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2024年11月7日木曜日

【広島】宮島の弥山と厳島神社

(弥山頂上から瀬戸内海四国側を望む)


西国街道歩きで広島市から岩国市まで歩いたのですが、その機会に以前から登りたかった宮島の弥山(みせん)(530m)に登ります。

全体で2泊3日の旅で弥山登山は2日目だったので前後の行程のリンクを貼っておきます。


弥山の登山コースについて紹介しておきます。これは弥山にあった案内版です。北が右なので要注意。右から左へ登ります。

登山コースは大きく3つあり、①谷道の紅葉谷コース、②尾根道の大聖院コースと③谷尾根ミックスの大元コース。


下の図が実際に歩いた弥山登山のルート図になります。といっても厳島神社の観光もしているので登山だけではありません。

今回我々は登りを大聖院コース、下りを紅葉谷コースにしました

大聖院コースはとても整備されていますが、ほとんどが石段なので腿の筋肉に負担がかかりました。紅葉谷コースは谷コースですが道は歩きやすいです。紅葉が楽しめるのはふもとの紅葉谷公園だけでした。

厳島神社の観光も含めて全行程約9km、5時間、累積標高600mでした。登山道は大変よく整備されているのでソールがしっかりしたスニーカーであれば大丈夫です。多くの外国人は、ちょっと散歩、程度の服装で登っていました。



昨夜は宮島にあるホテル「リブマックス安芸宮島リゾート」に宿泊しましたが、幾らでも外国人が泊まりに来るせいか値段に内容が全く釣り合わない宿で、はだはだ不満でした。

10時前に宿をでて歩くと、今でも使われていそうな井戸がありました。「誓真釣井」と書いてあるので調べてみると江戸時代の半ばに誓真(せいしん)という浄土宗の僧がいて、水不足に悩む島民のために島に10箇所の井戸を掘ったそうです。

すぐそばが海になっているにも関わらず、水は塩分のない真水で美味しいそうです。

誓真さんはそれに加えてご飯のしゃもじを発明した人とされています。なのでしゃもじの発祥の地は宮島。日清、日露戦争の際は広島を出航した船は「敵をめしとる」ために厳島神社に立ち寄りしゃもじを奉納したそうです


宮島港にむけて歩いていると鹿に遭遇。宮島には500頭の鹿がおり、そのうち200頭は町に住んでいるとのこと。道路もシカさん優先のようで。



宮島港そばにある平清盛像。吉川英治の「新平家物語」がとても面白かったのですが、平清盛はおそらく日本で初めて本格的な外国との貿易を通して偉大な国家にしようとするビジョンを持った指導者であったのではないかと思います。

平清盛は国際都市として福原に遷都しましたが、それ以前から厳島神社を壮大できらびやかな神殿にしていた理由は、日本を訪れる宋などの外国船に日本という国家の偉大さを見せつけたかったんじゃないかと思います



宮島表参道商店街。平日なのもあり8割以上が外国人といった感があります。嵐山ほどではありませんが。



表参道商店街から一つ奥まった町家通りに入ると急に外国人がいなくなります。以前は町家通りが本通りで、表参道商店街は昭和になって埋立地に作られたもの。

五重塔が見えて絵になる。



町家通りからすこし奥にある幸神社(さいのかみ)。神社から町家通りに向かって下り坂になっていますが、江戸時代に表参道商店街のある部分が埋め立てられる以前は、ここが船着き場だったそうです。

船着き場の入り口には鉄製の金鳥居があり、幸神社では航行の安全を祈願するのが習慣になっていたそうです。



大聖院の仁王門。今回弥山への登山ルートは大聖院コースから登るのですが、大聖院コースはこの仁王門手前を左に曲がらねばなりませんが、知らずに大聖院に門を入ってしまいました。



大聖院の境内は縦に広く真言宗だけあって高野山のような雑多な感があります。ホームページには平安時代に弘法大師が弥山で修行したときに開基したと書かれていますが確証はないようです。

