2026年1月15日木曜日

【東海道】近鉄烏森駅、熱田宿、鳴海宿、名鉄豊明駅

2泊3日で名古屋横断して岡崎まで歩く旅の2日目です。


2日目の詳細ルートを示します。熱田宿(宮宿)までは佐屋街道を歩きます。江戸時代の多くの旅人は桑名から熱田宿まで七里の渡しという舟で進みますが、海が荒れた日だったり、なかには舟が苦手な旅人もいて、佐屋街道はそういった旅人むけに用意された脇街道です。

2日目の旅の見どころは、日本の神社のなかでも最重要クラスの熱田神宮、そして織田信長の大バクチ的戦いであった桶狭間古戦場です。また、桶狭間近くの有松地区は日本遺産に認定されていて当時の街道の面影を良く保存された場所でした。

さらに、街道歩きを終えた後で、名古屋城にも見学に行きました

おかげで4万歩超えになったのでちょっとハードになってしまいました。



昨夜はアパホテル近くの焼き鳥屋「鳥開」で名古屋コーチンを食べてアパホテルの温泉に入ってゆっくり休みました。西口にはアパホテルのビルが2棟建っています。温泉が広くて露天風呂まであって良かったです。

翌日は早起きして昨日のゴール地点の近鉄烏森駅に到着したのが8時前。

名古屋駅につながる中川運河を渡ります。中川運河は名古屋港と都心を接続する物流水路として昭和の初めに開削されました。



名古屋高速道路の先にある堀川を渡る尾頭橋(おとうばし)が地名になっています。このあたりは大正時代から昭和にかけて花街や遊郭だったそうで、なんとなくそんな雰囲気が残っています。



国道沿いを南へすすみ熱田神宮の西側へ出てきました。烏丸通りから見た京都御所にとても良く似ています。入り口かと思ったけれど、神社になっていて中には入れない。下地我麻(しもちかま)神社とかいてある。



境内に入って巨大な御神木。



本宮です。まだ正月のせいか階段全体が巨大な賽銭箱になっています。

熱田神宮は三種の神器の一つである劔(草薙劔)が祀られています。昨日、七所社で日本武尊の腰かけ岩がありましたが、ヤマトタケルは東征のあと草薙劔を尾張の豪族の妻に預けて、伊吹山の怪物と素手で戦って敗北してしまいます。

ここに祀られているのはその劔であります

残り2つの神器である八咫鏡(やたかがみ)は伊勢神宮に、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は赤坂御所にあるようです。

三種の神器は壇ノ浦の戦いの際に安徳天皇と共に水没して鏡と勾玉は源氏によって発見されたものの、剣は紛失してしまいました。ですが、いつの間にか復帰したことになっています。

太平洋戦争で敗戦間近になった日本は「国体の維持」が最重要条件でありました。国民は1億玉砕しても国体は守らねば、と。

昭和天皇は「伊勢と熱田の神器を守って運命を共にする」と言われたそうです。



本宮の後ろをぐるりと周るコース(こころの小路)を歩いてみました。10分弱くらいのコース。撮影禁止なので写真はありません。清水社では石に清水を3回かけて願いをかけました。



こころの小路出口にあった神楽殿。



このあとベンチでサーモスから熱いお茶とビスコで小休止しました。

熱田神宮正門付近で見かけた散歩する鶏。御神鶏と言われる聖なるニワトリ様。筆者が昨夜食べた❗名古屋コーチンとは違う小国鶏(しょうこっけい)という種類の日本原産ニワトリのようです。



熱田神宮から堀川の渡しにつづく道。このあたりが熱田宿(宮宿)があったところです。熱田宿は大変大規模な宿場町で旅籠の数が250軒、1万人の人口がありました



堀川の七里の渡し場に出てきました。筆者は佐屋街道の陸路を進みましたが、桑名から出立した渡し舟はここに到着します。



左奥の堀川からこちらに向かって舟がやってきました。いまでも舟の行き来はあるようですが、江戸時代の熱田湊は尾張最大の湊でした。




左に描かれているのは江戸時代初期に造成された出島でそこには東浜御殿が造られました。
東浜御殿は名古屋城の本丸御殿に匹敵する規模で徳川家光上洛の際に宿泊したそうです



