2024年11月、アメリカ大統領選挙にトランプが選ばれてしまいました。
ローマ帝国の時代から異民族を非難して群衆の人気を勝ち得た指導者は、まずは反対勢力を一掃し、次に自分を批判する知識人や文化人を追放してから国民の言論を奪って統制していくのが典型なので、これからが非常に不安です。重罪判決を受けても平気でいられるとはもはや打つ手なし盤石さです。
唯一の救いはトランプの老い先が短いことで、もしも若かったら恐ろしいことになるでしょう。
さて、今回は西国街道歩きの続きです。
京都から歩き始めて通算20日目で廿日市宿まで来ました。西国街道には60の宿場町がありますが40個目が廿日市宿なので2/3まで来たことになります。
今回は廿日市宿(古江駅)から関戸宿(新岩国駅)まで歩きました。ついに山口県入りです❗
旅程としては2泊3日で、2日目は街道歩きをせずに宮島の弥山を登ったので全体としてはこのようになりました。
広島市を過ぎて進む今回のルートは、宮島など瀬戸内海の素晴らしい景色が楽しめました。宿場町はほとんど面影はなく道路歩きが多かったですが、時々見捨てられたような里山の道がありました。
これが1日目の記事で紹介した場所をプロットした地図です。
廿日市宿までは国道2号線沿いの側道を歩いて行きますが、その先は内陸側に入り高速道路沿いの道を歩くルートになっています。
宮島の対岸の大野地区に歴史の案内説明が多かったので、自然にチェックポイントも増えてしまいましたが、宮島の弥山が見えるくらいで大して面白い見どころはありません。
新幹線の広島駅からJR山陽本線で西広島駅まで行き、そこで広電に乗り換えて古江(ふるえ)駅で下車したのが10時前です。
前回は9月初めで気温が35度近いなか歩いた2日目で広島駅から出発しましたが、熱中症でギブアップしたのが広電の古江駅でした。今はさすがに11月になり天気が良くてひんやりした気温で街道歩きには最高のコンディションです。前回と比べれば体力の消耗度は半分くらいの印象でしょうか。
古江駅を出てちょっとの場所にあった立派な石碑は明治43年の道路改修の石碑でした。古江から反時計回りに広島市を一周するようにつながる道路の改修のようです。山地からの物資を古江経由で馬車で運べるように道路幅を広くしたと別の案内版に書いてありました。
今では高速道路はじめ多くの道路が走っていますが、明治、大正はまだまだ野山を切って走る貴重な道だったのでしょう。
草津村に入ったところにある小泉家。江戸時代終わりの酒造屋さんでいまでも商いを続けておられるようです。
この屋根瓦は桟瓦(さんがわら)と呼ばれるものです。江戸時代の発明で、それまで瓦というものは平瓦と丸瓦という二種類の瓦を重ね合わせていたので重量がかさみ寺院や城郭などの頑丈な建築にしか使えなかったところ、平瓦の片端を丸型にすることで一種類の瓦だけで葺けるようになったので、こうして民間の家屋にも使うことができるようになったということです。
広島宿を過ぎてから西国街道の案内版が集落ごとに設置されていて、郷土愛を感じます。草津村は昔は軍港として使われており、「軍(いくさ)」の字で軍津という呼び名であったと書いてあります。また、牡蠣の養殖もさかんで、大坂で広島産の牡蠣を有名にしたそうです。
広島県は全国の牡蠣生産量の約6割を占めますが、その理由は牡蠣は干潮と満潮の間に空気にさらされて育ち、また河川からの真水が豊富なことを好み、広島湾がそれに適しているからだそうです。
次々と神社やお寺が出てきます。これは塩釜神社。祭神は塩椎神(シオツチノカミ)でこの神様は山幸彦を竜宮城に案内した神様です。名前の通り製塩の神様でもあります。
八幡川を渡ります。北の山のさらに先の島根県との県境にあるのが広島県最高峰の恐羅漢山(おそらかんざん)1346mです。ちなみに島根、広島、山口の3県境のあたりに位置するのが山口県最高峰の寂地山(じゃくちさん)1337mなので、このあたりが中国地方の屋根ということになるのでしょうか。
岡の下川から山を望んで。
宮島街道の標識があるので調べてみると、この先西方向に進む街道がかつては山間部を通る西国街道だけだったのが、明治になって埋め立てが進み海沿いの国道2号線が新設されたので西国街道と区別するために宮島街道と名付けられたと書いてありました。
お昼になったので、廿日市宿近くの田丸食堂でお好み焼きを食べました。ご夫婦でやられているお店で、鉄板には2席しかないとても小さなお店です。焼くときに金属製の専用の重しでギュー、ジューと押し込むのが印象的でした。先代から初めて70年近く変わらぬ味だそう。
廿日市宿にある天満宮です。天満宮なので祭神は菅原道真公。写真の中央部を見るとわかりますが、天満宮の境内の奥が丘陵になっています。コンクリートの擁壁が大変見た目が悪いのですが、珍しい地形かと思います。
この天満宮は厳島神社の神主として藤原親実(ちかざね)が着任した際に建立されたそうです。翌日訪ねる予定の厳島神社は創建時は佐伯氏が神主だったのが、承久の乱の後で佐伯氏が降ろされ、藤原親実を初めとする藤原家が神主の時代が続きますが、後に再び佐伯氏が奪い返します。
廿日市宿跡の石碑のあるところは市民センターになっていて宿場町の面影はありません。毎月20日に市が立ったことから廿日市という名になったのですが、それは厳島神社の祭礼の最終日が20日だったからだそうです。
街道名物の一里塚跡がありました。少しは一里塚っぽい面影がある。
四郎峠(106m)を越えて、中山地区に入り、楽しくない道から脇道にそれる場所にある疣観音堂。「疣」という字は「いぼ」と読みます。お参りするとイボがとれるとか。
中山地区から少し北に行ったところには「海の見える杜美術館」があります。見るからにイスラム教っぽさを感じる建物ですが、調べてみると姫路市発祥の教団「平等大慧会(びょうどうだいえかい)」設立の美術館でした。
このあたり宮島の対岸は大野村になっており、歴史に関する説明版が多く設置されています。日本最初の女帝である推古天皇の時代に太郎、次郎、三郎、四郎、十郎という五兄弟が分かれて土地を開墾したとされ、このなにもない場所は次郎の担当だったそうです。
この史跡は古代の厩跡で約16㎞毎に設置された馬の乗り換え場所だったそうです。高庭駅家(たかにわのうまや)跡と書かれています。平安時代には濃唹(のお)駅という名前に変わったとも。飛鳥時代や平安時代の歴史まで踏み込んでいて、この地域には相当な歴史研究家がおられるようですね。
宮島の山々がはっきりと一望できるようになりました。一番左が弥山です。
JR大野浦駅に来たのでとりあえず今日の西国街道歩きを終えますが、明日の弥山登山に備えて今日は宮島のホテル泊なのでJR宮島口に戻ることにします。時間は15時すぎでした。
JRと広電の駅からすぐの場所にフェリー乗り場があり、とても頻繁に船が出ています。一つの港にJR西日本と広電が所有する宮島松大汽船の2社がほぼ全く同じ船でフェリーを発着させています。
厳島神社の鳥居が見えてきました。
16時で陽が沈んでいきます。やっぱり11月なので日が短くなりました。
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