2023年10月25日水曜日

【奈良】山辺(やまのべ)の道

 久方ぶりの街道歩きシリーズですが、今回は日本で現存する最古の道と言われる奈良県の山辺(やまのべ)の道を歩きます。

最古の道だけあって、道沿いに奈良時代以前の数多くの古墳があり古事記、日本書紀の世界を味わえます。さらに、地域の里山集落による道の整備が行き届いており、道沿いの果樹園が大変美しく、いままで多くの街道を歩いてきましたが、ベストの部類に入ると思います。

山辺の道の場所は、近鉄桜井駅と天理駅の間の東の山のふもとの南北の20キロ弱のルートになります。



天理市観光協会のサイトにあるコース案内です。



山辺の道沿いにある天皇陵は、10代の崇神(すじん)天皇と12代の景行天皇の古墳があります。また景行天皇古墳のすぐ南には纒向(まきむく)遺跡が発掘されており、邪馬台国の畿内説の有力候補地とされています。

卑弥呼の邪馬台国というのは中国の書籍「魏志倭人伝」に記載された王国で、現在のソウル近辺から「1万5千里」と記載されているのですが、これが今で言う何キロかがわからない。唐の時代では1里が500mらしいのですが、これでも6000キロになるので日本を通り越してハワイにまで行ってしまいます。

ただ、魏志倭人伝が3世紀から4世紀あたりに書かれたので、ちょうど崇神天皇と景行天皇の時代と重なっています。



京都駅から近鉄特急に乗ります。新型のきれいな車両。



大和八木駅で乗り換えて三輪駅で下車。



大神(おおみわ)神社は山そのものが御神体である三輪山(467m)を祀っている山です。三輪山には4年前に登っています



大神(おおみわ)神社の拝殿。

三輪山に鎮座していると思われるのが大物主大神(オオモノヌシノオオカミ)。この神は、大国主命(オオクニヌシノミコト)が出雲にいたときに突如として現れ、国造りを成功させたくば自分を三輪山に祀るようにいいつけたと古事記に書かれています。



拝殿の先には「くすり道」があり、漢方薬に使われる草木が植えられています。大国主命に知恵を授けた少彦名(スクナビコナ)がもたらした医薬技術が関連しているように感じます。現実には渡来人だったのでしょう。



道は非常に良く整備されていて歩きやすくたいへん気持ちがよい。



大神神社の摂社の三ツ鳥居。三ツ鳥居とは中央の鳥居の両側に二つの鳥居が連なる珍しい形式。



山辺の道の道程のところどころには野菜や果物の無人販売所があります。他人を信頼できる日本というのはこの上なく素晴らしいと思う。



柿がたわわに実っています。この先の道中、柿の木の連続です。



茶屋で味噌田楽をおやつにいただきます。



カリンの木です。カリンは生ではたべられないのですが、ジャムに使われて喉に良いそうです。



絶対に自分たちだけでは食べられない量の柿。奈良県は和歌山県に次ぐ柿の生産量。



無人販売所で見かけた謎の果物。コブシくらいの大きさがありますが、「かぼちゃミカン」と書かれています。調べてみると「鬼柚子」という名称が一般的で、これも生食には向かず、甘煮などの調理にていただくようです。



これはザクロ。さながら柑橘類のオンパレードです。ザクロは実の中の粒を何かのトッピングに使うようですが、いままで食べたことあったかなぁ。



この刈り取りの終わった田んぼが広がる場所が、かつて景行天皇の宮があった場所だそうです。(纒向日代宮(マキムクヒシロノミヤ))。

景行天皇の息子が有名な日本武尊(ヤマトタケル)です。彼は父親の命令で九州の豪族、熊襲(クマソ)の兄弟を討ち取ったのち、さらに父親から東国、相模を平定するように命令され、艱難辛苦の後、命を達成して帰る途中に伊吹山で怪物と戦い、その怪我が原因で死んでしまいます。

日本武尊は大活躍したにもかかわらず死んでしまい天皇にはなれませんでしたが、息子は第14代の仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)になっています。



さらに進むと、相撲発祥の地と言われる相撲神社。この場所で第10代垂仁(すいにん)天皇が見守る中、最初の公式の取り組みが行われました。



天皇贔屓の野見宿禰(のみのすくね)が、大和の剛勇、當麻蹶速(たいまのけはや)を打ち破ったのですが、最後は相手の骨を蹴り砕いて殺すという壮絶な戦いで、全然相撲とちゃうやん!。K-1を通り越してローマのグラディエーターです。

相撲というのは五穀豊穣を祈願する儀式的要素が強いという認識だったのですが、元祖が全く異なるのに驚きました。

(日本相撲協会HPより)


