2023年1月12日木曜日

【西国街道】相生駅、有年宿、三石宿

 姫路から備前までの2日目です。

初日のブログはこちら。

昨夜は姫路のホテル「LIVEMAX」に泊まりました。全国旅行支援割引と連泊割引があったので二泊で12000円弱と安いです。LIVEMAXは露天風呂つきの大浴場があり疲れた体には大変ありがたいです。部屋は普通ですがベッドは寝心地がよかった。夜は姫路駅そばの居酒屋で食事。

姫路駅から相生駅まで戻って街道歩きを始めます。朝8時25分。今年の1月は暖冬とは言え、朝方は手袋がないとつらいです。



2日目の記事で取り上げた場所をマップにプロットしたのがこれです。相生市から赤穂市、そして岡山県備前市までの道のりです。


相生市ですが全体的に寂れた空気が漂う場所でした。日本の人口は2008年がピークで2022年時点で2.5%減少していますが、相生市の統計を見ると、1975年をピークになんと28%も減少しています。半世紀の人口減少に加えて少子高齢化が追い打ちをかけています。

やはり相生を牽引してきた播磨造船の衰退が一番の原因なのでしょうか。

相生駅からしばらくは国道2号線のすぐ横を歩きます。



時々2号線の脇道にそれますが、海軍兵の殉職碑があります。今回のルートでは庄屋さんらしき記念碑と共に、太平洋戦争の殉職の記念碑もたびたび見かけました。

「海軍機関兵」という言葉は初めて見かけましたが機関兵とは軍艦の動力部を担当していた兵士のことだそうです。船と一緒に沈んだのでしょうか。悲惨な死に方です。

そう言えば、宇宙戦艦ヤマトでも徳川機関長がいました。映画版「愛の戦士たち」で亡くなってしまいましたが。



若狭野天満神社。坂の上になりますが登ってみます。



天満神社なので菅原道真を祀った神社ですが、初夏にはアジサイの花がよく咲くそうでアジサイ神社という別名で知られおり、魔除けのご利益があるそうです。

アジサイがなぜ魔除け?」と思い調べてみると、アジサイの花の形が薬玉(くすだま)に似ているからとある。

で、「薬玉って何?」と調べると平安時代から5月の端午の節句に香料を入れた袋のまわりに花をちりばめて柱などに吊るしたものだそうです。そう言えば、お祝いイベントのくす玉も、薬玉だったのですね。

考えれば最近くす玉も見かけなくなりました。お祝いイベント自体がない...



拝殿にはひょうたん占いがあったので、お賽銭をあげて占ってみました。「進む道には山があるがチャンスなのでズンズン行け」とのお告げでした。

実際この先には船坂峠という西国街道の難所が待ち構えていました。まさにお告げ通り!



拝殿の上には絵がびっしりと並んでいます。中央の碁を打つ中国風の絵の周りには赤穂浪士の人物像がぐるりと並んでいます。ここから先、赤穂の神社には全て赤穂浪士の絵がありました。やはり地元のプライドなのですね。



若狭野天満神社でカップヌードルでお昼ご飯にしたあとは再び歩き始めます。

このあたり何も無さ過ぎて間違って線路の横の道を歩いてしまい、出口の柵を乗り越えると立ち入り禁止になっていました。



踏切で待っていると山陽本線の黄色い電車がやってきました。



有年駅を通り過ぎます。有年と書いて「うね」と読む。



写真を撮り忘れましたが千種川を渡って東有年に入ります。

ここは宿場町、有年宿ですが、ちゃんと案内板が立っていました。案内板によると有年宿は千種川の西側のこの場所、東有年のあたりにあったそうですが、本陣跡や宿場などは千種川の増水で無くなってしまっているそうです。



千種川そばの庄屋さんの屋敷門。この後ろの山が大鷹山で上には大鷹山城があった。赤松家、宇喜多家と城主が変わり、宇喜多が織田信長に支配下になった後は廃城になったと書いてある。



