものです。



船頭さんは一名で、櫂一つで、推進力と方向をコントロールします。乗船中に一度やらせてもらいましたが、漕ぎながら方向をコントロールするのが特に難しい。とはいうものの、保津川下りのような超人的なものでは全然ないので、ま、やろうと思えば一日練習すればできそうな感じ。


この木は、かわ柳、またはナコヤナギという柳の一種らしいです。文字通り川に生える柳の一種だそうですが、枝の垂れ下がった柳とは全然違います。



周りにビルや鉄塔などの建造物がないので、船頭さんが漕ぐ小さな舟に揺られて江戸時代やそれ以前の琵琶湖にタイムスリップした気分が味わえるのがこのツアーの魅力です。


これが確か西の湖だったと思います。こんな湖が他にあれば、かなり大きな湖ですね、ということになります。本当に琵琶湖は巨大です。


これは別の会社の舟で船頭さんが白い服を着ています。後ろにある橋は木造で歴史的景観を保っています。


これが今と昔の違いです。一番左側が琵琶湖で、右側のうち西の湖以外の大きな湖はすべて、ほとんどの部分が干拓(かんたく)されてしまいました。昔と言っても昭和10年以降で、これは太平洋戦争のあと配給米だけでは庶民が暮らしていけず、ヤミ米が盛んに出回ったことが原因です。その後、逆にコメは余りだしだので、干拓も止まりました。そうでなかったら、西の湖も埋まってたことでしょう。



ちなみに、下に拡大している安土山がこのあと訪れる安土城があったところ。
天然の堀に囲まれていたことがわかります。


ヨシの前に佇むアオサギ。アオサギは青いわけではなくて、頭に黒い模様がはいっているかどうかで見分けます。シロサギ(コサギ)は真っ白で、くちばしの色が黄色ではなくて黒いです。

ちなみに葦(ヨシ)と芦(アシ)とは同じもの。船頭さんいわく、手入れをしないと背が高く育たないそうです(写真は手入れされている状態)。
昔はこのヨシを使ってすだれとかいろいろ加工品が売れたそうです。今は神社のしめ縄とか、天神祭りにも淀川を下って使われたとのこと。


【竹生島】
さて、次は竹生島です。琵琶湖の東側からは彦根港に行くことで観光船に乗れます。


なにやら家紋がほどこされた赤い船に乗船します。真田昌幸か!と思いますが、これは、近江国の初代藩主であった井伊直政にあやかっています。直政は、戦国時代に徳川家康に仕え、赤の鎧をまとい、「井伊の赤鬼」と言われたほどの猛将であったそうです。


船が港をでると優しそうなおっちゃん二人が手を振ってくれます。こういうことができるかどうかで客商売は全然変わってきますな。



私は船内ではなくデッキのシートにいたので景色がよく見えます。と、同時に暑いですが...。これは北東方向を眺めた写真で、後ろの大きな山が伊吹山です。手前は彦根ビューホテル。いい場所に建っています。


竹生島が見えてきました。


お寺や三重の塔も見えてきました。


竹生島は南側に港があり、港を囲むようにして、神社である都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ)と、寺である宝厳寺(ほうごんじ)がある。都久夫須麻神社は別名、竹生島神社、というか別名が一般の名前で、本名はこじつけのように聞こえる。

昔は神仏習合で一つだったものを明治時代の神仏分離令の結果、神社とお寺に分けたということですが、こんな小さな島まで神仏分離をさせるという徹底ぶりがすごい。とは言うものの竹生島に訪れる観光客の99%はどちらが神社でどちらがお寺か意識していないと思う(調べる前は私もそうでしたが...)


まっすぐ階段を上ると宝厳寺で、右にいくと竹生島神社。だけど宝厳寺の階段には竹生島神社の鳥居がある。要は混然一体というわけね。


それなりの階段です。



不動明王さんがいると、宝厳寺はお寺なんだなと思う。


でもご本尊は、竹生島弁天という弁財天。浅井氏の氏神とされる琵琶湖の神様、浅井姫命(あざいひめのみこと)が弁財天とミックスされてしまっている。


ちなみに弁財天のルーツはヒンドゥーのサラスヴァティ。湖で琵琶を弾かれている神様。
日本で弁財天を祀っている代表的な神社仏閣は、この竹生島と、江の島と厳島神社ということです。


この三重塔は2000年に再建されたもの。近くでみると新しいせいか、あまりオーラは感じません。



さてここから少し階段を降りて、竹生島神社に向かいます。


真っ赤な井伊直政号が見えます。


豊臣秀吉が乗った船(御座船-ござぶね)の用材を使った廊下です。国宝です。どの部分が御座船の一部だったのかなと探しましたがよくわかりません。見たところ、天井に渡している部分(舟廊下と記した板が取り付けている部分)かな?でも秀吉の時代というほど古そうには見えない。


