2025年5月14日水曜日

【西国街道】(午前中秋芳洞観光)、厚東駅、船木宿、厚狭(あさ)宿(厚狭駅) 

 西国街道の富海宿から厚狭(あさ)宿までの旅です(2日目はコチラ)。

3日目の最終日は、せっかく山口県に来たので午前中に秋芳洞を訪れることにします。ホテルの朝食をとってチェックアウトして、8時の開店早々からトヨタレンタカーでヤリスを借りて30分ほどで秋芳洞に到着です。

新山口駅から秋芳洞まで防長バスが出ていますが、午後から街道歩きなので少しでも時間を節約したくレンタカーにしました。秋芳洞は朝8時半から営業しています。早いですね。



特別天然記念物の洞窟内部に入ります。最後に来たのが何十年も前なのでほとんど覚えていませんが、洞内の床は沢(地下川)になっているのですね。まぁ、だから洞窟が出来たわけですが。



何十年ぶりに再来訪して洞窟のスケールの大きさに驚きました。また、昔と違ってフラッシュも使わずにきれいな写真が撮れる!しかも携帯電話。


百枚皿


洞内富士


傘づくし

黄金柱

特に名前なし。気持ち悪いけど造形の妙を感じる。

巌窟王


これも名前なしだけど芸術的。


街道歩きも3日目になると脚がだるく、洞内の往復2kmは思ったよりしんどかったです。
そのあと車で5分ほど上ったところにあるのが秋吉台。秋芳洞の洞内からエレベーターでも行けるようです。

秋吉台の景色は、まぁ、こんなものか、といったところ。御池岳のほうが起伏があって面白かったような感じです。

ただ、気になったのはパンフレットに「3億5千年前に南方の海でサンゴ礁として誕生」と書いてあることです。



確か日本列島で中国大陸から分離してできたはず。調べてみると日本列島が大陸から分離したのは、たかだか2千年前で、大陸移動説によれば3億5千年前というのは、パンゲア大陸といって全ての大陸が一つにくっついていた頃の話でした。



レンタカーで新山口駅に戻ると駅前に山頭火の銅像がありました。台座には句があり、

まったく雲がない 笠をぬぎ

気持ちよさが感じられる句ですが、表情は難しい山頭火の像。



駅前でランチを食して、山陽本線に乗って昨日のゴール地点の厚東(ことう)駅に舞い戻ります。再び歩き始めたのが12時半です。

3日目のルートと記事で紹介したスポットを地図で示します。3日目の行程はほぼ2号線を歩くだけの面白味の少ない行程でした。



2号線沿いですが、90mの峠です。標識によれば吉見峠というらしい。宇部国道維持出張所が立てた看板に江戸時代の山陽道の絵が描いてあります。絵にある霜降城はここから2kmほど南にある山城で登山が楽しそう。



七地蔵菩薩。上を走っている道路は宇部伊佐専用道路です。Wikiで調べると全長32kmの日本一長い私道だと書いてあります。セメントの原料を運ぶために昭和50年に宇部興産が建設したそうです。

言われてみれば宇部市で最大の企業が宇部興産ですね。宇部には石炭が多く存在していたので炭鉱産業が宇部興産の発端です。



ここから船木宿のある船木町に入りますが、何かの理由で国道2号線が船木の集落を北に迂回してくれているので、静かな集落が維持されています。



岡崎八幡宮の参道。境内には行かず。樹齢700年のクスノキがあるそうです。



ここも本陣が見当たらなかったけれども船木宿があったところ。船木は石炭発祥の地とされていて、住民達も生活に石炭を使っていたと案内版に書いてある。石炭のように優良な燃料が手軽に入手できるのは住民達にとっては大変ありがたかったと思います。



案内版にあった船木宿の説明。ここは厚狭(あさ)郡の中心地でした。



再び2号線を車に注意しながら歩き、すこし脇道にそれると千林尼の石畳路とある。石畳路は現存しているようですが、どういうわけか通らなかった。ここから標高60mの西見峠までの登り坂で難路であったので、千林尼さんが托鉢で集めた資金を使って石畳路を作ったそうです。

江戸幕府って毎年参勤交代を強制させていたくせに、道の整備は地方にやらせていたのですね。この辺がローマ帝国と違うところです。



2号線沿いを歩いて西見峠を越えます。標高57m。宇部市はここまでで、ここからは山陽小野田市



厚狭の町並みが見えてきます。向こうに見える山は下関の四王司山。ギリギリ瀬戸内海も見えます。



厚狭川の橋の手前に岩があって皇后岩伝説の案内版があります。

周防国に大内氏という豪族がいて、実は百済の皇子が渡来した家系であると言われておりまして、その皇子を慕って皇子の母が百済から船に乗って日本へやってくる途中に事故にあってこの地に上陸して、その際に休んだのがこの岩だった...という複雑な話。

しかもこの岩は昭和30年代に土砂に埋もれて行方不明になっていたのを2010年に偶然に見つかってここに設置されたそうです



本日も山陽本線の電車の時刻にギリギリだったので急いで歩き、どこが厚狭宿の本陣だったかわからずじまいですが、とりあえず厚狭駅に時間内に到着しました。

厚狭駅前に立っているのが寝太郎像

寝太郎は厚狭の若者ですが、寝てばかりいて笑いものになっていましたが、三年後に起きて千石船に大量の草鞋を載せて佐渡の金山へ出向き、鉱夫の古い草鞋とただで交換してやったそうです。

