3月半ばを過ぎても今年は寒い日が続きます。
今回は西国街道シリーズで前回11月に山口県入りしてから捻挫をやってしまって4ヵ月ぶりの街道歩きです。それでもまだ捻挫が100%治っておらず3日間歩けるのかとても心配でした。
京都からの道のりをプロットしてみるとこんな感じです。前回までで通算22日かかっていて、今回は山口県の中を下関に向けて2泊3日で豊海(とよみ)宿まで歩いて行きます。
今回の旅が終われば、次回は3泊4日くらいで遂に下関まで踏破できるでしょう。
2泊3日の旅行の結果は以下のようになりました。2泊とも徳山駅近くのホテルに宿泊です。
全体を通して宿場の数はとても多いのですが地域の街道保存の思いも少なく面白味の少ない道のりでした。徳山からは海沿いですがコンビナートのせいで景色もありません。食事処もなく休憩する公園やトイレ、ベンチすらなく人の往来を感じられない旅でした。
2日目の行程は26kmの間に宿場が6つもあります。こんなに宿場が密集しているのは中山道も含めていままでありませんでした。調べてみると多くは間宿(あいのしゅく)や半宿(はんじゅく)で宿泊施設がなく、休憩場所や人足、馬の手配をやっていたようです。
当時は休憩所がいっぱいあった街道が今はベンチもない道になってしまった...
それでは1日目の記事ですが、下の図がまとめたものです。
広島から新幹線を乗り継いで前回の終着点であった新岩国駅に到着したのが10時半。本当はもっと早くこれたのですが、そうすると今日のゴールである岩徳線(「がんとくせん」と読む)の米川駅に早く着きすぎてしまうのでこの時間になりました。
梅が満開です。山口県は瀬戸内気候なので本来暖かいはずなのですが、今回の旅行の期間はとても寒かったのです。
でもこの時点ではこの後で吹雪になるとは想像していませんでした。
御庄川(みしょうがわ)沿いの長い道を歩きます。
千体仏と書いてあります。このお堂のなかにミニチュアのような仏像が800体ほど保存されていて、法要の際には遺族の顔に似た仏像を取り出してお祈りをして、その後元の位置に戻すそうです。こういう風習は初めて聞きました。
県道に出てくると「二軒屋団地入口」の標識。地図を見るとこの西側が「一軒屋」という地名で、ここが「二軒屋」という地名になっている。ここは川沿いの峠道なので人家が1軒、2軒しかなかったからでしょう。衛星写真で見ると南側に20軒ほどの住宅地(団地)があります。
欽明路峠という名前の峠道を登ってきてここが最高地点。200メートルほど登ったので西国街道にしては高い方で昔は山陽道の難所と言われたようです。
擁壁が簡単な石積みですが、今の県道はこの下のトンネルを走っているのでこの道はほとんど車は通りません。
衛星写真を見ると、欽明路峠から北へ上がっていくところに採掘場があるのがわかります。タングステン、マンガンの採掘場のようです。さきほどの二軒屋団地に住まれている人々は鉱山関係の仕事をされているのではないでしょうか。
山陽自動車道の陸橋を横断していくとお昼になったので適当にコンクリの段に腰かけてパラパラ降る雨を竹の葉で防ぎながらチリトマトヌードルを食べた。
雨の中歩いて行くと欽明路峠の由来である欽明寺の山門に出てきました。この寺は継体天皇の嫡子の欽明天皇に由来しているというので古墳時代までさかのぼる古い伝説を持っていますが、江戸時代に日蓮宗のお寺になったようです。
このあたりからパラついていた雨が雪に変わり正面から吹き付けてくるようになった。手がかじかんで動かないくらいの寒さ。
雨の中撮った写真を後で読んでいますが、この石碑は市良右衛門という義人の碑で、江戸末期にこの地域の代官が農民に重税を課して自ら贅沢にふけっていたので、我慢できずに訴えたところ山や島に流されたけれど、後に村民たちの訴えで無罪になったと書いてあります。
