2024年11月8日金曜日

【西国街道】玖波宿(大野浦駅)~関戸宿(新岩国駅)

 (残念社から瀬戸内海を望む)

廿日市宿(古江駅)から歩き始めた2泊3日の西国街道の3日目です。といっても2日目は宮島の弥山に登ったので、西国街道歩きは1日目からの続きになります。1日目と2日目のリンクを貼っておきます。


下が今回3日目の記事で紹介した場所をプロットしたマップです。3日目のルートは西国街道らしさを思わせる面影はほぼないものの、残念社からの展望を始め、時折り見える瀬戸内の景色が素晴らしいのと、時々、道路から突然里山の小道に入ってヒヤヒヤすることが印象的でした。

行程的には22km、6時間、3.2万歩でした。終点がちょうど新幹線の新岩国駅だったので終わりにしましたが、もうちょっと歩けたかなといった感じです。



前日は岩国駅近くの東横INNに泊まりました。無料の朝食がついて10500円。最近のビジネスホテルのように大浴場はないものの、清潔で快適なホテルでした。前々日の宮島のホテル(リブマックス安芸宮島)がダメだったので岩国のホテルは満足のいくものでした。

昨夜の夕食はせっかくの広島なので生牡蠣や新鮮な魚を求めてGoogleMapでかなり綿密に調査をしたのですが調査結果の一位「源蔵」は休み、二位「歩留都」は満席だったので、新しめで口コミ評価の高い「縁家」に行ったところ生牡蠣はなかったのですが刺身盛りがたいそう美味でした。

さて、翌日11月8日(金)の朝8時前に6日に歩いた終点のJR大野浦駅に到着。街道歩きをリジュームします。


国道2号線沿いを歩いていくと、丸石浜のあたりで突然変な脇道に入ります。今回3日目のルートはこういうパターンが多いのです。


地図でみるとこのあたりは宮浜温泉郷となっています。歩いていた時は温泉旅館は見当たらなかったのですが10件ほどあるようです。昭和になってから開発された温泉地のようです。

温泉郷の上を進む西国街道の坂が四十八坂と書かれています。下の地図は昭和25年のものでまだ温泉郷は開発される前のものです。

(「今昔マップ」より)


下は宮浜温泉のマップで真ん中を横切る青い山陽自動車道の上下に通る道が四十八坂で今回歩く西国街道になります。

(「宮浜温泉公式ホームページ」より)


四十八坂に入るとすぐのところにある石碑。九州探題の今川貞世(さだよ)が通りかかった時の歌です。廿日市宿を過ぎたイボ観音堂のところにも今川貞世の歌がありましたが、こちらの歌は「海辺で藻塩を焼いているのかと思ったけれど、よく見ると蜑(あま)の小舟の火だった」という内容。

藻塩というのはホンダワラ(ヒジキの種)などの海藻を焼いて採った塩のことで、瀬戸内海でかつてやられていたそうです。また「蜑(あま)」というのは海人とも書き海で魚介や海藻を採っていた人たちのことです。真珠とりの海女も「あま」ですね。

以前「現代語訳 魏志倭人伝」を読みましたが古墳時代の日本人というのは豊富にとれたアワビやトコブシを食べていたようで、そういう習慣が鎌倉、室町にも続いていたのでしょうか。「蜑」という字には「虫」が入っていて古代からの先住民に対する差別意識が感じ取れます。




四十八坂はあまり人が歩いていない道でなにやら悪い予感がします。


高速道路(山陽自動車道)です。街道歩きの大敵なのは高速道路でロクな道はありませんが、作業車に道をふさがれています。


しかたがないので作業車の横をすり抜けようとしたところスズメバチの巣です❗

マジ勘弁して欲しいよなぁー。作業車の反対側を恐る恐るすり抜けました。



四十八坂から景色が広がりました。左は宮島の西端で、中央右の小さな島は可部島(かべしま)。無人島です。



坂を進んで行くと「残念社」の案内版が。なんだそりゃ?と一人で笑っていたら西国街道はそっち方向へ行けと。


ヤマレコのルートを見るとどうみても高速道路の下から左に入る道を指している。本当に悪い予感しかない。四日市宿手前の松子峠がとんでもない荒れ地だったのでその記憶が蘇ります。とにかく人工物に壊された自然の道が一番酷い



歩いてみると案内版もあって人通りの感じられない道ですが、松子峠のようなことはなさそう。



何やら石垣の横の細い道のようなものを不安にかられながら進む。



残念社がでてきました。思っていたよりもマトモ(?)。丹後宮津藩士で幕府軍の和平の使者として依田伴蔵(当時44歳)が長州にむけて走っていたところ、監視していた長州兵が狙撃してしまい、伴蔵は死に際に「残念」とつぶやいて絶命したとされ、地元の人がそれを哀れんで建てたのがこの残念社だそうです。