そして厚狭に帰ってきて今度はその大量の古い草鞋を洗ったら草鞋についた金の屑がたくさん採れてそのお金で厚狭川の水利を整備して田が潤ったそうです。



15時前に間に合ったので山陽本線で新山口駅に戻り、お土産を買ってから、新幹線のぞみ号で京都に帰りました。随分遠いようですが、のぞみ号で2時間ちょっとなんですね。やっぱり新幹線は便利です。

さて次回はいよいよ西国街道歩きの最終の旅となります。完遂祝いはフグで決まりでしょう。



【西国街道】四辻駅、小郡(おごおり)宿(新山口駅)、山中宿、厚東(ことう)駅

 西国街道の富海宿から厚狭(あさ)宿までの旅の2日目です(1日目はコチラ)。

2日目のルートと記事で紹介したスポットを地図で示します。



ホテルアルファーワンで千円の朝食をとって、新山口駅を出て四辻駅に舞い戻ってきたのが朝の7時すぎ。

四辻駅そばの大村集落から南北につながる火ノ山を頂点とする300mほどの低山が連山になっている景色が見えます。



案内版によるとこの平べったい石は東西方向に建てられているが誰が何のために置いたのかわからないと。地図を見ると確かに地名が立石になっています。



恵比須社。これが上市で、この先に下市があり、12月には交互に市が立ったとある。



新山口駅が近づいてきてようやく国道2号線から脇道にでる。防府までは楽しい道だったが、その後はこの旅が終わるまで基本的に国道沿いを車にはねられないようにして歩かなければならず楽しくない。



この上には大聖院という真言宗のお寺があるのですが、相当数の階段を見て行けませんでした。景色が素晴らしいとわかっていれば行くのですが、これで景色がなければショックが大きいので。

前の石碑には高野山大師教会小郡支部とあります。真言宗のなかには18のサブ宗派があるらしく、そのうちの一つ。



すぐ横に一里塚跡がある。このあたり山口市の中央部を小郡(おごおり)といいます。



椹野(ふしの)川を越えて街道を進むと歴史を感じさせる金物店があります。1868年創業となっています。



小郡(おごおり)宿の宿場町だったところ。本陣跡は見かけませんでした。右の電柱下に一里塚跡がある。




恵比須神社の前に建っているのが本間源三郎顕彰碑。本間さんはここ嘉川村出身の衆議院議員で、揮毫は桂小五郎と同じ桂家出身で日露戦争時の総理大臣だった桂太郎。

この本間源三郎はただの議員さんではなく、明治維新の時には長州藩内部における幕府恭順の保守派と、高杉晋作率いる勤皇倒幕の改革派の内戦において地元の農民たちを集めて郷勇隊を組織して戦った人です。



中野三仏と書いてある。左は隠れて見えませんが弘法大師、中央が観音菩薩で右の大きいのが地蔵尊。



熊野神社の境内で小休止。朝7時から歩いているのでまだ10時。




嘉川ICの周りを歩いて一里塚跡。ICの周りは酷い道のことが多いけれど今回の旅ではどこもOKでした。



2日目唯一の70mほどの峠。食事処の店名に「おいはぎ峠」などと物騒な名前がついていますが古地図を見ても特に峠の名称はありません。



正式な名称のない峠が周防国と長門国の国境になっています。



地図で見ると長門国と周防国はこうなっています。現在では周防国側が山口市で、長門国側が宇部市の境です。




庚申さん。ここは地図で見ると割木松(わりごまつ)という面白い名前がついています。割木(わりき)は薪木のことで松はよく燃えたといいますが、昔の人はこの峠から山中に入って薪木を採ったのでしょうか。



旧街道のルートが国道2号線を外れていくので辿っていくと農道になって、この先獣害フェンスを開けたり閉めたりで面倒くさい。



上市集落に来ました。熊野神社。疲れてくると神社の階段がうらめしくなりますが登ります。




景色を期待したのですが残念でした。11時半なのでカップヌードルでランチにします。



甲山川沿いにある三界地蔵。さっきの熊野神社からここまでが山中宿だったはずなのですが、ここも本陣跡などは見当たりません。

ちなみに三界とは欲界、色界、無色界の三つです。無色界は物質に惑わされない精神的な澄んだ世界なのはわかるのですが、欲界と色界を分けているのが面白いです。欲界と色界はセットになっているように思えるのですが。



少し歩いて厚東川の船着き場跡。「厚東」と書いて「ことう」と読みます。ちなみに翌日のゴール予定の「厚狭」駅(宿)は「あさ」なんです。

厚東は長門国の豪族の厚東氏を意味していて、物部氏の家系だそうです。



庚申さん。



丸山ダム湖そばの辻堂にある丸山水神社。丸山ダム以前もため池で、水神社という名前から水が貴重だったことがわかります。丸山ダムも利水用のダムのようです。



水神社から少しの間、自然道が続くのですが「どんだけ道玉木坂」というファニーな名称らしいです。「どんだけ」は大名行列の道なので「殿様だけ」の意味のようですが、以前はそんな立派な道だったのかしら。



40mほどの高低差の坂を上って自然道をしばらく歩きます。山陽線の電車の時刻がせまっているので実はあせっています。なにせ1時間に一本しかないので。



なんとか厚東駅の電車に間に合いましたが、駅前に老犬ホームの店が。はじめて見ました。



朝7時から歩いたのでまだ1時過ぎですが今日の行程は終わります。この後、電車で3つめの駅の新山口駅のアルファーワンホテルに再び戻り、お風呂に入ってから駅前でソフトクリームを食べたりのんびり過ごしました。

夕食はホルモン横丁という店が5時からオープンしていたので焼肉を食べたら、そんな高級店でもないのに大変おいしくて幸せな気分になりました。

翌日3日目は午前中に秋芳洞を巡ってから街道歩きの続きです(3日目はコチラ