東海道歩きシリーズです。
9月に初の東海道歩きを始めたのですが、奥さんの希望で鈴鹿峠の前後(土山宿、坂下宿、関宿)を歩いてしまったので、草津宿から土山宿を2回に分けて歩くことにしました。
今回はその2回目で石部宿(JR三雲駅)から土山宿(田村神社バス停)までを歩きます。
これが歩いたルートと記事で示したスポットになります。合計5時間50分の距離20kmの行程でした。ランチの他、途中で30分ほど雨宿りをしています。
今回の行程も、前回と同様に国道沿いの歩きはあまりなく、旧街道の雰囲気を少し残したような道が多くて楽しい街道歩きを楽しめました。街道沿いには筆者が好きな酒蔵が3つもあって、酒造巡りの旅のようでした。実際、この地は酒人(さこうど)と言って百済から伝来した御神酒造りの職人が飛鳥時代から住んでいたという筋金入りの酒どころでした。
帰りの田村神社からのバスを考えて、JR貴生川(きぶかわ)駅の駐車場に車を停めてから、今回のスタート地点であるJR三雲駅にやってきました。
今日は11月3日の文化の日で、休日の朝だったので道が空いていて、朝8時30分スタートです。
三雲駅から15分ほどの場所にある横田の渡しの常夜燈。かつてこのあたりでは野洲川のことを横田川と言っていたと案内板に書いてあります。
写真のすぐ後ろに野洲川が流れていますが、今は野洲川を渡りません。
よく地図を見てみると土山宿あたりまでの東海道は野洲川が作ってくれた平地を歩いているのですね。
明治時代の地図を見ると今の三雲駅のある三雲村から野洲川を渡っているのがわかります。案内板によると室町時代の荘園の頃は地元の寺が渡り賃をとっていたのが、東海道に変わって幕府管轄になったと書いてあります。
明治の地図ではすでに細い川になっていますが、江戸時代は荒々しい川で横田の渡しは難所の一つになっていたそうです。
(今昔マップより)
一里塚。片方だけですが、いい感じの保存されています。民家の横の小さな社。他にも見かけたけれどこれは小さい割に瓦屋根が立派だったので撮影。社の奥はかなり広い田んぼになっていて、酒人(さこうど)という名称の集落です。
酒人とは酒造り職人のことで、百済からの渡来人が酒造技術を伝授したと言われています。今回のルートが酒蔵巡りのようになったのも、飛鳥時代からの伝統とつながっているわけです。
柏木町がつくったミニサイズの火の見櫓。
5体の地蔵尊。平面の岩からレリーフのように浮き彫りになっているのは陽刻地蔵尊と言われているそうです。
太いネギの畑。筆者も以前下仁田ネギを作りましたが、意外に日数がかかります。調べてみると甲賀では忍ネギという名で売られていました。
このあたりの田の中の一本道は縄手といわれていて江戸時代に整備されたと書いてありました。松が植えられて松並木になっていたとのこと。
今回3つの酒蔵に出会いましたが、いずれも筆者の大好物の銘柄です。
ここは美富久酒造です。この酒造屋さんは「三連星シリーズ」がフレッシュで大変美味しい。三連星とは黒いドムのことですよ。ガンダムのファンのようです。筆者が一押しは渡船の三連星!
この鳥居が並んでいるところに下級武士の長屋があったと書いてあります。この南に水口城址があるのですが、案内板があったのか、気づかずに通り過ぎてしまいました。
ここの長屋の武士たちが詰めていた城です。
水口城の写真は「甲賀市観光ガイド」のサイトより拝借したものです。小さなお城ですが立派な濠が美しいです。
江戸時代に徳川家光が京へ上洛する際の宿館として造られたそうで、徳川家の権力の大きさを感じます。たった一回しか使われていなかったとのこと。
設計したのは美しい庭園造りで有名な小堀遠州。多分、この濠も美観が目的だったんじゃないでしょうか。
(甲賀市観光ガイドより)
宿場町によくありますが、クランク型にして敵の襲来時に備えています。角にあるのが水口石。力石といわれる大石と書いてあるわりにはたいして大きくない。すすけてしまっていますが、右の百姓娘がこの大石と関係があります。
水口宿のなかにあるのが今回の酒造巡り②の笑四季酒造です。ここのお酒は筆者が滋賀のお酒にハマるきっかけとなった酒造屋さんで、オシャレなラベルで数多くの種類を作られています。筆者のおススメはレトロラベルです。
歌川国芳が描いた怪力娘、大井子(おおいこ)です。男たちと水利権の議論になったときに、大井子は夜中に大石をそっとこの場所に置いて怪力を見せつけ、翌日それに驚いた男たちは水利の文句を言うのを止めました。
この「東海道五三対」は歌川広重のシリーズの人気にあやかって、各宿場町の伝え話をシリーズ物にしたものです。国芳は広重と同じく豊春の孫弟子で、ダイナミックな画風の絵を描きます。
