東海道歩きシリーズです。前回は浜名湖を越えて舞阪宿まで歩きましたが、今回は島田宿までの道のりを2泊3日で歩きます。東海道の道のりもいよいよ半分を超えてきました。
全体の行程はこのようになりました。全体的にほぼ国道1号線沿いを歩く旅となり、旧街道の雰囲気も少なく面白味の少ない印象でしたが、天竜川と大井川という大河が印象的でしたし、日坂宿から大井川にかけての高台の道は緑に輝く茶畑の間の道のりが続いて、静岡県らしさを満喫できました。
2泊とも掛川駅前のホテルに宿泊しました。
- JR舞阪駅、浜松宿、天竜川、JR豊田町駅 23km、6時間
- JR豊田町駅、袋井宿、掛川宿 26km、7時間40分
- 掛川宿、日坂宿、金谷宿、大井川、島田宿、JR六合駅 24km、7時間
これが1日目のルートと記事で示した場所です。ほぼ国道1号線を歩く行程だったのであまり面白味はなく写真も少なめ。
京都から新幹線で浜松駅まで行き、そこからローカル線で10分ほど戻ると前回の終着地点の舞阪(まいさか)駅に戻りました。9時40分です。今日の天気予報は曇りのち雨で、空模様はいつ降ってきてもおかしくない様子。
JR舞阪駅の前が舞阪宿があった場所で、浜名湖の舟便である今切りの渡しを、向こう側にある新居(あらい)宿とはさんでいる形になっています。宿場町は旅籠28軒で、新居宿と同じくらいの中規模の大きさです。
名物は海苔の養殖でした。鰻の養殖は明治時代からです。
静岡県に入ると国道沿いにしばしば見かけるのが炭焼き「さわやか」。お肉の鮮度が落ちないように静岡県内に限定しているらしい。
JR高塚駅を過ぎたあたりにある可美(かみ)村の合併記念碑。明治半ばからの歴代村長の名前と、可美村にいたるまでの数々の合併の歴史がびっしりと書いてあります。
この奥に可美小学校がありますが、昔あった「みたらしの池」を埋め立てて建てられたので、運動会の日に雨が降ると古池の祟りだ、と言われると書いてある。
左が「秀衡の松」で後ろにあるのが「二つ御堂」。名前の通り二つのお堂があり、一つは病に伏していた秀衡が死んだという知らせを聞いた愛妾が立てたお堂です。実はその知らせは誤報で、病気から回復した秀衡が愛妾の優しさに感謝してもう一つのお堂を建てた。
松については、秀衡が側室の亡骸を埋めた場所に植えた木だと書かれている。
藤原秀衡は、義経をかくまって頼朝に対立した奥州の国守ですが、側室との間の子供が国衡で、家督を継いだ正室の子供の泰衡と衝突しないように、自分の正室を国衡の妻とし、泰衡と無理やり親子関係にしてしまいます。
浜松駅が近づき、線路近くの道がきれいな歩道になっているので、旧東海道から外れて歩きます。
今回の旅の主役の花はツツジです。毎年、ツツジとサツキの違いを覚えた気になって忘れますが、ツツジの方が先に咲き始めます。どっちもツツジ科なので似ていて当然なのですが、見分け方は葉っぱの質感で、ツツジの葉は柔らかいのが、サツキの葉はしっかりしていて光沢がある。
浜松駅前には多くの鰻屋さんがあって、評判の良い高級店は予約でいっぱいのようで、比較的お手頃の「中ノ庄」というお店で、うな重をいただきました。
とても美味しかったけど、前回の旅の終わりに食べた舞阪の「うな慎」の方が美味しかったかな。
うな重を食べて東海道ルートに戻ってしばらくして、なんと浜松宿を通らなかったことに気がついた。ツツジの歩道とうな重のお店を通ったので、本来の国道1号を歩かなかったからです。
チェックして見ると国道沿いの浜松宿本陣跡には看板が立っているだけのようなので「まっいいか」とそのまま進みました。いままでの街道歩きの歴史で、本陣跡を通らなかったのは初めてです。
江戸時代の名残りも消えてしまった浜松宿ですが、旅籠の数94軒に本陣が6軒と、浜松城の城下町だけあって規模の大きな宿場町でした。浜松城は前回の旅の際に訪ねましたが、小さな天守が意外でした。家康はきっと三方ヶ原の大敗の苦い思い出を引きずっていたのでしょう。
広重の浜松。宿場町から離れた場所を描いています。当時は「ざざんざの松」という有名な松の木があったそうで、旅人が焚火をしています。海からの潮風で松の葉が「ザザーン」と音をたてたのでしょうね。
遠景のように浜に多くの松が生えていたことが浜松の名称の由来になっています。
浜松のランドマークであるアクトタワー。前回の旅の最後に訪れた館山寺の展望所から見えました。
この辺りが、浜名湖の今切の渡しを通らず、浜名湖を迂回するルートである姫街道と合流する地点です。
このあたりも松並木があるが、背が高くなりすぎたのか切られている。
天竜川の治水に私財を投げうったという金原明善(きんぱらめいぜん)の正家。
金原は明治維新の頃の人で、浜松に大被害をもたらした天竜川の治水を明治新政府に訴えたが、聞き入れてもらえず、仕方がないので私財で治水工事を始めた。
ところが、ちょうど明治天皇の東京行幸が決まり、金原が整備した天竜川を明治天皇が無事に渡河することができると、金原は明治政府から大変褒められて苗字帯刀を許されたといいます。
天竜川の堤防へと続く坂。
このあたりは東海道において江戸と京の中間地点になるので、中野町(なかのまち)という町名がついています。
堤防すぐ近くにある六所神社。伊勢神宮や熱田神宮など全国6カ所の神様を集めて天竜川の氾濫や渡しの事故から人々を守った由緒ある神社です。まるでアベンジャーズですな。
江戸時代の天竜川はずっと渡し舟でした。
その後、先に通った金原明善の話で、明治元年に明治天皇による東京行幸の際に、2日間だけ舟を並べて板を敷いた舟橋が2日間だけ掛けられただけで、ちゃんとした木橋が建てられたのは明治9年になってからです。
木曽三川(揖斐川、長良川、木曽川)に続く、大河の天竜川を渡ります。天竜川は諏訪湖からほぼ真っ直ぐ南へ流れているイメージですね。八ヶ岳から西へ落ちてくる水流も合流しています。
天竜川を渡ると浜松市が終わって、磐田市に変わります。
広重の天竜川の図。天竜川は大きく二筋に分かれていて、この図は二筋の間の中州で客を待つ船頭。「見附」は次の宿場町です。
明治天皇が天竜川を控えて休憩された記念碑。休憩だけでこれだけの石碑が建てられるのがすごい。これは明治11年の碑で、すでに東京が皇居になっていて、東海道や北陸道を廻る還幸の際の石碑です。
さっきの金原明善の話は明治元年でその時はまだ京都御所が天皇のお住まいで、いつの間にか東京皇居が正式なお住まいになってしまったのは明治2年のことです。
今日は23kmほど歩いたところでJR豊田町駅で一日の終わりにします。ここから掛川駅まで20分ほどローカル線に乗り、今回の旅の宿であるドーミーインに宿泊しました。
夕食は掛川駅近くの焼き鳥屋さんでした。
➡2日目はコチラへ。




















