2025年3月19日水曜日

【西国街道】高森宿(米川駅)、今市宿、呼坂宿、久保市宿、花岡宿、徳山宿

 西国街道の新岩国駅から富海宿(とのみ)までの2日です。(1日目はコチラ

2日目の行程はこのようになります。26kmの距離に宿場名が6つも並んでいるのは長らく街道歩きをしていて初めてかもしれません。1日目にも書きましたが、これは長州藩という本藩の中に、岩国藩と徳山藩という支藩がある関係かと思われます。


前日は徳山駅のグリーンリッチホテルに宿泊。大浴場付きで清潔で機能的。夕食は広島で食べられなかった生牡蠣を食べようと思っていましたが居酒屋さんのメニューになかった。

翌朝、7時52分の岩徳線のディーゼル車両に乗って昨日のゴール地点の米川駅に戻ります。



千手観音などの石仏群。このあたりは標高100mほどの中山峠の登りになっています。




周南市に入ります。周南市は徳山市その他が2003年に合併してできた市です。「徳山」は以前藩名だったし誰でも知っているのに、なぜ徳山市にしないで周南市なんて名前にしたのでしょうか?



「高水村塾之跡」と書いてあるがこのあたりが今市宿があったところのはず。中山峠を越える手前なので休憩や運搬などの機能があったのでしょう。

高い石垣の上にある正覚寺に登ってみます。


お堂の前で休んでいると猫がいっぱい居るのが目に入った。お堂の前に石桶があって雨水が貯まる仕組みになっているようです。



周南市のミニ八十八ヶ所巡りの地蔵菩薩。街道歩きをしていると各地に八十八ヶ所巡りがあるのがわかります。



呼坂宿。ここは本陣があったので、ちゃんとした宿場だったのでしょう。


安政の大獄で江戸へ連行される吉田松陰と門弟が最期の別れをしたと言われる場所。



ミシン屋さん。足踏み式のミシンはおばあちゃんが使っていたのを思い出す。今の若い人はミシンの存在自体知らないんじゃないかなぁ。


旧街道をちょっと感じさせる景色。後ろは呼坂の山々。



鳴水峠。標高は60mほどですが昔は山道だったのでしょう。



鳴水峠の湧き水が出ていました。硬水でなかなか美味しかった。


2号線沿いの石材屋さん。「おいでませ、山口へ」というCMが筆者が住んでいた西宮のテレビでも流れていました。その印象があったから山口県は良いイメージだったんだけどなぁ。まぁ、たまたま西国街道がつまらないだけかも知れません。


周防之国の熊毛郡と都濃郡(つのぐん)の郡境碑。調べてみると都濃郡は明治に発足して平成に消滅している。郡制自体が明治時代に出来たもの。

山口県の市町村の変遷はとてもややこしそうです。写真左に出ている下松市は徳山市と一緒に周南市になることを拒みました。下松市は人口が増え、大きくなった周南市は減っています。

ちなみに周防国は山口県東部で宇部市あたりから西が長門国になります。周防国と長門国を合わせて防長とよび、長州藩は防長を管轄していました。


食事処も座れる場所もないので、周防久保駅でカップ麺でランチにする。今回の旅は3日ともカップ麺でした。広島県は毎日お好み焼き屋さんがあったんだけどなぁ。


切戸川の向こうに村の神社があったので立ち寄ってみました。右の古い看板を見ると由加社という神社で備前から隣の熊毛、呼坂に分祀されたのが、この地、久保村で大火災が起きたので火の神として勧請したそうです。




特に宿場跡は見当たりませんでしたが、このあたりが久保市宿があったところ。本陣など宿泊施設のない半宿か間宿だったのでしょう。



ラブホテルが集まる場所を抜けて2号線と新幹線の下をくぐると「春雨桜」の説明版。後ろの樹ではないですが、ここにあった桜に長州藩主だった毛利敬親(たかちか)が心を慰めたそうな。毛利敬親については何も知りませんが、西郷、大久保にとっての島津斉彬、久光のように、桂小五郎、高杉晋作にとっての長州藩主だったのでしょう。


中に入った図ですが、上の写真の後ろの樹は「花岡御茶屋ノ槙柏」という名前がついている樹齢470年の国の天然記念物だった大樹です。槙(マキ)はマキ科の針葉樹ですが、槙柏(シンパク)は伊吹(イブキ)とも言われるヒノキ科だそうです。ややこしい。



これが案内版にあった当時の花岡宿の茶屋の様子ですが、物凄い大勢の人々で賑わっています。たしかに左手に槙柏(シンパク)の大樹がありますね。ここは花岡宿の宿場やお茶屋があっただけでなく勘場という村の役所もあったそうなのでこれだけの人々が集まっているのでしょう。