でも空海は讃岐出身で四国で修行したのは確かなので宮島に来たのは大いにあり得る話でしょう。


観音堂と磨尼殿。


大聖院コースが大聖院から登れないことがわかり迷ったあげくようやくコースに入る。外国人も皆迷っていました。



沢沿いの歩道を進みます。弥山登山には奥さんも急遽参加してきました。奥さんは日帰り登山です。



砂防堰堤は岩を積み重ねて自然の景観を維持しています。



眼下に大鳥居が見えるように樹々が除かれています。



賽の河原。ここで標高260m。



紅葉もチラホラ見られます。



標高的にはほぼ登り切ったところにある仁王門。平成に台風で再建しています。仁王像は中国のお寺から譲り受けたものだそう。



仁王門から弥山頂上へ向かうにはいったん下に迂回してから直登します。



頂上付近は巨大な花崗岩の岩石になっていますが、登りやすい道です。



水掛地蔵さんに柄杓で水をかけた。



転がり落ちると大惨事になりそうな巨石。



登山口から約2時間で弥山頂上に到着。人が写りまくっています。頂上はとても広く、巨大な展望台が構築されているので、景色を楽しみに登ります。



東方向のパノラマ。中央から右方向には大奈佐美島から呉市。左は昨日西国街道で歩いた廿日市です。



南東方向。中央左が江田島市の沖美町です。中央右のポツンとした島は小黒神島、無人島でダイビングスポットらしです。



南側。展望台下の頂上が見渡せます。外国人に占領されてしまった感があります。でもみんな楽しそうで日光浴をしている人たちもいます。

中央左に平たく浮かんでいる島は阿多田島。「あたたかい」が訛って島の名前になったとか。魚がたくさん獲れるそうです。



西の方角は宮島の西半分で、瀬戸内の向こうは岩国です。



頂上からすぐ下にある13仏。不動明王、釈迦如来もろもろのオールスター。



霊火堂にある消えずの火。空海が修行していらい燃え続けているという火で、平和記念公園の灯火の種火として使われているそうです。この茶釜の湯は万病に効くとのこと。



弥山本堂。



東方向の景色。左がロープウェイ駅のある獅子岩。海に浮かぶ島は絵の島。以前は米軍岩国基地専用の海水浴場だったそうです。



紅葉谷コースを通って下山していきます。宮島は人口が少なかったので原生林が多く残っていると案内版にありました。天然記念物になっています。



石段が多かった大聖院コースと違って紅葉谷コースは自然の登山道ですが歩きやすいです。




まだ少ない紅葉。



下山は1時間ほどで紅葉谷コース登山口に下りてきました。



紅葉谷川にかかる橋。もみじ橋と言われています。



もみじ橋の下には紅葉谷川からの水量調整のための小さな水門があります。これはブラタモリで紹介されたと歴史ガイドの奥さんの解説。



弥山登山のあとは厳島神社を見に行きます。五重塔が水鏡に映えるスポット。これも奥さん解説。



厳島神社の全体をGoogle Earthで見るとこんな感じです。水面に浮かんでいるような神殿は日本中というか世界中でここしかないんじゃないでしょうか。

瀬戸内海という波のない穏やかな海じゃないと決して作れないんじゃないかと思います。



左上の大きな建物は豊国神社、通称「千畳閣」と言われています。建築中に秀吉が亡くなってしまったので天井が全て張られていないそうです。



左側の拝殿を五重塔をバックに。



大鳥居。神秘的ですね。山の上左に見える白い三角の建物は昨日西国街道で見かけた海の見える杜美術館。仏教とキリスト教が融合したような宗教団体が運営しているようです。



厳島神社からフェリー乗り場に向けての道を振り返ると弥山の山頂(中央)が見えました。右の山頂は駒ヶ林(509m)、弥山頂上と30mしか変わりません。



フェリー乗り場の周りには大勢の鹿がいます。奥さんいわくこの鹿はいつもフクヤさんの前にいるそうです。準備中の札の前でジーっと待っている姿が微笑ましいですね。

宮島の鹿は人間が連れてきたわけではなくて、最初からいたそうです。鹿は泳ぐことができるので本州から泳いできたかもと言われています。



これで筆者の2日目の宮島弥山登山の旅は終わりで、日帰り登山でやってきた奥さんとJR宮島駅でお別れして、筆者は3日目の西国街道歩きに備えて、岩国の東横INNに宿をとりました。






