7月も終盤となりそろそろ梅雨も明けようかという時期、気温は35度を超える日も多くなってきました。
我が仰木の里の畑でも急にキュウリが実らなくなりおかしいと思ったところ、35度を超えると生育が止まるようです。2週間前に撒いたニンジンの種も発芽しないのは35度を超えるとほとんど発芽しなくなるから。
暑すぎて長距離歩けないので、今回は歩く距離は短いけれどコンテンツ重視の深坂古道を行きました。深坂古道の歴史的意味は、①紫式部が通った道であることに加えて、②平清盛が敦賀-琵琶湖間の運河掘削計画の経路であった点にあります。
深坂古道は敦賀湾と琵琶湖北端を結ぶ経路にあり、敦賀三山の一つ、岩籠山(765m)のそばにあります。
拡大するとこのようになります。深坂古道は琵琶湖から敦賀までの最短でかつ高低差の少ないルートであったので、古来から人や物資の行き来に使われていました。
今、大河ドラマ「光る君へ」を毎週見ていますが、長らく職のなかった紫式部(まひろ)の父、藤原為時(ためとき)に突如、越前の国守の職が回ってきたので、為時は娘のまひろを連れて越前へ赴任の旅に就きます。
彼らは京の都から大津で船にのり、塩津で下船してから深坂古道を越えて敦賀へ向かったというわけです。
ドラマでは、政治工作のできない生真面目な無職の父(為時)を思いやって、藤原道長と秘密の恋人関係の紫式部が道長に口添えしたおかげで道長が為時に越前国守の職を与えたように描かれていましたが、これはドラマの脚色です。
加えて、同じく平安時代、紫式部の頃から150年ほど後(平安時代は長い!)、平清盛が敦賀と琵琶湖を水路でむすんでしまおうという壮大な計画を立てます。
敦賀からの笙(しょう)の川と、琵琶湖からの大川の間にある深坂古道の部分を水路でつないでしまえば、舟でむすぶことができるわけです。
現在ではちょうどこの真下をJR北陸本線のトンネルが通っています。
JR新疋田駅の無料駐車場に車を停めて歩きだしますが、今回のルートは岩籠山の登山ルートの一部と重なっています。これは駅にあった案内版ですが、岩籠山の駄口コースに向かう道を南(この地図の左が南)に行くと深坂古道になります。
岩籠山は去年の12月に市橋コースから登って駄口コースを下りてきましたが、途中のインディアン平原からの眺めが大変すばらしかったです。
今日歩く距離は岩籠山登山の時と比べればほんのわずかですが、暑さが苦手な筆者としては十分な距離でした。
途中にあった紫式部の歌碑。
知りぬらむ ゆききにならす 塩津山世にふる道は からきものぞと
深坂地蔵堂に到着。誰もいないようですが、比較的きっちりと人の手が入っていて猛暑のなか、涼やかな気分になります。
このお堂のなかにおられるはずの地蔵さん(深坂地蔵)は、平清盛の計画を実行すべき清盛の嫡男である重盛の指揮で掘り進んでいたところ、突然、人夫たちが腹痛を訴え、よくよく見ると掘っていた場所から地蔵が出てきたという伝説になっています。それがきっかけで掘止地蔵とも呼ばれています。
深坂地蔵堂から引き返します。小川が流れていて時折風の通り道に入ると気持ちいい。ただ、ヒルがでないか若干心配です。
途中で見つけたキノコ。帰宅してからきのこ図鑑で調べてみると、ドクベニダケのようです。一応毒キノコ。よく似ているのにニオイコベニダケがありますが、これはもうちょっと小さいようです。
途中で地元の年配の方々が橋を架けていました。我々が橋を渡った第一号だそうです。深坂古道に対する地元の愛情を感じます。
柿の実が成長しつつあります。
深坂古道を終えて疋田の集落にやってきました。これは磐座ともよばれる大岩大権現。巨石信仰の一つです。去年登った岩籠山も名前からして巨石だらけの山でした。
きれいに管理された集落。清水が流れる集落って良いですね。江戸時代の舟川の川幅は9尺(2.8m)だったそうなので、今よりも1メートルほど広かったはずです。
資料館があったので立ち寄りました。ここだけ川幅が広くて3メートル以上ありますが、これくらいの川幅を米や茶を積んだ船が往来していたというわけです。
平清盛の後も何度も深坂峠の掘削計画は立てられたようです。これらは江戸時代の資料でしょうか。左が塩津、右が敦賀になっていて間が深坂峠です。
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