花岡八幡宮の参道と酒屋さん。たぶん前は花岡地区の中心地の庄屋さんだったのでしょう。


徳山駅に向けて岩徳線と山陽本線が合流してくる櫛ヶ浜駅(くしがはま)駅そばの酒屋さん「山縣本店」。防長鶴という銘柄で造っておられるようです。



都会に近づきコメダ珈琲を見つけて30分くらい休憩してしまいました。その後、しばらく歩くと集合住宅の前に説明版があり、読んでみると早乙女(近隣から田植え要員として出動する娘たち)が九州からの飛脚に刺殺された事件があった場所とのこと。

ここの村では早乙女は通りがかりのひとに稲の苗をぶつけると、早乙女にご祝儀をあげるという習慣があり、それを知らない飛脚が怒ったらしいのですが、大名飛脚だったのでしょうか、なにも殺さなくてもいいのに。



影向石と書いて「エイコウワ」と読む。豊前国(ブゼン、福岡県と大分県をまたいだあたり)から宇佐八幡の神がこの石に降り立ってお告げを下したと書いてある。ちなみに影向(ようごう)というのは神仏が姿を現すことを言うらしい。初めて知った日本語。



孝女お米の像。農民の娘で病気の父の看病をしながらよく働いたので藩主の毛利氏から表彰されたという。優秀な農民を表彰するとは毛利氏もいいとこありますな。後ろの石碑は江戸時代末のもの。



徳山駅前の商店街にやってきましたがシャッターが目立ちます。



徳山駅で友人や家のお土産を買いました。駅から徳山港が見えました。その先の島影は黒髪島という美しい名前の島。この島では「徳山みかげ」という美しい御影石が採れるそうでなんと国会議事堂の一部に使われているそうです。

今日は昨日と同じ徳山駅そばのグリーンリッチホテルに宿泊します。




2025年3月18日火曜日

【西国街道】関戸宿(新岩国駅)~高森宿(米川駅)

 3月半ばを過ぎても今年は寒い日が続きます。

今回は西国街道シリーズで前回11月に山口県入りしてから捻挫をやってしまって4ヵ月ぶりの街道歩きです。それでもまだ捻挫が100%治っておらず3日間歩けるのかとても心配でした。

京都からの道のりをプロットしてみるとこんな感じです。前回までで通算22日かかっていて、今回は山口県の中を下関に向けて2泊3日で豊海(とよみ)宿まで歩いて行きます。

今回の旅が終われば、次回は3泊4日くらいで遂に下関まで踏破できるでしょう。



2泊3日の旅行の結果は以下のようになりました。2泊とも徳山駅近くのホテルに宿泊です。

全体を通して宿場の数はとても多いのですが地域の街道保存の思いも少なく面白味の少ない道のりでした。徳山からは海沿いですがコンビナートのせいで景色もありません。食事処もなく休憩する公園やトイレ、ベンチすらなく人の往来を感じられない旅でした。

  • 1日目:関戸宿(新岩国駅)、玖珂(くが)宿、高森宿(米川駅) 22km、5時間20分
  • 2日目:高森宿(米川駅)、今市宿、呼坂宿、久保市宿、花岡宿、徳山宿 26km、7時間20分<リンク
  • 3日目:徳山宿、福川宿、富海宿 20km、5時間<リンク

2日目の行程は26kmの間に宿場が6つもあります。こんなに宿場が密集しているのは中山道も含めていままでありませんでした。調べてみると多くは間宿(あいのしゅく)や半宿(はんじゅく)で宿泊施設がなく、休憩場所や人足、馬の手配をやっていたようです。

当時は休憩所がいっぱいあった街道が今はベンチもない道になってしまった...

それでは1日目の記事ですが、下の図がまとめたものです。



広島から新幹線を乗り継いで前回の終着点であった新岩国駅に到着したのが10時半。本当はもっと早くこれたのですが、そうすると今日のゴールである岩徳線(「がんとくせん」と読む)の米川駅に早く着きすぎてしまうのでこの時間になりました。



梅が満開です。山口県は瀬戸内気候なので本来暖かいはずなのですが、今回の旅行の期間はとても寒かったのです。

でもこの時点ではこの後で吹雪になるとは想像していませんでした。



御庄川(みしょうがわ)沿いの長い道を歩きます。



千体仏と書いてあります。このお堂のなかにミニチュアのような仏像が800体ほど保存されていて、法要の際には遺族の顔に似た仏像を取り出してお祈りをして、その後元の位置に戻すそうです。こういう風習は初めて聞きました。




県道に出てくると「二軒屋団地入口」の標識。地図を見るとこの西側が「一軒屋」という地名で、ここが「二軒屋」という地名になっている。ここは川沿いの峠道なので人家が1軒、2軒しかなかったからでしょう。衛星写真で見ると南側に20軒ほどの住宅地(団地)があります。



欽明路峠という名前の峠道を登ってきてここが最高地点。200メートルほど登ったので西国街道にしては高い方で昔は山陽道の難所と言われたようです。

擁壁が簡単な石積みですが、今の県道はこの下のトンネルを走っているのでこの道はほとんど車は通りません。



衛星写真を見ると、欽明路峠から北へ上がっていくところに採掘場があるのがわかります。タングステン、マンガンの採掘場のようです。さきほどの二軒屋団地に住まれている人々は鉱山関係の仕事をされているのではないでしょうか。