(Wikipediaより)
大きな扉のある倉ですが、曳山(ひきやま)といわれる山車の格納庫(山蔵)です。水口曳山祭りは毎年4月に行われます。
水口宿の名物は干瓢(かんぴょう)で広重の五三次に描かれています。巻き寿司のなかに入っている具材としか記憶にありませんが、ユウガオという瓜の一種を帯状に裂いたものを乾燥させて食べるそうです。
まさに広重の絵の中で実演されています。現在、国内ではかんぴょうの99%が栃木県産とのこと。
途中から道が3本に分かれますが、この三筋が水口宿の特徴です。東海道の本堂は正面時計台の左です。
水口宿のなかにあるのが今回の酒造巡り②の笑四季酒造です。ここのお酒は筆者が滋賀のお酒にハマるきっかけとなった酒造屋さんで、オシャレなラベルで数多くの種類を作られています。筆者のおススメはレトロラベルです。
こちらは店頭販売はしていないらしく、杉玉がぶら下がっていなければ、何かの事務所みたいな建物で残念。
脇本陣跡。となりが本陣で、旅籠が41軒というかなり大規模な宿場町でした。
こちらが江戸側の東見附。右の道を下って行きます。
ずっとパラパラ雨が降っていたのですが、ここでザーザー振りになってきました。本格的な雨具の用意をしておらず、県道岩上のバス停にちょうど屋根があったので逃げ込んで30分ほど雨宿りをしました。
宿場町の雰囲気がよく残されています。
高札場跡。
脇本陣跡。となりが本陣で、旅籠が41軒というかなり大規模な宿場町でした。
こちらが江戸側の東見附。右の道を下って行きます。
ずっとパラパラ雨が降っていたのですが、ここでザーザー振りになってきました。本格的な雨具の用意をしておらず、県道岩上のバス停にちょうど屋根があったので逃げ込んで30分ほど雨宿りをしました。
街道歩きには、最近はALTRAの「VIA OLYMPUS2」という厚底トレッキングシューズを履いており、ピュンピュンと歩けて良いのですが、全く防水性がありません。やはりゴアテックスの靴を買うべきであったかな。
現在の地名は「岩上」ですが、伊勢名所図会では「石神」と紹介されています。今の道とは全然違う山中のような場所に描かれています。
ここでは女は子供が産まれると、岩神を通る旅人に乞うて名前を付けてもらう習慣があったと書いてあります。そんな見ず知らずの人に名前を付けてもらっていいのでしょうか。
(国立図書館アーカイブより)
雨が上がって晴れ間が出てきました。今郷集落のなかを抜けて行きます。
今郷で見つけた用心深そうな黒猫。
さきほどの雨が嘘のように晴れ上がってきました。ここも一里塚。
そろそろお昼時で何も持参してこなかったのでご飯屋さんを探し始めます。この赤甫亭がよさそうだったのですが、あいにく閉まっていました。店名は、ここ土山出身の俳諧師である三好赤甫が由来です。
ここは通りがかって気がついた今日の酒蔵③の安井酒造です。
2年ほど前は、ここの「初恋」というお酒を何度も飲んでいました。リンゴ酵母を使ったとても香りのよいお酒です。
ここは営業中だったので店内に入る。
安井酒造の主力は初桜シリーズですが、以前味見した「山田百恵」(山口百恵ではない)が美味しかったのでその話をすると、山田百恵は山田錦の百%という意味があると教えてくれました。
今年は山田百恵は造っていないようで、ある日、「山田百恵」が本名である女性が買いに来られたそうです。
おススメの「ニューハツサクラ」を購入。生酒です。飲むのが楽しみ。戦前のレトロなラベルがいいですね。
土山に入ってくると、茶畑をよく見かけるようになります。この句碑は眞風軒という甲賀の漢詩家の作で、茶摘みの季節の茶畑の様子を詠んでいます。
句碑の後ろの案内板には大野村が間宿(あいのしゅく)で数多くの旅籠があったことを示しています。ここでは焼き鳥が名物でキジ、カモ、サギを焼いていたそうな。また焼酎が名産だったとか。
やっぱり焼き鳥は日本酒じゃなくて焼酎が合いますねー。
この先の案内板に蘭学医のシーボルトが土山に立ち寄ってライチョウの剥製を購入したと書いてありましたが、まさか、ライチョウも焼き鳥にされていた、なんてことはないことを願います。
あわやランチ難民か、と思っていると旧街道筋に似合わないオシャレなカフェが。異次元スポットのようにここだけ若い人たちが集まっています。「HYGGE」って少女ハイジのことかと思いましたがデンマーク語のヒュッテの意味だそうです。
オシャレな店内に似つかわしくない街道オヤジで恥ずかったのですが、腹が減って背に腹は代えられぬ。
カレーライスはおおきなシシトウが印象的で、野菜はとても上手に素揚げしていました。カレーがちょっと少ないかなぁ。
