西国街道の新岩国駅から富海宿(とのみ)までの2日です。(1日目はコチラ)
2日目の行程はこのようになります。26kmの距離に宿場名が6つも並んでいるのは長らく街道歩きをしていて初めてかもしれません。1日目にも書きましたが、これは長州藩という本藩の中に、岩国藩と徳山藩という支藩がある関係かと思われます。
前日は徳山駅のグリーンリッチホテルに宿泊。大浴場付きで清潔で機能的。夕食は広島で食べられなかった生牡蠣を食べようと思っていましたが居酒屋さんのメニューになかった。
翌朝、7時52分の岩徳線のディーゼル車両に乗って昨日のゴール地点の米川駅に戻ります。
千手観音などの石仏群。このあたりは標高100mほどの中山峠の登りになっています。
周南市に入ります。周南市は徳山市その他が2003年に合併してできた市です。「徳山」は以前藩名だったし誰でも知っているのに、なぜ徳山市にしないで周南市なんて名前にしたのでしょうか?
「高水村塾之跡」と書いてあるがこのあたりが今市宿があったところのはず。中山峠を越える手前なので休憩や運搬などの機能があったのでしょう。
高い石垣の上にある正覚寺に登ってみます。
お堂の前で休んでいると猫がいっぱい居るのが目に入った。お堂の前に石桶があって雨水が貯まる仕組みになっているようです。
周南市のミニ八十八ヶ所巡りの地蔵菩薩。街道歩きをしていると各地に八十八ヶ所巡りがあるのがわかります。
呼坂宿。ここは本陣があったので、ちゃんとした宿場だったのでしょう。
安政の大獄で江戸へ連行される吉田松陰と門弟が最期の別れをしたと言われる場所。
ミシン屋さん。足踏み式のミシンはおばあちゃんが使っていたのを思い出す。今の若い人はミシンの存在自体知らないんじゃないかなぁ。
旧街道をちょっと感じさせる景色。後ろは呼坂の山々。
鳴水峠。標高は60mほどですが昔は山道だったのでしょう。
鳴水峠の湧き水が出ていました。硬水でなかなか美味しかった。
2号線沿いの石材屋さん。「おいでませ、山口へ」というCMが筆者が住んでいた西宮のテレビでも流れていました。その印象があったから山口県は良いイメージだったんだけどなぁ。まぁ、たまたま西国街道がつまらないだけかも知れません。
周防之国の熊毛郡と都濃郡(つのぐん)の郡境碑。調べてみると都濃郡は明治に発足して平成に消滅している。郡制自体が明治時代に出来たもの。
山口県の市町村の変遷はとてもややこしそうです。写真左に出ている下松市は徳山市と一緒に周南市になることを拒みました。下松市は人口が増え、大きくなった周南市は減っています。
ちなみに周防国は山口県東部で宇部市あたりから西が長門国になります。周防国と長門国を合わせて防長とよび、長州藩は防長を管轄していました。
食事処も座れる場所もないので、周防久保駅でカップ麺でランチにする。今回の旅は3日ともカップ麺でした。広島県は毎日お好み焼き屋さんがあったんだけどなぁ。
切戸川の向こうに村の神社があったので立ち寄ってみました。右の古い看板を見ると由加社という神社で備前から隣の熊毛、呼坂に分祀されたのが、この地、久保村で大火災が起きたので火の神として勧請したそうです。
特に宿場跡は見当たりませんでしたが、このあたりが久保市宿があったところ。本陣など宿泊施設のない半宿か間宿だったのでしょう。
ラブホテルが集まる場所を抜けて2号線と新幹線の下をくぐると「春雨桜」の説明版。後ろの樹ではないですが、ここにあった桜に長州藩主だった毛利敬親(たかちか)が心を慰めたそうな。毛利敬親については何も知りませんが、西郷、大久保にとっての島津斉彬、久光のように、桂小五郎、高杉晋作にとっての長州藩主だったのでしょう。
中に入った図ですが、上の写真の後ろの樹は「花岡御茶屋ノ槙柏」という名前がついている樹齢470年の国の天然記念物だった大樹です。槙(マキ)はマキ科の針葉樹ですが、槙柏(シンパク)は伊吹(イブキ)とも言われるヒノキ科だそうです。ややこしい。
これが案内版にあった当時の花岡宿の茶屋の様子ですが、物凄い大勢の人々で賑わっています。たしかに左手に槙柏(シンパク)の大樹がありますね。ここは花岡宿の宿場やお茶屋があっただけでなく勘場という村の役所もあったそうなのでこれだけの人々が集まっているのでしょう。
花岡八幡宮の参道と酒屋さん。たぶん前は花岡地区の中心地の庄屋さんだったのでしょう。
徳山駅に向けて岩徳線と山陽本線が合流してくる櫛ヶ浜駅(くしがはま)駅そばの酒屋さん「山縣本店」。防長鶴という銘柄で造っておられるようです。
都会に近づきコメダ珈琲を見つけて30分くらい休憩してしまいました。その後、しばらく歩くと集合住宅の前に説明版があり、読んでみると早乙女(近隣から田植え要員として出動する娘たち)が九州からの飛脚に刺殺された事件があった場所とのこと。
影向石と書いて「エイコウワ」と読む。豊前国(ブゼン、福岡県と大分県をまたいだあたり)から宇佐八幡の神がこの石に降り立ってお告げを下したと書いてある。ちなみに影向(ようごう)というのは神仏が姿を現すことを言うらしい。初めて知った日本語。
孝女お米の像。農民の娘で病気の父の看病をしながらよく働いたので藩主の毛利氏から表彰されたという。優秀な農民を表彰するとは毛利氏もいいとこありますな。後ろの石碑は江戸時代末のもの。
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