2020年1月18日土曜日

蓮華寺、祟道神社、三宅八幡宮

宝ヶ池のある丘陵地帯は松ケ崎、その左奥方面が上賀茂、松ケ崎の後ろにある東西の丘陵とそれにはさまれた一帯を岩倉と呼びます。

岩倉の東の丘陵地帯のすそ野を、上高野と呼び、そこにある蓮華寺、祟道神社(すどうじんじゃ)、三宅八幡宮を訪ねます。


今回の三つの名所の場所です。自宅の烏丸御池から自転車で行きましたが、川や丘陵、電車があって方向を失いやすく、GPSで確認しながらです。


まずは蓮華寺(れんげじ)です。もともと今の京都駅あたりにあった鎌倉時代のお寺が応仁の乱で焼失したので、江戸時代に再建したものです。東の叡山延暦寺を総本山とする天台宗のお寺。


無数の古い石仏の真ん中に新しめの地蔵がスッと立っている姿がよい。これらの石仏は京都市電河原町線工事の際に発掘されたもの。河原に葬られた死者を供養する石仏たちがったのでしょう。


朝のすがすがしい光が苔むす庭をやわらかく包む。


こちら本堂とお庭。この掛け軸の「佛」という字のバランスが絶妙。


拝観料を払ったときにもらった券の絵柄。仏陀誕生の際の天上天下唯我独尊の図か。


池泉鑑賞式というスタイルのお庭だそう。


次に訪れたのが祟道神社。祟道天皇(すどうてんのう)と言われる早良親王を祀っています。早良親王は、長岡京への遷都、造宮の責任者であった藤原種継(たねつぐ)暗殺の黒幕の疑いをかけられ、淡路島流刑の途中で亡くなってしまった。

はっきりした証拠があるわけでもなく、無罪を主張しつづけていた早良親王の母兄弟である桓武天皇は忸怩たるものがあったが、その後、桓武天皇の夫人、皇后、母までが次々と病死、さらには疫病に加えて洪水まで発生したので、これを早良親王の怨霊の祟りと恐れた桓武天皇は、遷都を決意する。したがって長岡京は10年未満という短命の都となってしまった。


二つ目の鳥居。長い参道。


社殿に向かう途中に登山道があり、小野毛人朝臣墓(おののえみしあそん)と書いてあった。今日は登山をするつもりはなかったが140メートルと書いてあるし少しなので登ってみる。


なるほど京都北山の登山道っぽい。


石碑がありましたが、風化して何が書いてあるのかまったくわかりません。調べてみると飛鳥時代の遣隋使、小野妹子の子である毛人(えみし)の墓だそうです。

このあたりで、石棺が発見され、その中に墓誌(故人についてのことが彫られた石碑)があり、調べてみると小野毛人であることが判明したそうです。墓誌は国宝になっているとのこと。

祟道神社ができるずっとずっと前の話です。


修学院の向こうにポッコリ盛り上がっているのは吉田山です。


こちら祟道神社の本殿。いたって普通の社殿。恐ろしい怨霊を祀っているようには見えません。


さて今日の最後は、三宅八幡宮。かなり手前の車道をまたいで大きな鳥居があります。以前は参道だったのでしょう。


自転車を停めて参道を進む。


こちらが最後の鳥居です。よく見ると、狛犬の代わりに鳩がいます。こちらの八幡様の起源は、さきほど登場した遣隋使の小野妹子が奈良から九州に到着したあたりで病気になってしまい、宇佐八幡宮にお参りしたところたちどころに回復したことから、宇佐八幡宮を勧請したことに端を発しています。


なかなか鋭い目線をした鳩です。

鎌倉時代の終わりの武将、児島高徳(こじまたかのり)、別名、三宅高徳が八幡宮を尊崇したことから三宅八幡宮という名になったそう。

また、児島(こじま)のかわりに、「ことり」とも呼ばれていたので、狛犬の代わりに鳩になったようです。神社には時々、ダジャレがありますね。


こちら児島高徳。小鳥にしては、なかなか強そうです。


灯篭には鳩ポッポの置物が並んでいてかわいい。


鳩は、虫をついばむ。虫=かんの虫。なので子供にご利益があるということになっているようです。ダジャレがダジャレを呼んでいます。こんなんで本当にご利益があるのでしょうか。

それでもお地蔵さんの前掛けを真似て、多くの人たちが子供についての願い事を書いています。ちょうど私が訪ねたときも、若いお母さんが生後間もない赤ちゃんを抱いて神主さんからお祓いを受けるところでしたが、お母さんより、おばあちゃんとおじいちゃんの方がスマホで撮影したりしてはしゃいでいました。


三か所の名所を観た後は、一条寺ラーメン地帯に立ち寄り、大蔵ラーメンというお店でお昼にしました。背油系で魁力屋ラーメンとよく似ていて美味しかった。


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