大避(おおさけ)神社。秦氏に関係する神社のようで、養蚕を教えたという言い伝えがあるそうです。さきほどの若狭野天満神社で、なぜ瀬戸内に近い相生、赤穂で「若狭」なのか?と思いましたが、朝鮮から日本海を渡り若狭湾からやってきた秦氏に由来しているのではないかと思います。



この神社の拝殿の上にも赤穂浪士の絵が並べてあります。



石像五輪塔。鎌倉時代末期頃に西国街道を旅する人々の安全祈願に建てられたと考えられるようです。



この先から国道2号線と分かれて有年峠の山道に入って行きます。迂回する国道2号線は鯰(なまず)峠と言われ、明治18年、明治天皇の四国巡幸の際に難所の有年峠から鯰峠へ幹線道を付け替えたと書かれています。

ここまでが播磨国で山の向こうは備前国です。



山道の入り口にある獣害フェンス。この太いかんぬきをゲートの向こうから差し込むのに一苦労した。女の人には無理かも。



ここから40分ほど山道(林道)が続きます。



かなり大きい鉄製の箱ワナ。熊かイノシシか。ちょっと怖い。


岩を切り通した跡があります。



西国街道の案内版。あまりに人気がないのでこういう案内板があると安心する。



ほとんど人が歩かないようで倒木もそのままの状態。



山道の出口。こちらのゲートのかんぬきは操作しやすかった。



梨ケ原の集落に出てきました。ちょっとした平野が広がるところは稲作ができるので集落があります。



今回多分初めて見た西国街道のルート案内版。三石宿に向けて進みます。



ここ梨ケ原の南、船坂峠東の山地に産業廃棄物最終処分場の建設計画があるようです。昨年住民投票で反対多数となったと記事に出ていました。



船坂峠手前の船坂神社。ここでも秦氏を神様として祀っています。こんな山の中の集落にやってきた秦氏はさぞかしスーパーテクノロジーを持った未来人のように見えたことでしょう。



ここにも神社拝殿の上には板絵があります。これは歌舞伎の演目、源平布引滝の名シーンで、平家に追われていた頃の源氏の白旗を持った女がびわ湖で引き上げられるところ。

この後、女は白旗を持った片腕を斬り落とされて絶命しますが、おかげで白旗は平家に渡らずに済みます。



ここでも天井の周りに並ぶのは赤穂浪士。明治の頃の男の子は47士全員の名前を言えたんじゃないかな。



明治天皇駐輩の碑。「駐輩」とは一時的に車を停めることを言いますが、それだけで陸軍大将男爵の書が石碑になるのだからすごい。



旧街道の面影を感じさせる道。



船坂峠の道。実際はこれより14m上の道だったのを明治天皇巡幸の際に馬車が通れるように切り通したようです。

西国街道有数の難所だったそうですが、中山道の難所、碓氷峠や和田峠(標高1500m以上)と比べれば全然大したことありません。



ここから先はいよいよ岡山県です。いやー兵庫県は広かったなぁ。



県界の碑のそばにあった別の石碑。さざれてしまって判読できないが、タイトルは「船坂山義挙の碑」とある。

調べてみると、これは鎌倉時代末、後醍醐天皇が元弘の変で幕府に捕らえられ、隠岐の島へ島流しにされる道中、この船坂峠を通過すると読んだ備前国の児島高徳(たかのり)が身を挺して後醍醐天皇を奪還しようとしたことを記念した碑であることがわかりました。

結果的には後醍醐天皇を連行した幕府はここを通らなかったので奪還計画は失敗に終わったのですが、敢えてここに石碑を置いたことで、ここを通過した明治天皇に備前をアピールする目的があったことが透けて見えます。

北朝の家系である明治天皇は、後醍醐天皇の南朝こそが正統だと言われています。



船坂峠のあとは三石(みついし)宿へ向かいます。2日目でまだ歩けたのですが、この先の鉄道駅が赤穂線の備前片上駅でかなり遠いので三石駅を今日のゴールにします。



山陽本線の三石駅。無人駅ですがSUICA(ICOCA)が使えるので何ら不便はありません。2日目の宿も姫路駅のLIVEMAXホテルですが戻るのに電車で45分ほどかかりました。ちょっと遠すぎた(反省)。




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