2024年11月6日水曜日

【西国街道】廿日市宿(古江駅)~玖波宿(大野浦駅)

 2024年11月、アメリカ大統領選挙にトランプが選ばれてしまいました。

ローマ帝国の時代から異民族を非難して群衆の人気を勝ち得た指導者は、まずは反対勢力を一掃し、次に自分を批判する知識人や文化人を追放してから国民の言論を奪って統制していくのが典型なので、これからが非常に不安です。重罪判決を受けても平気でいられるとはもはや打つ手なし盤石さです。

唯一の救いはトランプの老い先が短いことで、もしも若かったら恐ろしいことになるでしょう。

さて、今回は西国街道歩きの続きです。

京都から歩き始めて通算20日目で廿日市宿まで来ました。西国街道には60の宿場町がありますが40個目が廿日市宿なので2/3まで来たことになります。

今回は廿日市宿(古江駅)から関戸宿(新岩国駅)まで歩きました。ついに山口県入りです

旅程としては2泊3日で、2日目は街道歩きをせずに宮島の弥山を登ったので全体としてはこのようになりました。

  • 1日目 広電古江駅~JR大野浦駅 21km、5時間、3.2万歩
  • 2日目 宮島登山 9km、5時間半、1.8万歩(リンク)
  • 3日目 JR大野浦駅~新幹線新岩国駅 22km、6時間、3.2万歩(リンク)

広島市を過ぎて進む今回のルートは、宮島など瀬戸内海の素晴らしい景色が楽しめました。宿場町はほとんど面影はなく道路歩きが多かったですが、時々見捨てられたような里山の道がありました。


これが1日目の記事で紹介した場所をプロットした地図です。

廿日市宿までは国道2号線沿いの側道を歩いて行きますが、その先は内陸側に入り高速道路沿いの道を歩くルートになっています。

宮島の対岸の大野地区に歴史の案内説明が多かったので、自然にチェックポイントも増えてしまいましたが、宮島の弥山が見えるくらいで大して面白い見どころはありません。


新幹線の広島駅からJR山陽本線で西広島駅まで行き、そこで広電に乗り換えて古江(ふるえ)駅で下車したのが10時前です。

前回は9月初めで気温が35度近いなか歩いた2日目で広島駅から出発しましたが、熱中症でギブアップしたのが広電の古江駅でした。今はさすがに11月になり天気が良くてひんやりした気温で街道歩きには最高のコンディションです。前回と比べれば体力の消耗度は半分くらいの印象でしょうか。


古江駅を出てちょっとの場所にあった立派な石碑は明治43年の道路改修の石碑でした。古江から反時計回りに広島市を一周するようにつながる道路の改修のようです。山地からの物資を古江経由で馬車で運べるように道路幅を広くしたと別の案内版に書いてありました。

今では高速道路はじめ多くの道路が走っていますが、明治、大正はまだまだ野山を切って走る貴重な道だったのでしょう。



山の上に立派なカテドラルが...調べると「ノートルダム広島」という結婚式場でした。福山城の側の結婚式場のほうがノートルダムに似ていたなぁ。



鷺(サギ)森神社。以前は西国街道の南はすぐ海であり、ここは漁船の船着き場であったと案内版にあります。明治半ばの地図をみると、すでに埋め立てられていたように見受けられます。



草津村に入ったところにある小泉家。江戸時代終わりの酒造屋さんでいまでも商いを続けておられるようです。



この屋根瓦は桟瓦(さんがわら)と呼ばれるものです。江戸時代の発明で、それまで瓦というものは平瓦と丸瓦という二種類の瓦を重ね合わせていたので重量がかさみ寺院や城郭などの頑丈な建築にしか使えなかったところ、平瓦の片端を丸型にすることで一種類の瓦だけで葺けるようになったので、こうして民間の家屋にも使うことができるようになったということです。



広島宿を過ぎてから西国街道の案内版が集落ごとに設置されていて、郷土愛を感じます。草津村は昔は軍港として使われており、「軍(いくさ)」の字で軍津という呼び名であったと書いてあります。また、牡蠣の養殖もさかんで、大坂で広島産の牡蠣を有名にしたそうです。

すぐ横には、牡蠣の養殖におそらく資金を提供した名医の西氏の石碑もあります。



昭和45年の地図でも西国街道の下は「かき養殖場」と書いてあります。

広島県は全国の牡蠣生産量の約6割を占めますが、その理由は牡蠣は干潮と満潮の間に空気にさらされて育ち、また河川からの真水が豊富なことを好み、広島湾がそれに適しているからだそうです。