熱田湊を後にして再び東海道に戻ります。

呼続村の立派な道標。昔はこのそばまで浜になっていて、舟が座礁しないように声をかけあって舟を漕いだのが「呼続き」の由来だそうです。浜は「あゆち潟」と呼ばれていたのが、県名「愛知」の由来だと書いてあります



ちょっと疲れてきたので長楽寺のある呼続公園のベンチでひと休み。大陸系の様相をした石像があちこちにあってお寺の由来を調べてみたけどヒントになるものはなく、ペット供養を前面に出されているようだ。



名鉄本笠寺駅ちかくの笠寺観音。十一面観音の幟がすさまじく立っている。

奈良時代に呼続の浜に光る霊木が流れ着き、上人が観音を彫ったが、その後ずっと観音像は放っておかれ風雨にさらされて気の毒に思った女中の娘がそっと笠をかぶせてあげると、たまたまそばを通りがかった関白の息子に見初められて結婚し、お寺を建立した、という由来が書いてあります。



笠寺一里塚。今回の旅はよく一里塚が保存されています。しかし肝心の宿場町が開発されてしまっているのが残念。



天白川を越えてお昼どきになってきたのでランチを探す。今回は名古屋市なのでお店には事欠かない想定でカップヌードルもお湯も持参してきていません。

「昭和レトロ横丁」とあるのでお好み焼きとかラーメン屋を期待しましたが、スナックとかキャバクラでした。昭和カラオケ専門か?



ランチの良いお店がなかったのでマクドナルドでお昼にしました。疲れている時に甘いマックシェイクは効果的です。

鳴海宿の入り口あたりにある常夜塔。「秋葉大権現」とあります。宿場町が火事に遭わないようにとのことでしょう。



生涯学習センターになっていますが、このあたりが本陣があったところのはず。昔は海辺の潮騒が聞こえたので「鳴海」という名前が付いたそうです。いまでは港まで5kmも距離があるので随分埋め立てが進んだのですね。



広重の五十三次「鳴海宿」。鮮やかな青い暖簾は、この地で有名な絞り染めで、白い模様の部分を糸で絞って染まらないようにする工法です。

ここから桶狭間まで数十メートルの登り坂になりますが、広重の絵も坂道が描かれています。



名鉄鳴海駅そばにある松と石のレリーフ。飛脚と身分のある旅の女性が描かれています。



ここにも秋葉大権現の常夜燈。ここまでが鳴海宿だったのでしょう。



鳴海宿を過ぎてしばらく歩くと有松地区になりますが、ご覧の通り江戸時代の雰囲気がとても良く残されており、日本遺産に認定されています。

有松は五十三次の宿場町ではないのですが、次の知立宿まで距離があったので設けられた間宿(あいのしゅく)でした

尾張藩は鳴海宿と有松にだけ絞り染めを許可したので、ここの名産になりました。元々は、有松を間宿にする際に、桶狭間村から移住してきた職人が絞り染め技術を持っていたそうです。



歌碑があります。「あり松の柳しぼりの見世にこそしばしと人の立ちとまりけれ」。旅人が足を停めて有松絞りを買い求めている風景が浮かびます。



とても広い間口に虫籠窓が印象的な岡谷住宅。絞り問屋だったと書いてあります。



こちらも絞り問屋の重厚な蔵。窓の扉を見ると四層にもなっています。貴重な絞り染めか染料が置いてあったのか?それとも儲けた大金で買ったお宝?



