桜の季節の到来です。体の筋肉が緩んできて気持ちも朗らかになってきます。
京都御所の近衛邸跡に行くと、しだれ桜が満開になっています(写真はiPhone)。緊急事態宣言が解除されましたが、例年に比べると人手が少なくベンチに座ってゆっくり鑑賞できるのはありがたいです。
さて、今回は丹波篠山で人気の関西百名山の一つである白髪岳(しらがだけ)に前の会社の友達たちと登ります。
篠山城跡から南西の方角で車で20分ほどの距離です。JRの古市駅からもアクセス可能なようです。
ルートですが、住山地区の空き地に駐車して白髪岳に登頂し、そこから右に周回して、もう一つの山である高尾山に登ります。歴史的には高雄山の方が意味深い山で、周辺の史跡を辿りながら不動の滝を観てから元の位置に戻ります。
歩行距離約9Km、標高差約450mで所要時間は4時間半でした。
駐車ポイントは7、8台程度が停められる場所です。土曜日だったので9時前でしたがすでに3台ほど停まっていました。
今回は久しぶりの4人のパーティーです。
さきほどの写真の案内版です。道路の先から白髪岳の登山口までの林道を「ワン谷」林道と呼ぶようです。桜はまだつぼみでしたが、案内版にあるワン谷の桜は名所のようです。
「ワン谷」とは何だろうと話しながら歩いていましたが、ワンコではなく、鰐(わん)谷でした。鰐はワニの漢字なのですが、こんなところにワニが出たはずもありません。
調べてみるとワニが付く地名は、粘土質の赤土を現す「ハニ」から「ワニ」に変化したというのが通説のようです。この近くには丹波焼の中心地であったことを考えると赤土説で間違いないと思います。
一般的に神様の名前と同様、地名は非常に当て字が多く、漢字に意味がないことが多いのです。「夜露死苦」みたいなもんです。
。・。・。・。・。・。・。・。・。・。
丹波篠山のサイトにこのあたりの住山地区の昔話を見つけました。ワン谷の猟師が自分が鉄砲で撃った雌鹿が死ぬ間際に苦しみながら小鹿を生んだのを見て、猟師を辞める決意をして小鹿を育てたという泣ける話です。
。・。・。・。・。・。・。・。・。・。
登山口からは一気に300メートルほど急坂を登って行きますが、ジグザグに整備されているので歩きやすいです。
駐車場からは隠れて見えなかった白髪岳が見えてきました。
関西100名山の人気の山だけあって整備された道は歩きやすい。
...と思いきや、頂上にかなり近づいたあたりで岩場が現れます。
写真で見るとオソロしそうに見えますが、岩の突起に手で掴める場所が多いので比較的安心して登れます。
このあたりが一番の岩場。注意して進みます。
連なる岩場の向こうは神戸です。うっすら見えるのは六甲山だと思います。
白髪岳山頂に到着。頂上は広くて、全方向に視界が広がります。多紀連山も端から端まで見渡せました。天気の良い日は瀬戸内海まで見えるそうです。
記念写真。
少し休憩したら、さっそく松尾山に向けて周回コースを進みます。両側にしっかりとロープが張られています。
松尾山に行く手前に、登山口のワン谷へのショートカットがありました。このルートなら岩場を行かないで白髪岳山頂に行けますね。
80メートルほど登れば山頂です。岩場もなく歩きやすい。
しばらく行くと林道に出ます。
振り返ると白髪岳頂上が見えます。形がよいので丹波富士とも呼ばれるそうですが、明智光秀の八上城(やかみじょう)で有名な高城山のほうが丹波富士としては有名ではないかと思います。
山頂の岩場が白く光ったので白髪岳と言われるようになったのかな、と想像します。
尾根の廊下。
尾根沿いでなく白髪岳と松尾山を一直線に結ぶルートとの十字路である「鐘掛の辻」。丹波篠山では修験者が多かったので、大峰山の難所である鐘掛岩を意識したのかも知れません。
松尾山山頂に到着しました。12時前ですがランチにします。どん兵衛カレーが美味い。
こちらの山頂は白髪岳の山頂よりも広々としていますが、ここには城があったのです。
酒井氏は応仁の乱の後に丹波で勢力を誇りましたが、その後波多野氏に敗れて波多野氏の傘下で存続しますが、明智光秀の丹波攻めの際には、より攻められにくい山頂に城を築いたとのことです。それでも酒井氏は、結局は波多野氏と同時に光秀に滅ぼされてしまいます。
千年杉という名のついた二本ペアの杉の巨木
巨大な岩石が外に突き出しています。「仙の岩」と書かれていますが、「XXの覗き」のように修験者が修行に使っていたのかも知れません。
撮ってもらいました。もうちょっと先まで行けたのですがこの辺で。
岩が多いですが比較的歩きやすいです。とても楽しそうなN氏。
「卵塔群」と呼ばれる場所に出てきました。
こういった卵形の墓石を「無縫塔(むほうとう)」と呼び、僧侶の墓として使われたそうです。
愛宕堂と書かれた祠。
途中に高仙寺本堂跡に出てきました。さきほどの卵塔群は、こちらのお寺の僧侶の墓だったのでしょう。
本堂の基礎が残っています。この場所にあったのが本堂(七堂伽藍)ですが、ここ以外にも26の坊舎(僧侶が住む場所)があったらしいのでかなり大きなお寺だったのでしょう。
「大化元年に法道仙人が開基」と書いてありますが、あの大化の改新の大化は、日本の元号の一番最初ですので、かなり神話に近いです。
法道仙人という名前は初めて耳にしましたが、インド人で雲に乗って日本に渡ってこられたそうです。主に瀬戸内寄りの近畿地方で名前が聞かれるようです。
ここからは最後の名所である不動の滝に向かいます。すこしロープ場がありますが、特に難しくはありません。先日行った筱見四十八滝の方がスリリングでした。
こちらが不動の滝。
ここ数日雨が少なかったせいもあり、水量は少なかったのですが、不動の滝の名の通り、雄々しい姿です。
林道沿いに、和紙や紙幣の原料になるミツマタの大群が黄色い花を咲かせていました。いまでも紙幣の原料として活躍していますが、残念ながら、ほとんどはネパール産になっているようです。
0 件のコメント :
コメントを投稿