長州征伐については詳しいことは知りませんが、蛤御門の変をきっかけに1864年から始まり一旦は収まったものの、第二次長州征伐が1865年から始まり幕府長州の交渉が決裂して本格的な戦闘が始まったのが1866年6月からで激しい戦闘が繰り広げられましたが7月になって将軍徳川家茂の急死と福岡の小倉城が長州軍に落とされたことことに衝撃を受けた幕府は和平を提案し、9月に宮島で勝海舟(幕府)と井上薫(長州)との和平会談が行われました。

残念社の話に戻って依田伴蔵が絶命したのは7月6日とされています。将軍家茂が死去したのが7月20日なので和平の使者が走るには早すぎるようにも思えますが、何か他にも消えてしまったストーリーがあったのでしょうね。



残念社そばには松が植えられた展望台があり今日の旅のなかで一番素敵な場所でした。悪い予感いっぱいで進んだ四十八坂でしたが、このような場所にたどり着けて幸いでした。



残念社からはさらに山奥へ進む道がありますが遠慮しておきました。この先の神社はなんと依田伴蔵の神社で、彼が刀槍の使い手だったことから居合道の社とされているそうです。

和平を伝えられずに殺されたのは無念でしたが、神様にされるほどでもないと思うのですが。



四十八坂が舗装道路に変わるあたりから大竹の工業地帯が見えました。



高速道路を南へくぐって八坂の住宅街を通ります。家からこの景色を毎日見れるのは羨ましいなぁ。



急な階段を下りて海沿いの道へと戻って行きます。



玖波(くば)駅の手前で国道2号線に戻るのかなと思うと再び里山の道に入ります。この地区は玖波宿手前の鳴川村で昔から石畳が敷かれていたのをいまでも保存されているようです。




多分このあたりを鉾(ほこ)の峠というのでしょう。峠と言うほどの高度はありませんがJR山陽本線のトンネルの上を通る道になっています。うまい具合に電車がやってきました。



普通トンネルの上は危ないので通行禁止になっているので珍しい体験です。



玖波駅手前のJR山陽本線の下のトンネルを北へくぐったのですが、本当はその手前が玖波宿でした。高札場跡があったらしいのですが、気がつかずに通り過ぎてしまいました。

廿日市宿でもそうでしたが玖波宿本陣も長州戦争の際に焼失してしまったので、面影が消えたまま現在に至るのは寂しい限りです。

写真は玖波駅北の恵川を渡ったところから宮島を眺めたものです。



玖波宿を過ぎると再び高速道路沿いの道になり2度ほど迷いながら西国街道を踏んでいきます。御園地区を通る道にある柵の左側は高速道路ですが、橋姫神社と書かれた簡素な社があります。

高速道路建設でここに移設されたと書いてありますが昔の地図にもそれらしきものはなく由緒は全くわかりません。



御園トンネルのところで今度は鉄パイプ階段をあがります。全く高速道路沿いはロクなことがない。



登山道といった風情の里山の道。



コンクリートの避難所みたいな構造物に郵便のマークが?何だろうと調べてみるとGoogle Mapに「逓信省装荷線輪装置用ケーブルハット跡」と書いてありました。

大正時代から敷かれた電話の市外通話用のための構造物で、この中には荷線輪装置と呼ばれる特殊なコイルが入っていたようです。コイルは長距離ケーブルを流れる電気信号の減衰を小さくするための目的ということです。

海外でも気軽にビデオ会議ができてしまう今から思えば、たかが市外通話...と思ってしまいますが技術の進歩というのは無数の先人たちの努力の成果の賜物なのですね。



ここは大竹市だけあって急に竹林がでてきました。ベンチがあったので一休み。案内版にはこの場所が幕府軍と長州軍の戦場であったと書かれています。

幕府勢は1千、長州勢が200だったにもかかわらず正面側面から突かれた幕府軍は撤退を余儀なくされたそうです。

ここは苦の坂峠という難所の一つだったとも書かれていますが、標高100m程度なので実感が湧きません。こんなん難所って言ってたら中山道の碓氷峠(1200m)とか和田峠(1500m)なんかとても通れません。

まぁ、ここは当時は地形が随分違っていたのでしょう。



苦の坂峠の道は歩きやすいのですが、ここは途中で軽い土砂崩れがあって倒れた竹をよけて歩くのに一苦労。



苦の坂峠が終わりました。この案内版にも長州戦争のことが書かれています。1866年6月の戦闘はこのそばに流れる小瀬川を挟んだ布陣から始まったけれど、前の案内版にあったように長州勢が幕府軍の側面を突き、さらに混乱した幕府軍の背後に周りこんだので恐れをなした幕府軍は潰走したそうです。