有松は宿場町であることに加えて、祭りもありました。いまでも毎年10月に開催されていると書いてある。

この山車倉(だしこ)は平成17年の新築だそうですが、木造で宿場町にマッチしていてとても良いです。昨日の神守宿の山車倉も立派な金属製だったけれど、やっぱり木造のほうが神様が宿ってそうで良い。



右の海鼠(なまこ)壁も絞り問屋さん。よっぽど絞り染が売れたのですね。他にも立派な住宅が色々ありました。

有松は桶狭間も近いし、東海道の見どころの一つでしょう。



さて、有松から南の坂道を登っていくと、桶狭間の戦いの中心地だった桶狭間古戦場公園に出てきます。



公園の案内板の説明図。

今川勢は右の沓掛城から西へ向かい、織田勢の鷲津砦と丸根砦を落とします。勝利の戦果を聞いた義元は中央右の桶狭間山に本陣を構え油断していたところを、織田信長は鷲津砦、丸根砦を奪還するとみせかけて、清州城から少人数で雨の中、この地、田楽坪にまっしぐらに突き進み、義元の首を討ち取りました

今川軍2万5千に対して織田軍は3千で勝利しました。



二人の大将の銅像。今川義元は肥っていたと言われていますが、銅像はそうでもありません。ただ、扇子を持って座っているところが油断を表しています。

信長の像は一世一代の大バクチの前にかの有名な敦盛「人間五十年~」を舞っている様子でしょうか。



古戦場公園から少し坂を上ったところに桶狭間山の今川勢本陣跡がある。ちょうど雨と落雷で今川勢が混乱しているなかに少人数の信長隊が奇襲してきたので、今川軍は驚いて大将の首を取られてしまった。

桶狭間は山に挟まれた場所といったイメージでしたが、今ではすっかり住宅地になっていて、坂道ではありますが、当時の地形がどうなっていたのかよく分かりませんでした。



坂を下って元の東海道に戻る付近に今川義元の墓がありました。ただ、首についてはどこに葬られたのかはわからないようです。多分、信長たちは首を前にして酒盛りをしたのでしょう。

ちなみに首を取られたあとの胴体については今川の家臣が随分と東へ戻った寺に葬られています。



桶狭間を後にして東海道を進むと、阿野一里塚。一応ちゃんと両側に残っています。



3時前に名鉄豊明駅に到着。これで本日の東海道歩きは終了ですが、このあと名古屋城へ向かいます。



名鉄金山駅で大津線に乗り換えて名古屋城駅まで40分ほど。本丸御殿の受付が4時締切なので忙しい。

名古屋城は、元々、那古屋城が元祖ですが、その後織田家との紆余曲折があり、立派な城普請をされたのは徳川家康の時代です。それまでは尾張の中心は清須だったのを町ぐるみで名古屋城一帯へと引っ越しさせました。

空襲で天守も本丸御殿も焼けてしまいましたが、戦後復元されました。特に本丸御殿は2018年に復元、公開されたばかりです

筆者は名鉄名古屋城駅で下車、東門から入ります。

(名古屋城サイトより)


