2020年2月4日火曜日

大岩山、深草トレイル

京都一周トレイルの東端は深草トレイルとも言われています。大岩山(182m)という小さな山にも登ります。


近鉄の桃山御陵前駅で下車します。


駅にあった案内板ですが、こんなに名水が湧き出る場所があるのですね。さすが酒どころだけあります。


東に向けて進むと、御香宮(ごこうのみや)神社の大鳥居をくぐります。日本書紀の時代の最初の女帝と言われる神功皇后を祀った神社は、左手にあるのですが、パス。


明治天皇陵の参道を行きます。


明治天皇陵には行かず途中で北に折れます。桓武天皇陵への参道沿いに歩きます。



明治天皇陵よりも小ぶりな桓武天皇陵。平安京を設立した大先輩だけど、明治天皇の日露戦争に勝った功績は大きいということか。



昭和39年に建設された鉄筋コンクリート製の伏見桃山城。ちなみに、「桃山」というのは城郭が無くなった後に土地が開墾されて桃の木が植えられたことによる愛称です。



歴史的には最初に建てられたのが指月伏見城で、秀吉の隠居の住まいとして建てられたが、秀吉入居直後に地震で倒壊してしまい、その翌年1597年に木幡山(こはたやま)に建てられたのが本来の伏見城。場所的にはちょうど現在の明治天皇陵があるところ。


 京都歴史散策マップに掲載されていた当時の城郭の地図を、Yahoo地図に重ね合わせてみました。木幡の本来の天守閣は、現在の天守より南東に位置したようです。

 地震のあと、木幡の城に引っ越した秀吉は、翌年1598年の春には、醍醐寺で綺麗どころを集めた花見の一大パーティを開き、その5か月後にお城で亡くなってしまいます。忙しい晩年です。


さらに、当時の巨椋池がどこまで広がっていたかを重ね合わせてみました。指月伏見城からは、巨椋池に映る月が島々の上に浮かび上がり、さぞかし美しかったでしょう。


巨椋池全体がどこまで大きかったかを近畿農政局の資料を、Yahoo地図に重ねて調べてみました。この資料は秀吉が堤防を作った後なので、伏見城以前は、淀城、平等院にわたるほどの巨大な池であったことがわかります。

さらにもっと古代にさかのぼると、京都盆地全体が湖(山城湖)でした。


現伏見城を北に抜けたあたりの住宅街にあった案内板。「現在地」と書かれた場所に、黒田官兵衛の屋敷があったそうです。


案内板の位置はこのあたりのようです。


このあたりで、一緒に歩いたS氏の愛犬に遭遇。よく躾けられています。


さて、大岩山に向けて進みます。


竹林を抜ける道。


部分的に手入れがされていますが、全体的に伸び放題の竹林で、陽が入らず暗い。


竹林を抜けると、大岩山展望台に出ます。右端に京都タワーが、左側に、京セラのビルが見えます。


拡大写真。少し雪化粧をした愛宕山。


この展望所を背にして少し登った場所が大岩山の頂上なのですが、三角点もなく、頂上には行けません。と言いますが、頂上がどこかわからないまま下ってしまいました。いろんな山に登りましたが、頂上がわからないまま下山したのは初めてです。

Google Mapで見ると、頂上にテレビアンテナ設備があります。アンテナの裏は、以前はゴルフ場だったということですが、今は、巨大なソーラーパネルが地表を覆っています。

展望所ができる前は、産業廃棄物や建設残土が投棄されて環境問題になっていたそう。
かなり不遇な山です。


展望所から下りの街道です。


大岩、小岩大明神の石板が崩れた鳥居から落ちて地面に立てかけられています。


倒木でなぎ倒された鳥居に、台座から落ちてしまった狛犬。見るも無残。


神主もいなくなってしまって、廃墟状態です。お隣の伏見稲荷はインバウンド客で大混雑の大賑わいなのに残酷な対比です。


寄進の石碑を見ると、すべて旧字の大坂の人たちです。


鳥居も大阪の堂山。


お不動さんの滝場があり、お花が据えられています。人の想いが少しでもあるのが救われます。


実は稲荷山の東にも大岩大明神があり、下の写真は以前訪ねた際、「北新地」と彫られた石碑が気になりました。この「北新地」の石碑には、うっすらと「京都」と彫られているので、千本中立売通の五番町を北新地と呼んでいたからだろうと結論付けたのですが、稲荷山も大岩山の「大岩神社」には両方とも、大阪が関連しているのかも知れません