年代が黒船来航の時期であり、尊王攘夷の火種の長州であるから相当に藩の勢力は弱体化していたのでしょう。幕末でなかったら即刻死罪になっていたと思います。
弱雨に変わったので玖珂駅の外に出ると、このあたりが玖珂宿(くがじゅく)のはず。こちらのお寺(明覚寺)は保育園もされているようでルンビニ保育園はお寺経営の保育園で各地にあるようです。
玖珂宿の本陣跡の石碑。本陣があったのでここは半宿や間宿ではなくてれっきとした宿場だったのでしょう。
本陣そばの菅原社はかつて本郷の庄屋だったと書いてあります。この左に珍しいサカキの大樹があるのですがちゃんと見てなかった。
玖珂宿の本陣跡の石碑。本陣があったのでここは半宿や間宿ではなくてれっきとした宿場だったのでしょう。
本陣そばの菅原社はかつて本郷の庄屋だったと書いてあります。この左に珍しいサカキの大樹があるのですがちゃんと見てなかった。
これは地元の村長だった三戸熊太の石碑。昭和のはじめに地下水を電力で組み上げて田を潤したと書いてあります。
この立派な石碑は26歳で戦死した世木騎六(せぎきろく)という村出身の藩士のものです。高杉晋作の下、1863年の下関戦争で活躍し、その後長州藩の保守派と内乱の戦いで亡くなったと書いてあります。
ペリー来航から明治元年までたったの15年なんですよね。ドラマの密度の濃さをいつも感じますし英雄は時代の要請があってこそ生まれるものなんだなと。逆に言えば平和な時代は英雄は眠ったまま死んでしまう。
玖珂宿から少しの距離にある高森宿跡。「たかもり本陣保育園」になっています。JR岩徳線も玖珂駅と周防高森駅が近接しています。
ここも本陣があったということは立派な宿場だったのでしょう。案内版を読んで玖珂宿と高森宿がこんなに近い理由がわかりました。玖珂宿は岩国藩の東端、高森宿は長州藩の西端だったので宿場の利用者が違っていたわけです。
江戸時代の藩制について調べてみると現在の山口県全体は長州藩になっていますが、その上に岩国藩、徳山藩、長府藩が「支藩」という形で存在しています。支藩はあくまで本藩のなかの真部分集合のはずだから「高森宿が長州藩の東端」という言い方は変に思えますが、いろいろと政治的事情があったのでしょう。
また高森宿には「吉田松陰常宿の碑」があります。吉田松陰は長州藩であって岩国藩ではないので玖珂宿でなく高森宿に泊ったのですね。
このまま県道を進んでも良いのですが、正式な西国街道は脇道を通るようになっているので行ってみると線路を横断するようになっている。踏切もない線路を横断するのは子供の頃以来なのでかなり躊躇したが、ほとんど電車もこない岩徳線なので思い切って渡ってみた。
その先は人家の前になっているが、遠慮しながらさらに進むと細い道が続いている。
線路を越えた小道は風情があってよかったです。再び線路を越えて県道の戻りますが、今度はちゃんとした陸橋でした。
今日のゴールの岩徳線(がんとくせん)の米川駅に到着しました。余裕をもってスタートしたので予定の16時34分まで、まだ45分以上あります。ちなみに15時台は一本もなく16時34分を逃すと次は17時59分なので絶対に外せませんでした。
山陽本線は南の柳井など平地部を走っていて本数も1時間の1~2本はあります。
岩徳線は単線なので左から来たり(岩国方面)右から来たり(徳山方面)します。列車を待っている間、本当に寒くてガタガタ震えていました。
2両編成でやっと来てくれました。「キハ」型のディーゼル車両です。ここから徳山駅まで30分くらいかかりましたが、なんと徳山駅でも吹雪が。震えながらグリーンリッチホテルに入館してお風呂で温まりました。
2日目の記事はコチラ。
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