山背(やましろ、と読む)古道は、京都と奈良を結ぶ街道で、おおよそJR奈良線沿いの道で、城陽駅と木津駅を結ぶルートになります。
やましろ、は古事記は「山代」、日本書紀は「山背」と表記されていて、いずれも意味は、平城京から見て、すぐ北部に位置する東西の丘陵である奈良山(または平城山と書く)の後ろにある地域を指す。
今回、木津駅から出発します。これは駅にあった案内図。
最近は失礼ながら田舎の駅でもJRの駅はちょっと近代的なものが多い。やはり街づくりも、駅が立派でないと始まらないということでしょうか?
木津川市役所からスタートです。
山背古道全体図が示された案内板になっています。
木津川を渡ります。
ちょうどこのあたりで、東の伊賀のほうから流れてきた木津川が北向きに方向を変えます。川沿いは自然のままになっていてほっとさせる風景です。
路傍に咲いていたマルバルコウ。サツマイモ属だそうです。
泉橋寺(せんきょうじ)。この石地蔵は鎌倉時代に建てられたもの。でも大きなお地蔵さんってちょっと違和感ありますね。
宇治茶の茶畑ってどこにあるのかな?といつも思っていましたが、その4割を生産しているのは和束町(わづか)という場所でちょうど山背古道の東側の丘陵地帯にあります。
石碑に書いてあるのは、中国から伝わった茶が山城地方で育てられ、そこから伊賀甲賀へと伝搬、江戸時代に神戸港が開かれると輸出が急激に増加した、とのことです。
お茶の豪商として栄えたのが偲ばれる堂々とした造りの家屋。
上狛駅のそばですが、このあたりは狛氏(こまし)がなかば要塞化したような集落だったようです。上狛環濠集落跡として地図に載っています。狛氏は朝鮮由来の高麗氏(こまし)と同じとも言われていますが、茶の伝来や秦氏とも何かつながりがあるような気がします。
ときどき案内があるのですが、案内だけを当てにしていてもまずルートはたどれません。
9月下旬は彼岸花(ヒガンバナ)の季節です。街のあちこちに咲いていますが華やかです。
上狛氏が造った城壁の一部でしょうか。今は民家が建っています。
木津川の支流が多いです。
珍しい土壁の塀。まだ青い柿の実に季節を感じます。
このあたりは、奈良時代から木を伐採しすぎて土砂が川に流れて堆積したせいで、氾濫を防ぐために堤防をつくることを繰り返してきた結果、川の位置がどんどん高くなって住宅地よりもずっと上になってしまっています。
たわわに実った稲。収穫の秋です。
めずらしくカフェがあったので寄ってみようかと思いましたが祝日のせいかお休みでした。カニが描いてあるのはそばに蟹満寺があるからです。
創建が飛鳥時代と想定されている由緒ある蟹満寺(かにまんじ)。
このお寺が人気のあるのは、今昔物語集にのっている蟹の恩返しのお話のせいです。
村の娘がある日蟹を助けたところ、逆に今度は蛇に嫁入りさせられそうになった娘を蟹が助けるという話です。
でも、この話、元はというと蛇にのまれそうな蛙を助けるために、父親が「娘を嫁にやる」と蛇に約束してしまったのが発端なのです。ひどい父親です。
サルスベリの花に似ていますが多分違うと思います。
登りは必ず川の堤防です。最近は異常気象で大雨や台風が極端になってきていて、川が氾濫したら大変なことになりそうです。
以仁王の墓です。
平家物語では、以仁王よりも源頼政の話が多く出てきます。頼政は平清盛の全盛期に源氏でありながら平家に仕え続け全幅の信頼を得ていました。位は高いものの周りからは馬鹿にされ続け不遇な地位をやむなく受け入れていました。ところが、それは仮の姿で密かに平家打倒の機会をうかがっていて、平家への不満が噴出し始めると、時が来たとばかり、この以仁王を担いで氾濫を起こしたのです。
残念なことに挙兵の企みは平家の知るところとなり、宇治において頼政も以仁王も打ち取られてしまいます。でもこの反乱がきっかけに、源氏の巻き返しは本格的になり、木曽義仲や源頼朝につながっていくのです。
前日に愛宕山に登ったせいか、さすがに城陽まで歩くのはしんどいので、本日はここでストップ。玉水駅から京都へ戻りました。
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