2024年7月20日土曜日

深坂古道(紫式部が通った越前への道)

 7月も終盤となりそろそろ梅雨も明けようかという時期、気温は35度を超える日も多くなってきました。

我が仰木の里の畑でも急にキュウリが実らなくなりおかしいと思ったところ、35度を超えると生育が止まるようです。2週間前に撒いたニンジンの種も発芽しないのは35度を超えるとほとんど発芽しなくなるから。

暑すぎて長距離歩けないので、今回は歩く距離は短いけれどコンテンツ重視の深坂古道を行きました。深坂古道の歴史的意味は、①紫式部が通った道であることに加えて、②平清盛が敦賀-琵琶湖間の運河掘削計画の経路であった点にあります。

深坂古道は敦賀湾と琵琶湖北端を結ぶ経路にあり、敦賀三山の一つ、岩籠山(765m)のそばにあります。



拡大するとこのようになります。深坂古道は琵琶湖から敦賀までの最短でかつ高低差の少ないルートであったので、古来から人や物資の行き来に使われていました。

今、大河ドラマ「光る君へ」を毎週見ていますが、長らく職のなかった紫式部(まひろ)の父、藤原為時(ためとき)に突如、越前の国守の職が回ってきたので、為時は娘のまひろを連れて越前へ赴任の旅に就きます。

彼らは京の都から大津で船にのり、塩津で下船してから深坂古道を越えて敦賀へ向かったというわけです。

ドラマでは、政治工作のできない生真面目な無職の父(為時)を思いやって、藤原道長と秘密の恋人関係の紫式部が道長に口添えしたおかげで道長が為時に越前国守の職を与えたように描かれていましたが、これはドラマの脚色です。


加えて、同じく平安時代、紫式部の頃から150年ほど後(平安時代は長い!)、平清盛が敦賀と琵琶湖を水路でむすんでしまおうという壮大な計画を立てます。

敦賀からの笙(しょう)の川と、琵琶湖からの大川の間にある深坂古道の部分を水路でつないでしまえば、舟でむすぶことができるわけです。

といっても深坂古道の最高点は深坂峠といわれる標高370mの地形なので平安時代の土木技術では無理があり開通には至りませんでした

現在ではちょうどこの真下をJR北陸本線のトンネルが通っています。




JR新疋田駅の無料駐車場に車を停めて歩きだしますが、今回のルートは岩籠山の登山ルートの一部と重なっています。これは駅にあった案内版ですが、岩籠山の駄口コースに向かう道を南(この地図の左が南)に行くと深坂古道になります。

岩籠山は去年の12月に市橋コースから登って駄口コースを下りてきましたが、途中のインディアン平原からの眺めが大変すばらしかったです。

今日歩く距離は岩籠山登山の時と比べればほんのわずかですが、暑さが苦手な筆者としては十分な距離でした。



こちらが長浜市の深坂古道コースマップです。今回はJR新疋田駅から深坂地蔵まで歩いて引き返すルートです。


駅から少し歩くと深坂古道の入り口になります。



今日は歴女の奥さんと一緒です。



途中にあった紫式部の歌碑。

知りぬらむ ゆききにならす 塩津山
世にふる道は からきものぞと

まひろ(紫式部)を載せた輿を担いで、雑草の茂る道をエッサと歩く人夫が「やっぱりこの道は大変だなぁ」と言うのを聞いて、まひろが詠んだ歌です。

歌の意味は、「ねぇ、わかったでしょう?慣れたからって大変なものは大変なのよ、世渡りというのは大変なものよ」と人夫に言ったというように言われていますが、筆者は、まひろは自分に語りかけたんじゃないかなと感じました。

ドラマでは好奇心旺盛なまひろが、当時世界最先端のメトロポリタンであった宋(中国)との交易地である越前に行くのを楽しみにしているように描かれていましたが、この歌を見る限り、やっぱり京の都から離れるのを「からい」と感じていたように思えます。