渋谷向山(しぶたにむかいやま)古墳第12代景行天皇陵の古墳だそうです。古墳というのは普段あまり目にしないのですが、山辺の道から見えるこんもりとした丘陵の全てはまず古墳とみて間違いないようです。



シンガポールでよく見かけた極楽鳥花かと思い、調べると、ダンドクという花だそうです。江戸時代に園芸用として渡来してきた珍しい花。



西方面を望むと左に二上山(517m)、右には葛城山(959m)が見えます。



こちらは行燈山古墳第10代崇神(すじん)天皇陵の古墳ということです。



この古墳は周りに濠(周濠)がめぐらされています。古墳は墓なので濠は必要ないはずなので何故、濠が存在するのは今でも謎のようです。

私見ですが、墓とは言うものの丘陵地は見張りや防衛には最適なので、城として利用されていたのではないでしょうか。



山辺の道の中間地点にあるトレイルセンター。登山靴などトレイルグッズも販売していますが、「洋食Katsui」という名前のレストランになっています。

このレストランは開放的で見晴らしの良いベランダ席もあって平日なのに並ばなければならないほどでしたが、スタッフも明るくて待つだけの値打ちがあります。



好物のエビフライ定食を頂きました。なかなか美味しい。



食事の後の後半戦を歩き始める。コスモスが大変美しい。



ため池で群れている金魚たち。



ため池の横にあるのが西山塚古墳。皇女の墓ではないかと考えられている。



なだらかに広がるこの土地が内山永久寺(うちやまえいきゅうじ)跡。数多くの伽藍を有し、大和国でも有数の大寺院であったそうですが、全く何の痕跡もない。



見晴らし台にあった図ですが、左下の名前「堀田里席」は江戸時代中期、寛政の図師のようです。これを見ると、確かに堂々たる大寺院です。

内山永久寺は、明治の廃仏毀釈の際に廃寺でされてしまったのですが、大寺院の中でも、これだけ徹底的に跡形もなくなってしまったは珍しいようです。

廃仏毀釈とは言うものの、大概は神社と合体したりして存続している寺が大半なのですが、ここは廃仏毀釈というよりは、信長に焼き討ちにあったかのように見受けられます。

学者のなかには「寺の中心人物が勤王派だったのでは?」という説を唱える人もいるようです。



山辺の道も終点に近づき、石上神宮(いそのかみじんぐう)にやってきました。境内に入って驚いたのがニワトリが鳴きながら放し飼いにされていることです。



20~30羽くらいのニワトリが小屋の内外をうろつき回っています。この鳥は伊藤若冲の絵で見かけたような立派な鳥で、調べると小国鶏(しょうこくどり)という種類で軍鶏のような闘鶏の一種だそうです。

彼らは夜になるとイタチなどに襲われないように高い木の上に飛び移って一夜を過ごすそうですが、烏骨鶏(うこっけい)やレグホンは飛べないので小屋の中で寝るそうです。



この石上神宮も古事記に登場する非常に古いお寺で、祭神は剣の化身である布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)。この剣は、初代天皇の神武天皇が東征の際に危機に陥ったとき、夢の中に現れた天照大神が授けたというまるで映画のシーンのような伝説を持っています。



この鎌倉時代の拝殿は国宝に指定されています。



さて、山辺の道の散策を終えて近鉄天理駅に向かって歩いて行きます。天理駅というのは今まで行ったことがなかったのですが、天理教本部がある地区になっており聖地(ちば)と呼ばれています。

この壮大な寺院が天理教教会本部。天理教は江戸時代、中山みきという人を教祖として誕生した天理王命(てんりおうのみこと)を中心とした一神教です。



商店街を駅に向かって歩いて行く途中に見かけたこの巨大な建物は信者詰所で、信者の居住施設のようです。この大きな煙突はどうやら風呂の煙突らしいですが、まさかいまでも薪でお湯を沸かしていることはないかと思いますがどうでしょう。



天理教については何にも知らないのですが、この辺りを歩く人たちの多くは老若男女問わず共通の紺色のはっぴを着ています。

商店街にはコンビニやマクド、ユニクロといったビッグネームのお店はなく、昭和に帰ったかのような小規模の商店が立ち並んでいますが、決して寂れるどころか、むしろ活気があります。

若い人たちも多く、誰もスマホを使っていません。天理教のモットーは人々が「陽気くらし」ができる世の中を目指すらしいですが、少なくとも京都や大阪の大都市の人々の表情よりは明るい表情をされているのが印象的でした。

本通りを過ぎると天理駅があり、ここから近鉄に乗って帰宅することにします。



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