今回の旅では牡蠣の良さそうな店が見つからず、全く食べなかったのですが、シーズンは12月~2月ということで、次回の旅では牡蠣三昧でいきます❗筆者はフィリピンやシンガポールでも生牡蠣を食べましたが一度も当たったことがないのを誇りにしています。

(「今昔マップ」より作成)


次々と神社やお寺が出てきます。これは塩釜神社。祭神は塩椎神(シオツチノカミ)でこの神様は山幸彦を竜宮城に案内した神様です。名前の通り製塩の神様でもあります。



八幡川を渡ります。北の山のさらに先の島根県との県境にあるのが広島県最高峰の恐羅漢山(おそらかんざん)1346mです。ちなみに島根、広島、山口の3県境のあたりに位置するのが山口県最高峰の寂地山(じゃくちさん)1337mなので、このあたりが中国地方の屋根ということになるのでしょうか。



お好み焼き屋大五郎の横にあったお好み機焼きの自動販売機。全卵粉を練り込んだ麺がウリのようです。冷凍になっているみたいです。広島県に入ってから食べ物屋さんはほぼ全てがお好み焼き。広島県民がこれほどまでにお好み焼きが好きだったとは知りませんでした。



広電楽々園駅北側が、山陽本線と岡の下川で区切られた袋小路になっていて迷う。唯一山陽本線の南に脱出できたのがこの地下通路。

このあたりもかつては塩田だったのが今は住宅地になっています。



昭和25年の地図では海老塩浜になっています。確かにかつては塩田だったのでしょう。

(「今昔マップ」より作成)



岡の下川から山を望んで。



山茶花(さざんか)を生垣にされています。



宮島街道の標識があるので調べてみると、この先西方向に進む街道がかつては山間部を通る西国街道だけだったのが、明治になって埋め立てが進み海沿いの国道2号線が新設されたので西国街道と区別するために宮島街道と名付けられたと書いてありました。



お昼になったので、廿日市宿近くの田丸食堂でお好み焼きを食べました。ご夫婦でやられているお店で、鉄板には2席しかないとても小さなお店です。焼くときに金属製の専用の重しでギュー、ジューと押し込むのが印象的でした。先代から初めて70年近く変わらぬ味だそう。

ご主人は廿日市宿のことをよくご存じで、明治維新の際は長州の藩士がやって来る際に宿場町の3分の2が焼けてしまったそうです。

とても穏やかで仲の良いご夫婦で、自分も含めてこういう夫婦になるのは理想的だろうなと感じました。

ご主人が「トランプが勝ちそうだなぁ」と言っていました。筆者はその時はまだハリスが逆転するものだと信じていたのですが...



廿日市宿にある天満宮です。天満宮なので祭神は菅原道真公。写真の中央部を見るとわかりますが、天満宮の境内の奥が丘陵になっています。コンクリートの擁壁が大変見た目が悪いのですが、珍しい地形かと思います。

この天満宮は厳島神社の神主として藤原親実(ちかざね)が着任した際に建立されたそうです。翌日訪ねる予定の厳島神社は創建時は佐伯氏が神主だったのが、承久の乱の後で佐伯氏が降ろされ、藤原親実を初めとする藤原家が神主の時代が続きますが、後に再び佐伯氏が奪い返します。

全く神社も政治も権力争いから逃れられませんねぇ。



廿日市宿跡の石碑のあるところは市民センターになっていて宿場町の面影はありません。毎月20日に市が立ったことから廿日市という名になったのですが、それは厳島神社の祭礼の最終日が20日だったからだそうです。



廿日市宿から瀬戸内海沿いの国道2号線ではなく、西国街道は山間部のほうへ進みます。実際に歩くまで宮島口を通るものだとばかり思っていました。気がついたら通り過ぎていたといったところです。

明治27年の地図には海沿いの2号線に「山陽道」と書かれているので、それ以前は海沿いは道らしい道はなかったのでしょう。山間部といっても最高地点が106mの四郎峠なので平地みたいなもんですが。



街道名物の一里塚跡がありました。少しは一里塚っぽい面影がある。



川べりにいたサギ。サギの見分け方も何度理解しても忘れる。サギにはアオサギ、シラサギ(=コサギ)の他にダイサギ、チョウサギなんてのもいますが、一番簡単なのが目尻から横にくっきり黒いマークがあるのはアオサギだけなので、右の灰色っぽいのがアオサギだとわかります。