さきほどの石碑ですが、「松嶋」は、松嶋遊郭、「南本町」は、今の大阪ミナミ、それに「北新地」と言えば、共通するのは歓楽街であり、です。

江戸時代の中期あたりから、伏見酒は後発で近衛家に庇護された伊丹酒に対して、海上輸送で不利なこともあり、一大マーケットである江戸でシェアを失い明治以降まで苦渋の歴史をたどります。

以上を考えれば、大岩神社は、江戸初期に大阪歓楽街の商人が商売繁盛を祈願していたのではないかという仮説が成り立つのではないでしょうか。


大岩神社からの下りの竹林の道。



地面が崩れ落ちた部分から湧き水が。この辺りは、どこも地下水が豊富に流れています。


深草こどもの家。S氏のお子さんが通われていたそうです。一見、茶室に続く庭の入り口のような趣がありますが、2歳から3歳の子供を対象とし、子供が自分の感覚を生かして、自ら成長する力にまかせようというモンテッソーリ教育法を取り入れている。


名神高速を越えます。こちらの道は、東山トンネルができる前の、旧東海道線。


浄蓮華院。モスクのように見えますが、天台宗のお寺。声明(しょうみょう)というお経よりもメロディーがはっきりした宗教音楽の発祥の地ということです。

ヒンドゥー教が、仏教の源流ですが、仏教発祥後も独自に発展したヒンドゥーを、バラモン教と呼び、バラモン教で発達したのが声明ということらしいです。


仁明天皇(にんみょう)御陵。嵯峨天皇の子供。ですので桓武天皇の孫です。

住宅の隙間みたいな道を通ると敷地が出てきますが、明治天皇や桓武天皇と御陵と比べれば随分と小ぶりです。


S氏が教えてくれましたが、このあたりは、東山トンネルが開通する前の、旧国鉄の東海道線が通っていたそうです。
住宅の間をちょうど線路の幅くらいに斜めに通っています。

完全にブラタモリの世界ですね。


立派なお寺がありました。真宗院(しんじゅいん)。後深草天皇の勅願で開山されたとのことです。さきほどの仁明天皇を別名、深草天皇と呼ばれていたらしく、その名前を継いだのが、後深草天皇ですが、時代はずっと後の鎌倉時代、後鳥羽天皇のひ孫にあたります。


寒梅のお目見えです。


道中、なんとも気持ちよさそうに日向ぼっこをしている柴犬発見。


S氏撮影。かわいいですね。




さて稲荷山のそばにくると、お滝場の案内が出てきました。以前お滝場めぐりをしたときの記事はコチラ


竹林を抜けるような道になっています。コロナウィルス騒ぎの中、竹林好きの外国人、とりわけ西欧人とやたらとすれ違います。


竹の間から伏見城が見えました。


以前も訪れましたが、弘法の瀧です。



こちらの丸太の上で、少し早めのランチをしました。


神寶(宝)神社。「かんだから」と読む。十種の宝が奉安されている。


伏見稲荷大社の観光ルートに合流。いつもよりは少ないとは言え、さすがにこれだけ外国人がいると、コロナウィルスに感染しないか、少々心配になる。


最後は、S氏おススメの、ねざめやで、名物の稲荷ずしを購入。作り立てを出してくれるので、少々待ち時間があるが、待つだけの価値はある。鰻のかば焼きも名物です。

伝説によると、秀吉が母の病の治癒を祈願して早朝に稲荷神社にお参りに来た時に開いていたお店に、愛妻「ねね」の頭文字をつけて名付けたそう。

でも、営業時間は9時のようです。そんなに早朝でもない。


せっかくの作り立てなので、踏切側の公園のベンチで、S氏と味見をしました。
稲荷の皮は、ほどよい油加減で舌ざわりよく、すし飯は、ゴマの効いていて香よく、人気商品に納得です。


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