ちなみに「からい」は「つらい」のと塩の交易の「塩からい」をかけています。



続いて今度は万葉集。塩津山(深坂峠)を越えていると馬がけつまづいた。これはきっと家人が自分のことを想っているのだろうという歌。

奥さんを家に残して単身赴任だったのでしょうか。

これは奈良時代なので、紫式部よりもさらに200年以上も前の歌。古道の歴史を感じます。



深坂古道の最高点である深坂峠(370m)にたどり着きました。ここは福井県と滋賀県の県境でもあります。平安時代で言えば、近江国と越前国の国境。

この峠は難所であったので、大正時代には少し東の新道野越えが開かれてそちらが主な街道に変わりました。

平清盛の壮大な計画はここを掘削して運河を通そうというものであったそうですが、標高370mを切り通すことは不可能なので隧道にしようとしたのでしょうか?計画自体が伝説の域に近いので具体的な考えは今となってはわからないようです。



深坂地蔵堂に到着。誰もいないようですが、比較的きっちりと人の手が入っていて猛暑のなか、涼やかな気分になります。



このお堂のなかにおられるはずの地蔵さん(深坂地蔵)は、平清盛の計画を実行すべき清盛の嫡男である重盛の指揮で掘り進んでいたところ、突然、人夫たちが腹痛を訴え、よくよく見ると掘っていた場所から地蔵が出てきたという伝説になっています。それがきっかけで掘止地蔵とも呼ばれています。

実際のところは、この野坂山地一帯は硬い花崗岩の地質なので掘るのが難しくこの場所に至るまでで挫折したんじゃないかと思います。



深坂地蔵堂にあった滝行場でふざける筆者。



深坂地蔵堂から引き返します。小川が流れていて時折風の通り道に入ると気持ちいい。ただ、ヒルがでないか若干心配です。



途中で見つけたキノコ。帰宅してからきのこ図鑑で調べてみると、ドクベニダケのようです。一応毒キノコ。よく似ているのにニオイコベニダケがありますが、これはもうちょっと小さいようです。



途中で地元の年配の方々が橋を架けていました。我々が橋を渡った第一号だそうです。深坂古道に対する地元の愛情を感じます。



柿の実が成長しつつあります。



深坂古道を終えて疋田の集落にやってきました。これは磐座ともよばれる大岩大権現。巨石信仰の一つです。去年登った岩籠山も名前からして巨石だらけの山でした。



これは岩籠山に登った時の写真。インディアン平原の巨石です。平安時代においてもこのあたりの花崗岩の岩は硬いことはわかっていたでしょうけれど、平重盛もやってみないと無理だと分からなかったのでしょうか。



疋田集落を流れる舟川は人工の運河で江戸時代の終わりに開通されました。敦賀から海産物が京都へ運ばれたそうです。疋田から塩津までは牛車で深坂古道を越えて行きました。



きれいに管理された集落。清水が流れる集落って良いですね。江戸時代の舟川の川幅は9尺(2.8m)だったそうなので、今よりも1メートルほど広かったはずです。



資料館があったので立ち寄りました。ここだけ川幅が広くて3メートル以上ありますが、これくらいの川幅を米や茶を積んだ船が往来していたというわけです。

敦賀へは重力に従って舟は滑り降りていきますが、逆方向へは人力で引っ張り上げながら舟は進みました。



平清盛の後も何度も深坂峠の掘削計画は立てられたようです。これらは江戸時代の資料でしょうか。左が塩津、右が敦賀になっていて間が深坂峠です。



やはり隧道(トンネル)を掘るつもりであったことがわかります。地図で調べてみると大体隧道の長さは2キロあります。

舟が通れる幅に加えて両側で舟を引っ張り上げる人夫の通路が必要なので、全幅4~5メートルは必要だったと思われます。

江戸時代でも銀山、金山で掘削の実績はあったのでしょうが、さすがに硬い花崗岩でこれだけの規模のトンネルは無理だったのでしょう。



疋田の集落を見学したあとは、敦賀市までいって「どんと屋」さんで海鮮丼をいただきました。ここの海鮮丼は掛け値なしの絶品です。大将の愛想もよくて、この海鮮丼だけを食べに敦賀に行ってもよいくらいです。