こちらで、かわらけ投げができます。入口のおっちゃんから300円で二枚のかわらけを購入、筆ペンでお願いをそれぞれの皿に書き、向こう側にある鳥居に向けて投げ、見事鳥居をくぐれば願いが叶う、というわけです。鳥居は意外に近いので楽勝!と思いましたが二枚とも失敗。

調べてみると、投げるコツは皿の底を上側にしてサイドから(右でも左でもよい)投げるのが良いらしいです。私は皿の底を下にしてしまっていました。


こちらが神殿。確かに神社らしい。なんども賽銭を取られてしまいます。


弁財天様。どちらかというと男性に見えますが。


さきほどの舟廊下を外から眺めたもの。支えが清水寺のような懸造り(かけつくり)になっています。屋根の部分が金細工があしらってあるのに対し、その下は意外に質素です。

この廊下沿いに階段を降りていくと竹生島観光は終わりです。


【安土城】
最後に訪れるのは安土城跡です。場所は水郷巡りのそばです。
安土城は安土山の上に建っており、観光は山に登らなければなりません。駐車場にレンタカーを停め、入場料を払ってまずは登り始めます。安土城の跡がほとんど残っていないことから入場料の700円は京都の観光名所の基準でいってもかなり高いです。



安土城跡までの200メートルほどを石段を登ります。ちょっとした登山です。


これが順路図です。いま歩いている場所は大手道で右上が城内になります。城内のあとで、左下の摠見寺(総見寺、そうけんじ)に向かいます。



時々、「石仏」と示されている石があります(左側の石)。よく見ると仏像らしき形が浮き上がっています。灰皿にお賽銭を入れるようになっていますが、仏像が彫られた石も普通の石も一緒にして石段に使ってしまうって宗教心のある人にはとても出来ないでしょう。やはり、信長、とついつい感じてしまいます。


こうして見るとなかなかの登り坂。背景の田園風景が美しい。


このあたりから城内。城壁が現れる。


城壁のなかでもこの巨大な石は目を引きます。どうやって引っ張り上げたのか。


本丸跡に向けて歩きます。



この本丸跡は、規則正しく配列された礎石(そせき)と礎石に残った後から高床式で、京都御所の清涼殿を模した建築物であったと考えられており、天皇を迎え入れるのが目的だといわれています。天守閣はさらにその上にあるので、信長が天皇を見下ろす形になるのに、いいのかな?と思ってしまいます。


ここは天守閣跡。この部分は天守閣の地下部分で、床面積はもっと広かったと書かれています。実際どんな天守閣だったかはこの後訪れる信長の館でわかります。


眼下に広がる大パノラマ。干拓の田園風景は、当時は湖だったので、湖に浮かぶ城のような気分になったことでしょう。当然船でないと攻めてこられないし、そもそも琵琶湖という巨大ながら閉鎖空間なので防御として超優秀です。





総見寺はあいにく改修中だったので写真は撮っていません。これは仁王門で、これで安土城跡は終わりです。


最後に訪れたのが信長の館。なにもない田畑のなかにあるわりには道がくねくねしていて車で行きにくい。


ほとんど期待していなかったのですが、安土城VRと題した上映があったので観てみるとハイビジョンの高精細CGでなかなかよく出来ていました(VR、というのは誇張ですが)。さきにこちらを観てから安土城跡に行った方が良いかも知れません。


CGのあとは、実物大の天守閣を見ます。これはセビリア万博に展示されたもので、万博では一番の人気を博したそうです。最上階は外部がまばゆいばかりの黄金です。近江国の住民や、近江を訪れた人は、この輝きを下から眺めてさぞかし信長の偉大さに感銘を受けたことでしょう。



内部の黄金の蒔絵は孔子、老子が描かれています。文王というのは周の始祖で中国のもっとも偉大な人物。でも、儒教とか道教って、こんな黄金ギラギラの宗教だったっけ?信長、意味わからなくて当時の先進国のかっこいいところで飾りたかっただけかも。


現代の絵師による作で、想像で描かれたのだとは思いますが素晴らしいものです。これは絶対見に来る値打ちはあります。




これは当時将軍様たちの献立を再現したものですが、本物のようによく出来ています。


安土城建築の様子を再現したジオラマ。やっぱり人力で引っ張りあげたのですね。


下の階(5階)は八角形になっています。内面は仏教世界が描かれています。


釈迦説法図が見えます。



八角形の天守閣がベースの破風の上にのっているのがユニークです。ちょっと中国テイストを感じます。この安土城は本格的な日本の城の原型となったものですが、初期型というには完成度が高く、派生型と言った方がしっくりきます。
この安土城のように破風の上に別の建造物が乗っているような構造を、望楼型天守と言い、犬山城や松江城など関ヶ原の戦い以前の城で、その後は、大坂城のような上から下までシームレスなデザインの層塔型天守に変わっていきます。

この見事な犬山城ですが、1576年に築城しましたが、その後本能寺の変で信長が暗殺された後、1582年に火災で焼失してしまったのです。なのでたった6年しかその姿を保てなかったのです。「黄金に輝く幻の城」といったところでしょうか。


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