2020年12月16日水曜日

【中山道】熊谷、深谷、本庄

【二日目】熊谷、深谷、本庄まで


中山道、三泊四日の旅の二日目です。本日はJR神保原(じんぼはら)駅がゴールですが、駅に宿がないので、一泊目の宿と同じ熊谷の宿に泊まります。なので、荷物を最小限にできるので随分ラクです。特に今回は、ブログ用にXPS15を持ってきたので、電源コードと合わせると結構重い。

とは言うものの、ブログを書くより、Amazonプライムで、ゲームオブスローンズを見ているほうが多いのでこの文章も結局帰宅後に書いています。
余談ですが、このゲームオブスローンズ、話題だったので見てみましたが、登場人物が50人くらい登場し、ユーモアも人情味のかけらもない、残酷、残虐、憎悪、裏切りのオンパレードで少なくともハッピーな気分には絶対なれないドラマです。それでも各エピソードに大作映画なみの労力が込められているのでついつい見てしまう。

今日(12/16)は、この冬最初の大寒波が一番厳しい日と言われていましたが、雪も降らず、愛用のマイクロパフを着れば問題なし。

熊谷駅からのJR沿いの国道17号線沿いを歩きますが、中山道の情緒はみじんもありません。


旧新島村にあった一里塚。上の平成12年の案内板には樹齢300年以上のケヤキと紹介されていますが、下には平成22年、30年の豪雨で枝が折れて枯れてしまったのでやむなく伐採したと書かれています。


アパートのわきにひっそりとたたずむ不動尊。


こちらの一里塚のケヤキは元気そうです。江戸から18里です。このあたりは東方(ひがしかた)といい、日本武尊(ヤマトタケル)が東征の際に「東の方は何れにあたるや」と聞いたことがいわれだそうです。


深谷並木。背の高かったイチョウか切り落とされていますが、ヒコバエに覆われています。


深江宿で遊女と遊んだあと、名残惜しさに振り返ると言われた「見返りの松」。平成18年に二代目の松を植えたそうです。


なんだか名門ぶりを宣伝しすぎているきらいのある深谷第一高校。


こちらは深谷商業高校ですが、グラウンドが非常に大きいです。


こちらも名門っぽい校舎。


唐沢川。深谷の地名は唐沢川の谷が深かったことからきているそうです。今の景色からはちょっと想像できませんが。


ちょっとルートを間違えました。この行人橋が中山道。


恥ずかしながら渋沢栄一という人物を知りませんでしたが、深谷出身の著名人でした。
徳川慶喜に仕えた後、新政府では大蔵省で務めるも大隈重信や大久保利通と対立して退官、その後の財界人としての渋沢栄一の方が有名なようです。

みずほ銀行の元となった第一国立銀行から東京海上火災や京浜電鉄、キリンビールなどあまたの企業の設立に携わったそうです。


これも、全く知りませんでしたが、昨年2019年の4月に2024年度に紙幣を刷新することが決まっていました。一万円札は、渋沢栄一で、五千円は


深谷宿当時は脇本陣だった、近藤(きんふじ)旅館。近江出身の人が始めたとのこと。


深谷は江戸時代は瓦製造をしており、その技術を使って渋沢栄一が国内最初に機械式のレンガ工場を造ったそうです。なのでレンガ造りの建物がちらほら見られます。


深谷宿があった、仲町交差点。


七ツ梅酒造は、元禄から営業されていましたが、300年後の2004年に閉業。割と最近です。残った建物を有効活用するようショップや居酒屋になっています。


レンガの煙突が深谷らしい。


レトロな建物をオシャレにリフォームというのは京都にも多いのですが、ここはちょっと違うような...あまり入りたいとは思えません。


菊泉ブランドの瀧澤酒造。こちらの酒造さんはちゃんと経営しています。煙突は七つ梅のほうがかなり立派ですが。


スパークリング日本酒も出しています。工夫してがんばってますね。ところで、今読んでいる司馬遼太郎の「菜の花の沖」に出てきますが、江戸初期から中期は、贅沢品を江戸で製造する技術がないので、良い酒は上方から樽廻船で運ばれてきた(下ってきた)そうです。