築城には曳き石の上で音頭をとっている加藤清正たち西国大名たちが動員されました。清正は熊本城で有名ですね。



なんとか4時前にすべりこんだ本丸御殿。狩野派の絵師たちが描いた襖絵の復元作品は大変見応えがあります。





なかでもひときわ絢爛豪華なのが上洛殿です。




天守閣。頂上の金のシャチホコが目立ちます。



天守の横腹に刺さっているエレベータは耐震設計上問題があるとかで現在稼働していません。現在、鉄筋コンクリートを木造に復元するプロジェクトが進められてるようです。



西南隅櫓から見た天守の図もきれいです。ここから正門を通って城を出ました。



このあと地下鉄丸の内駅まで歩いてから名古屋駅に戻りました。

5時過ぎですが、かなり疲れて居酒屋に行くのも面倒なのでアパホテルそばの吉野家でビールと牛丼大盛り+豚皿で夕食にしました。コスパ抜群です。

翌日にそなえてゆっくり休みます。3日目はコチラ。

2026年1月14日水曜日

【東海道】佐屋宿、神守宿、万場宿、岩塚宿、近鉄烏森駅

 2026年になりました。今年最初は東海道歩きの続きです。

去年12月に桑名を過ぎたところまで進んだので、今回は名古屋を横断して岡崎まで2泊3日で行きます。

江戸時代の東海道は桑名から熱田まで「七里の渡し」と呼ばれた舟便で行きました。今はそのような船便が存在しないので陸路を歩きます。

前回は適当に国道1号線を8kmほど歩いて旅を終えたのですが、後になって江戸時代に舟が苦手な人向けに佐屋街道という道があることを知り、今回は8km戻って佐屋街道を歩きます。

3日の行程は以下のようになりました。1日目の佐屋街道は知名度が低いせいか普通の道路で大した見どころはありませんでしたが、2日目は熱田神宮と桶狭間、そして名古屋城、3日目は岡崎城と見どころの多い旅になりました。

宿は2泊とも名古屋のアパホテルです。

宿場町については保存された場所はなく、街道は一里塚は多く3日目の松並木が印象的でしたが、おおむね道路中心です。ただ、桶狭間近くの有松地区が「日本遺産」に認定され、宿場町でもないのに旧街道の雰囲気を大変良く残していて良かったです。

  • (名鉄佐屋駅)、神守宿、万場宿、岩塚宿、(近鉄烏森駅) 20km、5時間
  • (近鉄烏森駅)、熱田宿、鳴海宿、(名鉄豊明駅) 26km、7時間(後で名古屋城訪問)
  • (名鉄豊明駅)、池鯉鮒宿、岡崎宿、(名鉄美合駅) 28km、7時間半


1日目の詳細ルートを記します。

江戸時代の舟が苦手な人向けのルートとして、桑名の湊から出立する「三里の渡し」に乗って、佐屋の船着き場に着いたというシナリオです。そこから佐屋街道に沿って近鉄烏森(かすもり)駅まで歩きます。

途中には、神守(かもり)宿、万場宿、岩塚宿の3つの宿場があります

佐屋街道は東海道の補佐的な役割の街道だったので、あまり保存しようという動きもないようで、普通の市道、県道でした。



名古屋まで新幹線で進み、名鉄に乗り換えて普通電車で40分ほど行った佐屋駅(写真)で下車します。時間は10時過ぎ。

名古屋駅はあまり下車したことがなくて新幹線出口から名鉄までが歩いて10分くらいかかってややこしいので事前に調べておいてよかったです。

名古屋は名鉄が放射線状に延びていて、JRよりもずっと駅数が多いです。

特に放射の中心の名鉄名古屋駅は「日本一のカオス駅」と言われているだけあって、乗り場が7色くらいに区分けされているのですが、色の違いがわからず戸惑いました。たった2本の線路に一日900本の電車が停車するらしい



見にくいですが「佐屋三里之渡址」と書いてあります。木曽川から1.5kmほどの場所にありますが、昔はここまで舟が来れたということですね。



舟着場のすぐそばにある佐屋代官所址。このあたりが佐屋宿です。旅籠の数を調べてみると桑名宿から七里の渡しを使った旅人の方が多かったのがわかります。歩いてみてわかったのですが、佐屋宿から熱田宿までの陸路も川の数が多くて当時は渡し舟を何度も使ったでしょうから、七里の渡しのほうがずっと便利です。

【桑名宿120軒】---ー(七里の渡し)---【熱田宿248軒】
          --ー(三里の渡し)---【佐屋宿31軒】



昭和の終わりごろに建てられた佐屋街道の石碑。「海道」と書いてある。



愛宕神社。白い拝殿が印象的だった。



鳥居の跡。これは伊勢湾台風で倒壊して修復されないまま残されているものです。四日市で、伊勢湾台風で水田や用水路が破壊されたと書かれた場所がありましたが、三重県、愛知県での被害は特に大きかったのがわかります。