左の白いのはシラサギ or ダイサギ or チョウサギですが、くちばしが黒いのはコサギだけなので正解はコサギのようです。

でもシラサギとダイサギも夏になるとくちばしが黒色に変わるらしいので、そうなると簡単には判別できないようです。



山陽自動車道の廿日市ICの下をくぐってから高速道路の側道を歩きます。街道歩きをしていて高速道路の側は大敵であり、道は悪くて危ないです。人間は近づくなということなのでしょう。

道路沿いにゴミ焼却場や火葬場がありました。土地が死んでいる感があります。




四郎峠(106m)を越えて、中山地区に入り、楽しくない道から脇道にそれる場所にある疣観音堂。「疣」という字は「いぼ」と読みます。お参りするとイボがとれるとか。

左の石碑は鎌倉から室町にかけて九州探題を務めた今川貞世(さだよ)の歌。探題とは治安部隊といったところですが、このあたり安芸地方も範囲内だったようです。

2首ありますが、この場所(大野中山)を通過したときに、俺はもう50歳でいつ死ぬかわからんなぁ、椎の木が茂っているなぁと感じたといった内容。



中山地区から少し北に行ったところには「海の見える杜美術館」があります。見るからにイスラム教っぽさを感じる建物ですが、調べてみると姫路市発祥の教団「平等大慧会(びょうどうだいえかい)」設立の美術館でした。

イスラム教の金色の尖塔のようなものはどうやら仏像のようで仏教とキリスト教を融合したような宗教のようです。

景色がよくて宮島の展望が良いそうです。



一里塚跡。



ついに宮島の弥山が見えてきました。明日登ります。



弥山を見ながら里山のふもとの道を進む。



このあたり宮島の対岸は大野村になっており、歴史に関する説明版が多く設置されています。日本最初の女帝である推古天皇の時代に太郎、次郎、三郎、四郎、十郎という五兄弟が分かれて土地を開墾したとされ、このなにもない場所は次郎の担当だったそうです。

さっきの高速道路沿いにあった四郎峠は四郎が担当した土地だったのですね。



この史跡は古代の厩跡で約16㎞毎に設置された馬の乗り換え場所だったそうです。高庭駅家(たかにわのうまや)跡と書かれています。平安時代には濃唹(のお)駅という名前に変わったとも。飛鳥時代や平安時代の歴史まで踏み込んでいて、この地域には相当な歴史研究家がおられるようですね。

考えてみれば「駅」という字は「馬」へんだったといまさらながら感心しました。



大野ICそばにある西教寺。ここは長州征伐の際に幕府軍の本陣が置かれたそうです。坂本龍馬が薩長同盟を実現したおかげで幕府軍は10倍の兵力にもかかわらず敗退してしまい、幕府は決定的なダメージを受けてしまいます。



宮島の山々がはっきりと一望できるようになりました。一番左が弥山です。



JR大野浦駅に来たのでとりあえず今日の西国街道歩きを終えますが、明日の弥山登山に備えて今日は宮島のホテル泊なのでJR宮島口に戻ることにします。時間は15時すぎでした。



JRと広電の駅からすぐの場所にフェリー乗り場があり、とても頻繁に船が出ています。一つの港にJR西日本と広電が所有する宮島松大汽船の2社がほぼ全く同じ船でフェリーを発着させています。



フェリー乗り場は修学旅行生と外国人でいっぱいです。外国人観光客にとって広島の原爆資料館と宮島のセットが大変人気のツアーパッケージになっているようです。



厳島神社の鳥居が見えてきました。



16時で陽が沈んでいきます。やっぱり11月なので日が短くなりました。



ホテルはリブマックスリゾート安芸宮島です。大勢の外国人から自明ですが宮島は対岸の宮島口も含めてホテルはどこもすぐに一杯になるようで、あまり選択の余地がありませんでした。

リブマックスは過去の街道歩きでも何度か泊まりましたが、ここは古い旅館を簡易的にリフォームしただけの老朽旅館で食事もバイキング、布団はセルフサービスと一人25000円とはとても思えない内容でした。放っておいても幾らでも外国人が泊まりにくるので簡単に金儲けをしている感じです。

フェリーが頻繁にでているので電車ですぐの広島駅か岩国駅周辺でホテルを選ぶのが正解のようです。

3日目の西国街道歩きの続きはコチラ





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