逆に、上方からでない(江戸で製造された)商品のことを、「下らない」といったのが、今のクダラナイの語源だそう。

そう言えば鴻巣の人形も京都伏見の人形師が始めたとありました。

こちらの瀧澤酒造さんは文久に開業。明治開始の5年前ですから江戸が自前で製造できるようになったのは江戸時代後期だったのがわかります。


中山道最大級の4メートルの深谷宿の常夜燈。


瀧宮神社。


淫乱斎こと英泉が描いた深谷宿ですが、この姐さんたちのいる場所を飯盛と言います。
飯盛と言うと「ザめしや」を想像しがちですが、遊女と戯れる場所です。

幕府は売春を遊郭に限って認めてきたが、宿場に無償の久役(くやく)などを敷いたので宿場が財政難となり、宿場の娼婦のことを飯盛女という名目で黙認したのです。

深谷宿においては、旅籠毎に2~3人の飯盛女がおり、宿内人口の半分以上が女だったというから、ほとんど風俗街みたいな雰囲気だったのかもしれません。



エノキかな。右が中山道。


島護産泰(しまもりさんたい)神社。このあたりは、四瀬八島と呼ばれ島状になっており、利根川の氾濫にしばしば苦しめられたことから、神の加護を願った。
深谷が唐沢川の谷からきているなど、今の地形からは全く想像できません。

手水のそばに腰かけて、ランチのおにぎりをいただきます。

喫茶店も公園もないので、休憩はもっぱら神社、トイレはコンビニです。


消防団建物跡。


百庚申。庚申さんがこれだけ大群になっているのは見たことがありません。この年は黒船来訪や桜田門外の変があり世の中が騒然としていたからかもしれません。



京へ向かう中山道で唯一赤城山が左に見えることから、左赤城と言われている場所。


奥に見えるのが傍示堂(しほうどう)。国境に建立されるもので、ここは武蔵(武州)と上野(上州)の境界にあり、市でにぎわったという。

ここは小山川が流れていた場所ですが、今の埼玉県と群馬県の県境はもうちょっと北の神流川(かんながわ)を境にしています。


本庄宿があった場所です。蔵があるのが面影をかろうじて感じさせます。
利根川の水運もあり深谷宿の二倍以上の人口で大変栄えたそうです。

宿場が発展するにつれ、深谷宿と同じく飯盛が盛んで、人足が足りなくなり、幕府は付近の村から人足提供を課し、そのことを助郷(すけごう)と言いました。

ところが、本庄宿では助郷にいった村の青年が飯盛女にうつつを抜かして身を持ち崩し、村に帰ってこなくなるケースが多発したそうです。

助平(すけべえ)の語源じゃないかというのは、私の説。


トルコのホストタウンの旗が並んでいます。調べてみると、本庄出身の国学者、塙保己一(ほなわほきいち)にちなんで、本庄市が弱視の選手対象のロービジョンフットサルのトルコ選手の合宿地になったことがきっかけだそうです。

本庄の子供たちとのふれあいもあったそうで、とても良い話ですね。


旧本庄商業銀行煉瓦倉庫。明治29年建設で、当時は本庄は繭の集散地として繁栄し、この建物は本庄商業銀行が、融資の担保として大量の繭を保管するために建てられたと書いてあります。

幕末から明治にかけて養蚕は日本の輸出の筆頭商品で、日露戦争の戦艦は養蚕で獲得した外貨で購入したようなものです。ヨーロッパでカイコの伝染病のため養蚕業が壊滅したこともあり、日本の養蚕が世界一となったのです。

この立派なレンガ造りの建物にびっしり繭が詰まっていたとは今では信じられません。ちょっと臭いとか気持ち悪い気もしますが。


金鑽神社


樹齢350年のクスノキ。暖地性のクスノキは埼玉県では珍しいそうですが、古木とは思えないほど生き生きと茂っています。


浅間山古墳の上に建てられた浅間山神社。


今日はここまで。

JR神保原駅(じんぼはら)から熊谷駅に戻り、昨夜と同じホテルに泊まります。
今日は四万歩コースでした。どうしても疲れが足より腰にきます。


熊谷駅を下りると熊谷直実の像。背景は情緒もへったくれもありませんが。。。






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