やはり地元の兵は地の利を生かせますね。



小瀬川沿いの道に長い階段の神社があり体力に余裕があったので登ってみました。



大元神社とあります。歴史研究に熱心な大竹市のサイトによると、江戸時代後半頃の新しい神社。そのころに急ピッチで土地の開発(多分田んぼが広がり人口が増えた)そうです。



神社の神楽殿や拝殿のなかの写真や絵を見ると色々分かることがあるので見てみます。



この写真は昭和15年1月と書いてあり何やら意味深だなと大変興味を持ちましたが日露戦争の旅順攻略時の写真でした。中段左から二人目が乃木希典。土地とは何の関係もない。



以前もどこかの神社で古い船の写真が拝殿に飾られていましたが、1911年(大正元年)に建造されたこのシンヨウ丸も多分、移民に関係しているのではないかと思います。S.S.とはStore Ship、輸送船であり人を運んだのでしょう。

色々調べると大竹市でも明治の終わりから大正にかけてハワイやアメリカへ移民した人がいたようで、当時の村人の何人かがシンヨウ丸で旅立っていったのかも知れません。



小瀬川は西国街道時代は橋がなく舟で渡していたと案内版にありました。山に囲まれているせいか田んぼが少なくて和紙を作って生計を立てていたそうです。



渡しといっても舟をならべて橋をかけていたと図にあります。大勢の大名行列もこうすれば効率よく渡れますね。

そういう筆者も橋の場所を間違えてずいぶん先まで行って引き返す羽目になりました。



小瀬川を越えると山口県岩国市です。西国街道歩きもついに最後の県となりました。



西条宿と海田市宿の間の瀬野川沿いにもありましたが、この小瀬川沿いにも吉田松陰の江戸への護送中の歌が石碑になっています。

自分が江戸で獄死することがわかっているので、夢路にももう戻ることはできない、小瀬川を渡るのも今日が最期か、という内容です。まだ30歳で大成しているのがすごいです。山口県に入ってからの西国街道、長州藩の神様的存在である吉田松陰先生関連の碑が多そうな予感。



小瀬峠を越えます。標高150mなので今回の旅で弥山を除いてもっとも高い地点。まぁ別にたいしたことはありませんが。

このすぐ横に県道1号線が走っているので、旧道であるこの西国街道は舗装道路ですが車は全く通りません。



小瀬峠を越えて関戸地区にでてきました。左の上を走っているのが県道1号線。



関戸宿にたどり着きました。ここが本陣跡と書かれています。本陣、脇本陣のほかに駅家(うまや)が置かれ常時20頭ほどの馬が待機していたとのこと。レンタカーみたいなもんですね。

また、ここにも吉田松陰先生の石碑が。東遊なので22歳で初めて江戸へ行ったときの記念碑だそうです。龍野川の時のブログにも書きましたが「ペリー提督日本遠征記」で強引にペリーの船に乗ってきてアメリカへ連れていけと嘆願した2人の若者の話が載っていましたが、吉田松陰と金子重之助で二人とも23歳。初めての江戸でさっそくアメリカへ行こうとしたのはスケールが大きいというか無鉄砲というか、若くなければできませんね。



手前の倉庫が邪魔ですが、錦川をはさんだむこうに見える横山(標高200m)の上には岩国城跡があります。ここからだと何も構造物は確認できません。



GoogleEarthで岩国城から歩いてきた西国街道のルートを鳥瞰するとこんな感じです。岩国城は吉川広家(きっかわひろいえ)が関ヶ原の戦いの後で築城したものです。吉川広家は毛利輝元の家臣でありながら関ヶ原では西軍に勝ち目がないと信じており東軍と内通していたとされる人物です。

しかしながら岩国城は築城7年後に幕府の一国一城令により廃城になってしまい、コンクリート製で昭和に再建されました。



西国街道歩きで初めて見た終点の下関。まだ150kmもあるのか。山口県は広いですねぇ。



お昼時でも見つからない食べ物やさんが岩国市多田でようやく見つかり、閉店2時の30分前に駆け込んだのが、お好み焼き「はまや」さん。岩国市でもやっぱりお好み焼きなんですね。



アツアツの鉄板でいただきます。ずっと広島のお好み焼きはそばと餅が入っているものだと思っていましたが、前回のお好み焼き屋さんで聞くと餅が入りだしたのは最近らしく、スタンダードはやっぱり、この、そばだけの肉玉だそうです。



2時すぎに新岩国駅に到着。今回は涼しくて気候もよく、もうちょっと歩けたのですが新幹線の駅で次に始めるにも便利なのでこちらで旅の終点としました。




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