オシャレなお店だけあって値段は1980円(スープ、コーヒー付き)。2025年になって外食の値段が随分と上がったような気がします。
反野縄。一本道はかつて松並木でした。今でも良く手入れされている樹姿の松があります。下にはお茶の生垣。いいですねー。
諏訪神社。なぜ近江に諏訪の社が?と思って立ち寄ってみる。神社からは何も読み取ることはできなかったけれど、調べてみると、甲賀三郎伝説に結びついているらしい。
Wikiを読むと、これまた大変複雑な伝説で浄瑠璃や歌舞伎の演目にもなっているようですが、何故、諏訪神社が甲賀に?という最初の質問に対する答えは、奈良時代に朝廷から任命されて東国を治めていた甲賀三郎が、第3代天皇であり甲賀に住んでいた安寧天皇の血を引いていたので、自分のオリジンの甲賀へ帰った...ということです。
それに加えて兄弟争いや、愛する妻がさらわれて地下帝国を放浪して蛇になる、などなど。
それにしても第3代天皇というのがすごい。完全に神話の世界で甲賀に住んでいたというのは何の根拠もないらしい。
瀧樹(たぎ)神社参道の鳥居。行ってみようかと思ったけど東海道から少し離れているので鳥居だけ撮影。
案内板を読むと、菅原道真の霊を勧請したのが550年程前ですが、その前の由来が2千年前に溯るというこれまた伝説的な神社。
倭姫命(ヤマトヒメノミコト)の巡幸時に食事をした場所ということですが、倭姫命はヤマトタケルノミコトの叔母にあたる人で、天照大神を伊勢神宮に祀った人でもあります。
このあたり美しい茶畑が続きます。茶畑って日光が茶葉に均一にあたるようにカマボコ型をしているのが特徴ですが、ちょうど老夫婦がカマボコ型になるように手入れをしている場面を見ました。
大きな湾曲したバリカンを表面に沿ってボサボサに延びた枝葉を刈っていくわけですが、これだけの茶畑を手入れするのはなかなかの手間だと感じました。
ましてや、自動バリカンが無かった頃、手作業できれいなカマボコ型に刈るのはもっともっと大変だったことでしょう。
このこんもりと樹々の茂った丘は、垂水斎王頓宮(たるみさいおうとんぐう)という名が付いています。
垂水はこの地名で、斎王というのは新天皇が即位する度に京の御所から伊勢神宮へ遣わされた未婚の皇女です。
その斎王が伊勢神宮に行く途中に泊った場所が頓宮というわけです。さきほどの倭姫命の話と同じで、この地が伊勢と朝廷にとって重要だったことがわかります。
土山宿に入ります。土山宿は難所とされた鈴鹿峠の手前の宿なので、ここでいったん休む旅人が多く繁盛したと書かれています。
歩行者専用のトンネルのような橋でもって野洲川を越えます。ここで野洲川に田村川が合流します。旧街道時代は、ここから北の場所で徒歩あるいは舟で野洲川を渡りました。
しばらくずっと東海道は野洲川沿いだったのですが、ここで野洲川は北東方面を上流として、東海道は田村川沿いに進んで行きます。
土山宿に入ります。土山宿は難所とされた鈴鹿峠の手前の宿なので、ここでいったん休む旅人が多く繁盛したと書かれています。
この土山宿の手前に御代参街道(ごだいさんかいどう)という脇街道があり、中山道の彦根方面へと接続されていました。
御代参街道は春日局が伊勢神宮から彦根の多賀神社へお参りをされた時に整備された道とのこと。
こちら本陣跡。土山宿にはここを合わせて本陣が2つ、旅籠が44軒あったというから確かに大規模な宿場町です。
油屋跡。江戸時代の油はもっぱら菜種油で、少し綿実油を混ぜるときれいな灯りになったそうです。これだけ旅籠が多かったら行灯の油を随分要りようだったことでしょう。
ここがもう一つの本陣。
この路地はほぼ江戸時代そのままではないでしょうか。
今日は文化の日。国旗を掲揚する家もほとんど無くなりました。
こちらのお家は以前は「お六櫛商」だったとあります。「お六櫛」を調べてみると非常に歯の細かい櫛のことでした。木曽路名産ということですが、この村でも名産品として売られていたそうです。
カマボコ整備が必要になってきている茶の畝の後ろの山を調べてみると、ちょうど先月登った高畑山でした!
先月の高畑山頂上から近江方面の写真を見直して見るとちょうどオレンジの丸の部分が土山宿でした。
14時過ぎに田村神社前の道の駅に到着。これで9月に歩いた田村神社~関宿の街道歩きと繋がりました。
次回は関宿からいよいよ尾張方面へと進みます。
田村神社からは40分ほどバスに揺られて貴生川駅へと向かいますが、このバス、たった250円なんです。カレーが2000円の時代、涙ぐましくなります。





































.jpg)


















0 件のコメント :
コメントを投稿