【枚方三栗で見かけた見事な梅】
さて前回の終着地点の枚方からスタート。今日2/25は寒さもやわらぎ、ヒートテックなしで越冬隊系ダウンからファッション系のダウンで手袋もOFF。
もはや京街道の片りんもない枚方駅だが人知れず佇む道標をたよりに本日の行程をスタートする。先日たどり着いた枚方宿(ひらかたじゅく)は枚方駅より東の天野川(あまのがわ)の手前まで続いており、東端を東見附(ひがしみつけ)と呼んでいた。
これは天野川の手前にあった解説の看板。
こちらは拡大図だが、ちょうど京都からやってくる参勤交代の大名行列を天野川の手前の東見附で待ち構える枚方宿の人たちが面白い。「失礼があってはあかん」というのと「太い客がやってきたシメシメ」という二種類の声が聞こえてきそうだ。
天野川を超えてしばらく歩いたところにある延命地蔵大菩薩。大菩薩はどこにあるのかと中を覗いてみたけれどかろうじて菩薩かな?と判別できるような石片のようなご本尊。賽銭箱は扉のなかに入れられ、お賽銭を納めようとおもうと、自動販売機のスリットのようなところにコインをいれなければならない。賽銭泥棒が多いのかと思うと寂しい気持ちになる。
そばにあった古いお家に、「煙草小売所」の札が。昔はアルミの柵の代わりに看板娘が煙草を売っていたのか?なんて旧き良き時代を想像してしまう。
京阪御殿山駅まで来た。どこの駅もそばに新しいたこ焼き屋ができている光景を見かける。しかも安い。
御殿山神社。かなりの勾配の丘陵の上にある神社で、そこらじゅうに土砂崩れの危険を示す石標が立っている。なぜこんな急こう配の丘陵ができたのか不思議だ。
御殿山神社の境内には神社らしいBGMが流れる。正月ならまだしも普段からBGMを流す社は初めて見た。積んであったチラシをみると、神主さんはどうやらミュージシャンらしく夏に企画されているパリ祭に出演されるということ。
車道から京街道へ少し外れる場所。錆びた「農道」の看板がある。昔は大勢の旅人で賑わった幕府お墨付きの大動脈の道が、この農道だなんて、京街道のことを調べないと絶対に気付かないだろう。こうやって歴史というのは埋没して消えていくのだなと感じる。
通りすがりの家の庭に見事な梅が咲いていた。まるで桜の花のよう。実に素晴らしい。
左の常夜灯には「京都」、右の常夜灯には「大阪」と彫ってある。「大坂」と書いていないところを見ると明治になってからのものかも。
京阪牧野駅を通り越して京阪沿いに歩くと遠くに見える超高層ビル。あれはなんじゃ?と思い調べると、樟葉駅横のKUZUHAモールの横にそびえるマンションでくずはタワーというらしい。
Google Earthで見てみるといかに周りの住宅地から飛びぬけた存在かということがわかる。京阪電車がむりやり何もなかった町を近代的タウンにトランスフォームさせた。
車道から淀川横へ降りる道があったので降りてみるとサイクリング野郎どもの天国になっていた。調子に乗ってシャッタースピードで遊んでみたが、これはちょっと失敗。しかし結果がすぐに見えるデジタル写真って本当に革命的だわ。
さて、樟葉を通り過ぎて、「バル エスパーニャ ecafe」というところでコーヒーをいただき少し休憩する。マスターによるともともとはDENONとMarantzの修理が専門らしい。オーディオセットがドンと鎮座していて「聞いてみます?」と言われたが残念ながら時間がないので辞退させてもらった。HiFiオーディオという趣味は我々の世代で絶滅してしまうのかもしれない。
淀川堤防を降りると京阪 橋本駅が近づいてくる。
橋本湯というお風呂屋さん。入口の瓦細工が立派で少し驚く。
この二階建てが連なった感じに、趣向をこらした木細工は、ひょっとして元遊郭?と思わせる。
調べてみると勘はあたりで、江戸時代からの遊郭だった。大政奉還の後の鳥羽伏見の戦いで、劣勢を強いられた幕府軍がここ橋本の土地を召し上げ陣を作ったところ、なんと淀川の向こうから政府軍に寝返った高浜砲台から迫撃を受け、橋本は焼けてしまい、幕府軍は大阪へ逃げ、大阪城にいた徳川慶喜も江戸へ船に乗って逃げ帰ることになった。
その後また遊郭は復興を遂げるが明治10年に淀川の向こうに京都と大阪を結ぶ鉄道ができると訪れる客は激減したという。京街道沿いは木津川、宇治川があるから鉄道を通すのが大変だったらしい。つくづく「淀川のあっち側」にやられてしまった橋本であった。
ところがどういうわけか明治時代に再度支援をうけ遊郭は復活して、昭和の売春禁止法ができるまでは栄えていたらしい。
この橋本という場所、おもしろそうなので次回の京街道のスタート時にもう少し散策してみたい。
ということで今日はここまでにして京都に帰って、映画「愚行録」を観ました。
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