山陽自動車道の陸橋を横断していくとお昼になったので適当にコンクリの段に腰かけてパラパラ降る雨を竹の葉で防ぎながらチリトマトヌードルを食べた。

雨の中歩いて行くと欽明路峠の由来である欽明寺の山門に出てきました。この寺は継体天皇の嫡子の欽明天皇に由来しているというので古墳時代までさかのぼる古い伝説を持っていますが、江戸時代に日蓮宗のお寺になったようです。

このあたりからパラついていた雨が雪に変わり正面から吹き付けてくるようになった。手がかじかんで動かないくらいの寒さ。



雨の中撮った写真を後で読んでいますが、この石碑は市良右衛門という義人の碑で、江戸末期にこの地域の代官が農民に重税を課して自ら贅沢にふけっていたので、我慢できずに訴えたところ山や島に流されたけれど、後に村民たちの訴えで無罪になったと書いてあります。

年代が黒船来航の時期であり、尊王攘夷の火種の長州であるから相当に藩の勢力は弱体化していたのでしょう。幕末でなかったら即刻死罪になっていたと思います。



2ミリ程度の雨は予測していたので雨具は持ってきたのですが、みぞれが正面から吹き付けてきたのでかなり濡れてしまいました。特に前回の中山道でデビューさせたALTRAのオンロード用トレッキングシューズ(VIA OLYMPUS2)が全く雨に弱くて靴下までズブズブになってしまったので、玖珂駅に立ち寄ってタオルで足と靴内部の水分を取り靴下を交換しました。

弱雨に変わったので玖珂駅の外に出ると、このあたりが玖珂宿(くがじゅく)のはず。こちらのお寺(明覚寺)は保育園もされているようでルンビニ保育園はお寺経営の保育園で各地にあるようです。



玖珂宿の本陣跡の石碑。本陣があったのでここは半宿や間宿ではなくてれっきとした宿場だったのでしょう。



本陣そばの菅原社はかつて本郷の庄屋だったと書いてあります。この左に珍しいサカキの大樹があるのですがちゃんと見てなかった。



これは地元の村長だった三戸熊太の石碑。昭和のはじめに地下水を電力で組み上げて田を潤したと書いてあります。



この立派な石碑は26歳で戦死した世木騎六(せぎきろく)という村出身の藩士のものです。高杉晋作の下、1863年の下関戦争で活躍し、その後長州藩の保守派と内乱の戦いで亡くなったと書いてあります。

ペリー来航から明治元年までたったの15年なんですよね。ドラマの密度の濃さをいつも感じますし英雄は時代の要請があってこそ生まれるものなんだなと。逆に言えば平和な時代は英雄は眠ったまま死んでしまう。



玖珂宿から少しの距離にある高森宿跡。「たかもり本陣保育園」になっています。JR岩徳線も玖珂駅と周防高森駅が近接しています。



ここも本陣があったということは立派な宿場だったのでしょう。案内版を読んで玖珂宿と高森宿がこんなに近い理由がわかりました。玖珂宿は岩国藩の東端、高森宿は長州藩の西端だったので宿場の利用者が違っていたわけです



江戸時代の藩制について調べてみると現在の山口県全体は長州藩になっていますが、その上に岩国藩、徳山藩、長府藩が「支藩」という形で存在しています。支藩はあくまで本藩のなかの真部分集合のはずだから「高森宿が長州藩の東端」という言い方は変に思えますが、いろいろと政治的事情があったのでしょう。

また高森宿には「吉田松陰常宿の碑」があります。吉田松陰は長州藩であって岩国藩ではないので玖珂宿でなく高森宿に泊ったのですね。



橋を渡らず島田川沿いを歩いて行きます。



このまま県道を進んでも良いのですが、正式な西国街道は脇道を通るようになっているので行ってみると線路を横断するようになっている。踏切もない線路を横断するのは子供の頃以来なのでかなり躊躇したが、ほとんど電車もこない岩徳線なので思い切って渡ってみた。



その先は人家の前になっているが、遠慮しながらさらに進むと細い道が続いている。



立派な梅の木が。満開です。



線路を越えた小道は風情があってよかったです。再び線路を越えて県道の戻りますが、今度はちゃんとした陸橋でした。



今日のゴールの岩徳線(がんとくせん)の米川駅に到着しました。余裕をもってスタートしたので予定の16時34分まで、まだ45分以上あります。ちなみに15時台は一本もなく16時34分を逃すと次は17時59分なので絶対に外せませんでした。

山陽本線は南の柳井など平地部を走っていて本数も1時間の1~2本はあります。



岩徳線は単線なので左から来たり(岩国方面)右から来たり(徳山方面)します。列車を待っている間、本当に寒くてガタガタ震えていました。



2両編成でやっと来てくれました。「キハ」型のディーゼル車両です。ここから徳山駅まで30分くらいかかりましたが、なんと徳山駅でも吹雪が。震えながらグリーンリッチホテルに入館してお風呂で温まりました。

2日目の記事はコチラ