この鳥居は背面西方向にある津島神社の参道で、後で知りましたが尾張を代表する神社の一つのようだ。



日光川堤防にあった地蔵菩薩。



お昼になったのでちょうど道程にあったキッチン鳶色に入ります。ランチセット1種類のみです。右のゴマがかかっている揚げ物はレンコンで糸をひいて美味しかった。お客さんはほぼ全員が地元の奥さまたちでした。



神守(かもり)宿に到達。佐屋宿と万場宿の間が長いので作られた宿場町だそうで、補佐的役割だったためか旅籠は12軒と小さめ。

金属製の立派な山車蔵が目を引く。



神守宿にある憶感(おっかん)神社。さきほどの愛宕神社と同じでこの神社も拝殿が白い。



七宝焼原産地の碑。英語で書かれた石碑は初めて見た。「Shippoyaki Toshima」と書いてあります。明治の中頃、尾張七宝は有名で外国人が買い付けに訪れることが多かったので英語で書かれているそうです。

江戸時代にオランダ船でやってきた七宝焼きをまねして造ったのが尾張七宝の由来だそうですが、オランダ人の職人から教わらずにやったとしたらすごいですね。



ちょっと疲れてきたので一休み。七所社という神社。赤い架け橋が印象的。今回、サーモスの350mlボトルを買ったのだけれど保温力はさすがだと思った。

あと、ティーバッグじゃないパウダータイプの緑茶も水筒に向いていて正解でした。



新川を渡るあたりで名古屋の高層ビル群が見えてきました。



浅間神社。センゲンと読まれることもあり時々見かけます。浅間山信仰のことかと思っていましたが、「浅間」というのは火山を意味していて、日本における火山信仰の中心は富士山なのですね。祭神は自ら火を放った産屋で出産したコノハナノサクヤヒメです。



国玉神社、八剣社の前にあった巨大な常夜燈。この先あたりが万場宿があったところ。庄内川をはさんだ向こう岸に岩塚宿があり、月の半分で万場宿と岩塚宿で分担していたそうな。

こういう形態の宿場町は初めてです。



庄内川を渡る。歩いてみてつくづく感じるのは名古屋って川が多いこと。佐屋街道は現在の国道1号より北側を迂回していますが、江戸時代は佐屋街道より南側は無数の川で安定した道がなかったんじゃないかと思います。



七所社。神守宿そばで休憩したのも七所社でした。調べてみると、熱田神宮の7社を祀っている神社ということらしい。熱田神宮の影響範囲に入ってきたということでしょうか。

ここの七所社には日本武尊が東征を終えた後に立ち寄って腰かけた岩があります。地理的に考えて伊吹山の闘いの前でしょう。日本武尊は、大切な劔を尾張の豪族の妻に預けて伊吹山に向かい、素手で怪物と闘ったせいで敗けてしまいました。

腰かけ岩のうえには何故か二宮尊徳がいます。

この先が岩塚宿です。さきほど書いたように岩塚宿と万場宿は月の前半後半で役割分担していました。残念ながら宿場町を感じさせるような建物は残っていません。



この後、3時半頃に近鉄烏森駅に到着して近鉄名古屋に向かい、名古屋駅西口にあるアパホテルにチェックインしました。近鉄名古屋駅からJR名古屋駅に向かうのも迷いました。名古屋駅って慣れないせいか立体迷路です。

烏森は「かすもり」と読みます。京都の烏丸「からすま」に似ていますがちょっと違う。近鉄名古屋駅までは3駅です。間の駅に黄金(こがね)駅がありますが、他にも名鉄に金山駅があって、名古屋ってやっぱり金のシャチホコのイメージがありますね。

2日目はこちらへ。